第一夜 ②


 携帯から『Merry Christmas Mr. Lawrence』が流れる。

 ベンは画面も見ずにスライドさせて耳に当てた。兄の好きな曲だ。「あいあい?」


『ベニー? いま何処だよ!? うはっくすぐってぇ! ちょ、いま電話してんだから待て…ああ、んまいんまい…(ゴクン) んッんんッ、悪い悪い、とりあえず早く帰ってこいよ!』


 普段耳にした事のない兄のテンションと脈絡の無さに、ベンは心配するべきか笑うべきか悩んだ。

 少なくとも楽しそうではあるが、女の子の声が、しかも複数聴こえるのは今の今までで考えられないシチュエーションだった。男同士のヤケクソパーティーだから仕事が終わったら酒と肉買って応援に来い、というのが今朝方兄から受けた特命だったのだが……。

「と、とりあえず行くけど……まだ酒買ってないよ?」

『いいんだよ何も持たなくて! こっち凄いぜ? 何でもプレゼントしてくれるサンタが現れてさ、肉も酒も金も部屋いっぱいなんだよ!』

「……はい?」

『しかも聞いて驚くな!? 女の子までプレゼントしてくれたんだよ! 超カワイイ…ああうん、キミのこと…お、やめろって電話してんだから……! つ、つーことですぐ帰れよ、お前も楽しめるぜ!』

「いや、アニ……!」

 電話は一方的に切られていた。

 ベンは頭の中が整理できず、買い物袋をぶら下げたまましばらく立ち尽くす。

 

「……サンタが現れて何でもプレゼントしてくれて肉も酒もお金も女の子も手に入った?」


 繰り返し復唱しているうちに頭が冷えてきた。

 そして答えは一つしかない。背筋も冷えてきたのは決して12月下旬の寒さのせいではない。

 そう……“ドラッグ”だ。明らかにキマってしまっている。

 凄まじく都合の良い妄想を現実と混同して電話をかけてきた兄を想うと目頭が熱くなり、胃液が込み上げてきた。25年間、ロクにモテなかった反動がクリスマスに爆発した彼を、果たして“違法”の一言で蔑むことができようか? おそらく傍には『戦友』のマシューとエディもいるのだろう。3人でプロの女の子を買って違うパーティーを始めてしまったのだ。

「マイ…ガッ……」

 神に祈っていても仕方がない。ベンは顔を上げた。湿った頬に吹きつける風があまりにも冷たい。

 幸せを演じる街の喧噪が全て他人事に思え、憎々しくすら感じられた。兄達をこんな風にしてしまったのはお前らだ、と湧きあがる怒りを理性が抑え込む。責任転嫁している場合じゃない。

 ベンは右手の買い物袋を強く握りしめた。

 兄は他にも色々な人に電話をかけてしまったかもしれず、その場合警察ポリスに踏み込まれるのも時間の問題だろう。でも誰よりも先に弟である自分が駆けつけて乱痴気騒ぎを収め痴態を隠すのだ。ひと欠片でも多く兄のプライドを衆目から護るのが自分の務めだと、急激に強い使命感が込み上げてきた。

 走りだしたベンは最初にやることを決めた。この右手に握る『七面鳥ゲンジツ』で3人の横っ面を殴り飛ばす!

 

 

 夢見心地の夜が続いていた。

 3人にとっては人生で初と言ってもいい最高の時、酒池肉林の狂宴、『生きてて良かったパーティー』だ。

 酒を浴びて、浴びるほど飲んでではなく、水浸しの床からも強烈に湧きあがってくるアルコールの匂いに酔い続ける。

 女の子達が次々に口中へ押し込んでくれる食べ物がピザなのか菓子なのか、ふわふわと漂う頭では判別できなかった。

 色々な快楽を短時間で貪りつくし、これ以上の幸せな出来事はこの先の人生に存在しないだろうと実感していた。ジェレミーも、マシューも、眼鏡を外すと意外と悪くないエディも。


 リビングの片隅にカーネルサンダース人形のように佇み、ただただ3人の喜びを優しそうな微笑みで見守っていたサンタがやおら1つ手を叩いた。

「さて、皆さんクリスマスイヴをお楽しみのところじゃが……この奇蹟はイヴの終わりと共に消滅してしまう。全ては、幻となってしまうのじゃ」


 唐突に告げられたシンデレラのようなルールに、ジェレミー達は霞のかかった頭をいくらか覚醒させられた。「イヴだけ?」

 TVの上のデジタル時計に眼を向けると23時52分。より正確な携帯を点灯させてみると、ちょうど23時50分だった。思わずジェレミーの手のひらに力が入り電話がミシリと軋む。

「ちょ、待ってくれよ…… あと10分で消えちゃうのか? この子達も、酒や食い物も……」隣の部屋へ目線を泳がせる。「……あの大金も?」

 

 サンタは静かに、深くうなずいた。

「そういうプレゼントじゃ。ただし、最後に1つ……全員で1つの願いを叶えてあげるつもりじゃ。それが本当のプレゼントになるのう… ふぉっふぉっふぉ……」

 

 数秒ほど固まっていた3人は、それぞれの彼女の肩に腕を廻したまま顔を見合わせた。ここに来てあのアイコンタクトの復活だ。そしてうなずき合うと、ソファーに腰を沈めたままジェレミーは願いを口にした。

「なら最後の願いは、これを全部置いてってくれ…というのはどうだ? 女の子も、まだ食ってない飯も酒も、そしてあの大金も、あんたが今夜出したくれたもの全部このままにしてくれ」

 マシューもエディも異論は挟まなかった。

 

 サンタが髭の奥で小さく口元を歪める。瞳が一瞬赤く煌めいたのは明かりの加減か、それとも……

「つまり…… 今夜の幸せな時間を、……と?」

 彼の声は相変わらず低くしわがれた優しい響きだった。だがそこにほんの微かに甘ったるい色が漂っていることに、3人の誰も気付ける状態になかった。そして、

「YES.」

 ほぼ同時に声を揃えて返答した。

 

 サンタの顔中に刻まれた皺がひと際深くなる。

 瞳の輪郭を露わにするほど目は大きく開き、白く蓄えられた髭の上からもはっきり判るほど口の端が吊りあがった。

 それは紛れもない喜悦の笑み。これまでずっと湛えていた好々爺の穏やかな微笑みとは完全に別物の狂嗤きょうし

「――その願いを待っていた」


 この瞬間、3人の背筋をたとえようもない悪寒が駆け上がる。

 目の前のサンタの声は老人のものではなく、それどころかどんな人間からも聴いた事のない声だった。幾つもの低音階を重ね合わせたような、どこまでも深くくらい洞穴の奥底から反響してきた、濃厚な不吉を孕む人外のうなり。

「ひぃッ……!」

 マシューの喉元から本人の意思を無視して脆弱な悲鳴があがる。それを絞り出したのは彼が見つめるサンタの瞳。恐ろしいほど真っ赤に輝いた2つの瞳。

 突然ジェレミーの右手の中で携帯が鳴りだし、全員が猫のように肩を跳ねさせた。誰に祝いのメールを送るわけでもないのにセットしていた『戦場のメリークリスマス』。

 聖誕祭クリスマスを告げる、12月25日0時のアラーム。

 

「さぁ、最後のプレゼント……『永遠』だ―――。」

 

 サンタが宣言した瞬間に、今夜与えられた全ての品が姿を変えた。いや、を見せた。

 酒の瓶や缶が生き物のように震え出し、飲みかけのものも、まだ開けていないものも、パキパキと容器の途中から縦に割れてギザギザに鋭く尖った冷たい刃を噛み鳴らす。

 肉もハンバーガーもピザもパスタも一斉に蠢き始め、並べたナイフや剣山のような絶望的に鋭利な牙と棘を生やす。

 床に薄い膜を作っていたビールやシャンパン、ワインまでもが巻きつくように足を這いあがり、捕食者の立場を逆転させて肌に焼けるような痛みを刻みつけてきた。

 3人の狂乱の悲鳴をかき消す金属音の洪水が隣室から溢れ出し、縁取りが剃刀カミソリと化した数えきれないドル紙幣がリビングに飛来して竜巻となる。

 しかし彼らに最後の正気を失わせる最大の恐怖は、この瞬間まで強く抱き寄せていた美少女達だった。

 視界の中、自分以外の2人が抱いている少女が血飛沫をあげながら信じられないほど顎を割り開くのが見えた。そこに生えているのは舌を絡めながら何度もぶつけあった白く美しい歯ではなく、近いものをあげるなら大蛇の牙。その醜悪な細長い牙がぞろりと並んで友人の首や腕へ向けられた。つまり、自分が密着するほど引き寄せているこの肢体も今まさに……。

 鈴を震わせながら響くホイッスルに似た甲高い絶叫を合図にして、その悪夢の嵐が一斉に3人へと殺到した―――。

 

 

 

 

 

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