第5話:薬草園



ジズが地上に赴いたのは十五の頃、地上にあるという《ナディ》を求めて《コバルティア》を飛び出した。今から七年前のことである。


《ナディ》の花の話は民であれば皆知っている物語であるが、それが実在している花なのかどうかは確認されていなかった。《ナディ》を求めて地上へ向かった者たちも、手がかりすら見つけることができなかった。やはりそんな花など存在しない、生きたくても生きられぬ者たちが考え、創り上げた想像上でしか存在しない花、所詮は絵空事である、と、この頃では誰もが《希望》を捨て始めていた。


そんな今、《ナディ》を探して出ていったジズが昏睡状態で帰ってきた。彼の帰郷が民らにとってどのような意味を持っているのか、誰もが考えずにはいられまい。やはり……と失望を抱く者、もしや……と希望を抱く者。その双方の想いが交差し、彼の帰郷の話は瞬く間に《コバルティア》の全階層に伝えられた。


もちろん、《族長》の元にもである。彼はすかさず自分の力で延命させた医者にしてジズの師であるカダベルに至急彼の容態を診るように命じた。



彼はこうして第三階層で待っていたのである。



そして、今まさに一行の目の前に佇む青年はカダベルと己の名を名乗ると、ちょっと失礼、と断ってからジズの腰のポーチを開き、一つの帳面を取り出した。そう、巡礼終盤でジズが何かを書き付けていたあの帳面を……。


彼は黙ってその帳面を開いて、それから表情を硬くした。


「……これは、慢性の《ローゼラ中毒》だね。全く、自分で作った《ファテラピロン》飲まないで何やってるんだか……」


帳面を片手に持ったまま、彼は次に肩掛け鞄から薬とおぼしき液体の入った注射器を取り出しジズの腕にうった。条件反射か手はピクリと動くが、ジズの意識は回復しない。


「歩きながら話そうか」


カダベルが一行を促し、ロコとイリア、そしてエレオスは彼の後に続いて歩き出した。


ジズの喀血は《廻廊》を抜けてからほとんどなくなっていた。呼吸も先程の注射をうってからは浅く短い調子から深く長いものへと変化している。顔色は悪いが苦悶の表情はない。


それはそう、まるで眠っているようであった。



「さっき射ったのは何?」


「あぁ、《ローゼラ》の拮抗薬だよ。遮断薬とも言うね。《ハイラゼル》って言う薬で、《ローゼラ》の起こす副作用のうち、特に喘息を和らげる効果があるんだ」


喘息は気管支周りの筋肉が痙攣して収縮したり、粘膜が腫れたりして空気の通り道が少なくなることで、呼吸に支障をきたす症状のことだ。《ローゼラ》を継続的に摂取していると、徐々に気管支周辺の細胞が破壊され、喀血を起こすようになるらしい。その進行を抑えるために、《ローゼラ》の成分を遮断する薬を射ったのだと言う。


「でも、これは本当に簡単な応急手当に過ぎない。意識が戻らないということは、症状の進行を意味する。効果が切れたらまた喀血や喘息の症状が出る可能性はある。油断はできないよ」


ということでだ。エレオス、君はジズが最後にいつ《ローゼラ》を飲んだかわかるかい?


昏睡状態のジズ。相当弱っているであろう彼の体に薬を過剰投与することは危険である。拮抗薬とはいえ、《ローゼラ》の効果を抑えることができる《ハイラゼル》とて劇薬には変わりないのだ。


故に血中の《ローゼラ》濃度や服薬からの時間、症状の進行具合などを知ることは治療のための重要な手がかりだ。しかし、それを聞かれた当のエレオスは首を左右に振って見せた。


《知らねぇよ、そんなこと。……でもきっと帳面通りのはずだとは思うぞ。あいつは俺らよりも《ローゼラ》に依存してた分、あんたの言いつけ通りちゃんと記録つけてたしな》


そう、ジズが帳面に記録していたのは《ローゼラ》を始めとするあらゆる薬の服薬記録だった。


《コバルティアの民》は長年地下で生きてきたため、地上ではまず聞かないような疾患を生まれつき持つ者が多かった。そのため彼らは一人一人、薬の種類、量、服薬方法、頻度等を詳しく記した帳面をいつも持ち歩いている。中でもジズは医者であるため、誰よりも薬の副作用や中毒症状に気を使っていた。特に命を脅かす危険性の高い《ローゼラ》に関しては、服薬時間、服薬量、解脱症状の有無、効果が切れるまでの時間等を神経質なぐらい事細かに帳面に記していた。


「そうか。……では、貴方たちは最後いつジズが煙管を飲んでいるのをご覧に?」


「私が最後に見たのは明け方だ。残る七本の《メルディ》を探すため、小屋を出てまもなく。そのあとは見ていない」


「では、この帳面の記録と合致するね。良かった」


カダベルは納得したように頷く。助かる?と不安げに問いかけてくるイリアに、医師はたらればで判断はしないんだよ、と何処かで聞いたような言葉を彼は口にした。


足早に進むカダベルに続いて行くと、やがてたくさんの草花と小さな木々が茂る庭園のような風景が見えてきた。彼処がジズがずっと守り続けてきた場所、古今東西のあらゆる薬草を育てている恐らく世界最高峰の《薬草園》だとカダベルは言う。


「併設されている診療所があるから、まずはそこに行くよ」


鉄製の門扉を開き、優しい香りに満たされたその空間に足を踏み入れる。地下だというのに白い翅虫たちが無数に飛び交い、小さな鳥たちがとりどりの花の蜜を美味しそうに飲んでいる。その真ん中を突っ切るようにして通された煉瓦の道を歩いていると、ふいにジズの目許に翅虫が一匹フワリと舞い降りた。


「きっと、おかえりなさい、って言っているのかもね。ジズはずっとここで育ったから」


カダベルは懐かしそうに言うが、感傷にふけってる場合じゃないね、とすぐにそう言って真剣な表情をこしらえた。


「あの家だ、彼処が診療所だよ。必要な薬草も医療機具も全てここに揃えてある」


さあ、何としても救い上げるよ。


彼の言葉にロコとイリアが頷く。特にイリアの目の最奥には強い意思の光が灯り煌めいていた。



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