第11話:ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
「はぁい」
私は、ちょっと気の抜けた返事で自宅を出る。
まだ、12月に入ったばかりだというのに結構寒い。
今日は特にそうみたい。朝のニュースの天気予報で、
『今年一番の寒気がかなり南下していて、太平洋側もかなり冷えます。注意してください』
って言っていた。
私は、首に巻いているマフラーをしっかり巻いて、首元に空気が入らないようにすると、
「はぁ」
と、ため息をついた。その吐息は白い
いつもは、歩夢と同じ時間の電車に乗って、話をしながら通学するんだけれど、今日はとてもそんな気分じゃない。
遅刻覚悟で2本ぐらい電車の時間をずらした。母さんもそれは分かってるみたいで、別に
♪・♪・♪
正直に言うと
それは当たり前よね。
『歩夢に嫌われたかなあ』
それしか、頭には浮かばなかった。
目が覚めたら、歩夢の中学時代のジャージを着て、歩夢のベットで寝ちゃってて……
『記憶のない時に、私何かした?』
って聞いても歩夢はニコニコしながら、
『何もないよ、大丈夫、安心して』
の、一点張り。
『楓がこれしたんだよ』
って、ゼスチャーで教えてくれて……
すっごく恥ずかしくて、また布団の中に潜り込んだもん。
こんな大失態したんだから、逆に優しくしないで怒ってくれた方が、よほど気が楽なんだけどな。
チューハイって始めの時は、飲みやすく、すぐハイな気分になれた。
すごく自由な気分、とても気持ちよくて楽しかったけど、眠りから覚めた途端、頭ガンガン痛くて、気持ち悪くて、吐き気がひどくて、やらかした失態もひどくて……
お酒、早かったのかな。はじめは由奈の言う通り楽しくなれる飲み物だなと思ったんだけど、今は本当に最低な気分。
♪・♪・♪
学校について、教室の席に座ると、他の子たちが私の方を見て何かひそひそ話をしている。
まあ、この私を見ればそうよね。
でも私は、由奈以外あまり親しいと言える友達を作っていない。だから周りからはそう見られるだけ。別にいいんだけどね。
でも、正直いい気分じゃない。
そんな中、一人のクラスメイトが近づいてきて、
「皆木さん、大丈夫? その顔どうしたの?」
何かよそよそしく、オドオドと
「別に大したことないよ、ちょっと色々あってさ。心配してくれてありがとう」
「う、うん。分かった、お大事にね」
彼女はそう言うと、親しい友達のグループに戻っていった。
『何か聞き出してきなよ』
とも言われたのかな。そんな集団意識、私は嫌い。
だから、さばさばしていて付き合って気持ちのいい由奈ぐらいとしか、付き合っていない。
そう思っていた時だった。
「楓!! どうしたのその顔、左頬がめっちゃ腫れてるやん!!」
「誰にやられたの!!」
ものすごい剣幕で、隣の教室の由奈が入り口から私の席まで突進してきた。
「何変な関西弁使ってるの?」
「もしかして、アユムっていう幼馴染? 私がいっぺんぶん殴りに行こうか?」
「由奈、そんなに焦って早とちりしないで。」
「え、でもその顔……」
「大丈夫、これは父さんにきつく怒られて、思いっきりビンタ食らったの。」
私は微笑みながら由奈に言った。
「え、そうなの? 楓のお父さん怒ると暴力振るうの?」
「暴力じゃないよ。叩かれるだけのことを私がしたため。父さんは、悪くないよ」
「とにかく大丈夫だから、安心して。」
「楓がそう言うなら、納得するけど、ちょっとひどくないかなあ」
「まぁ、娘に手を挙げるお父さんなんて、今時珍しいかもね」
私は苦笑いをしながら答えた。
キン・コン・カン・コーン
「由奈、ショートホームルームの時間始まっちゃうから自分の教室に戻りな。詳しい話は放課後、ピアノ専攻科専用の音楽室で説明するから。」
「うん、分かったよ。何があったのかちゃんと教えてね。これでも心配してんだからさ!」
「充分解ってます。ありがと」
そう話し終わると、由奈はクラスの子たちの視線なんかまったく気にせず、自分の教室に戻っていった。そんな由奈を見ていると、
『自立しているな』
と思うと同時に、
『周りを気にせず、私を心配してくれる由奈に感謝しないといけないな』
と、心の奥から感じ、感謝した。
♪・♪・♪
今日の授業も清掃も終わり、私は今日の荷物を
職員室から『自主トレで音楽室を使います』と断り、鍵を借りると、そのまま音楽室に行き、鍵を開けて中に入った。
このピアノ専攻科専用の音楽室は、通常の音楽室とは違って、そんなには大きくないがグランドピアノが二つ並んで置いてある。
そしてその先に専攻科の学生が座れるように椅子が並べられている。
要は先生と生徒がちゃんと連弾できるように配置されていて、他の生徒はそれを聞きながら勉強できるようになっているのだ。
通常の音楽室は、ブラスバンド部や軽音楽部が使用したりするけど、この部屋は基本、ピアノ専攻科の生徒しか使えない。
放課後はピアノ練習のみ貸し出すようになっているので、とても静かで由奈と話す場所にはもってこいだと思ったのだ。
私は、荷物を生徒が弾く用のピアノの脇に置き、ピアノ椅子に座ると高さ調整と座る位置のポジションチェックをした。
いつでも弾ける状態にして、ふと窓際の外の空を見る。冬晴れの青い空が澄み切っていた。
そんな時悔しいぐらいに、
……アユム……
この名前が頭を駆け巡る。
辛かった。
ただの幼馴染で私が助けることの方が多かった、本当に私の弟と言っていいいぐらいの男の子。
何も取り柄という取り柄もなく、私の後ばっかりついてきた歩夢。
中学時代は歩夢も私も変に意識しちゃって、学校では
ただそれだけなのに、高校に行って彼女が出来たと聞いたとき、私はどうしていいか分からないぐらいパニクった。
大事なものが離れていくような気がして、不安でしょうがなかった、
初めてそう思った。悲しかった。
でもこの前別れたと聞いたとき、恥ずかしい話、私は救われた気分だった。
一緒に映画館に行ったとき、思い切って手を重ねた。嫌がられて、嫌われるかもと思い悩んだけれど、歩夢はそのままにしてくれた。その後も、手もつないでリードさえしてくれた。初めて男の子とつなぐ手。小さい時のそれではなく、物心ついた女子と男子がつなぐ手。
『歩夢、分かってるの?』
『歩夢の行動がどんどん私を……』
どうしてもその先の言葉が解っていても、自分の気持ちの中で納得して言えなかった。
もしそのあとの言葉を、私が納得して使ってしまったら、もう歩夢とはいつものドタバタ幼馴染の仲良しでは、無くなってしまいそうで、怖かった。
♪・♪・♪
私は鍵盤に指を落とした。素直な私の思い。ベートーベンの曲をこのピアノに歌ってもらおうと思った。
「ベートーベン ピアノソナタ 第8番「悲愴」第2楽章」
初めは、ゆったりといて、男性の音域から始める旋律。その後女性の音域に上がって流れてゆき、そのメロディーは心の気持ちを吸いとってゆくように優しい。
途中、悲しげな短調に入るけれど、また初めの優しくも切なげな旋律に戻る。そのあとも、心をそわそわせる短調に入るが、後半は初めの旋律に変調が加わって華やかで厚みのある音が流れてゆく。そして最後は、優しく、相手を思いやるがごとくに優しく、静かに曲が終わってゆく。
私は無心になってこの曲を弾いた。そう、この曲を弾いている時、私は、歩夢に対する思ってはいけないと考えている感情を、まるで優しく慰めるかのように弾いていた。
私はこの曲が昔から好きで、今は暗譜でいつでも弾ける。
でもこんな悲しい気持ちで弾いたのは初めてだった。
「か・え・で」
「聴いていたよ、『ピアノソナタ「悲愴」第2楽章』 前に大好きな曲って言ってたよね。」
「今の第2楽章は、とても切なくて…… どうしたの?」
由奈が、音楽室の入ったところから私に向かって話しかけてくれた。
「聴いてくれてたんだ。」
「楓の弾く曲は、お金を払わないといけないぐらい素晴らしいからね。」
「やめてよ、そんなに持ち上げるの。本気にするぞ」
「いいよ」
そう言いながら由奈はゆっくりと歩いてきて、ピアノ椅子に座ってる私の背中側から両肩にゆっくりと手を置いた。
「由奈」
「なあに」
「わたし、怖いの。幼馴染の歩夢って言いう男の子に対する、私の素直な気持ちの言葉を、心の中で言えないの」
「なんで?」
「もし私がこの感情を肯定したら、もう幼馴染として付き合っていけない気がして怖いの。」
「今まで楽しくやってた二人に戻れなくなって、もし、何かぎくしゃくするようなことがあったら…… 」
「それなら、このまま楽しい幼馴染の二人組の方がいいかなっと思って……」
「でも…… でも……」
いつの間にか、私は涙がボロボロと
「かえで…… 好きって気持ち、抑えてたら楓おかしくなっちゃうよ。」
「いいじゃん、好きで。自分の気持ち、もう認めよう。もう限界だよ。『何か起きたらもう幼馴染としても付き合えない』と考えるより、『私が好きなんだから光栄に思え』ぐらいに思っていこうよ。」
「そんな後ろ向きの楓は楓らしくないよ。」
由奈は優しくハンカチで私の涙を拭いてくれた。
「楓、安心して。私がいるから。自分の気持ちに素直に好きと言い聞かせて」
「もう我慢している楓を見ているの、私もつらいよ」
由奈はそう言うと私を正面から抱きしめてくれた。
『何て暖かいんだろう』
そう思うと、私の心はどんどん緩んでくる。今まで締め付けていた心の鎖がほどけていくよう。
「由奈…… 私、素直に言うね」
「うん」
由奈の瞳もうっすらと潤んでいた。
「私ね」
「うん」
「幼馴染の歩夢が…… 好き……」
顔がとても熱くなった感じがした。ちょっとドキドキしている。
「たとえ結果どうなっても、私、歩夢が好きになっちゃった」
私が笑顔でそう言うと、由奈も笑顔になり
「女にとって好きは一番のオシャレのもとだからね! その気持ち大事にするんだよ!!」
そう言い終わると、また二人して抱きしめ合った。
親友がこんなにも頼りになる、心の支えになる、理解しあえるとは正直ここまで思っていなかった。
音楽室の外はもう夕暮れになっていた。
校舎の街路灯が点滅し始めた。由奈とは言葉を交わすことなく、自然と決まったお約束事のように片付けはじめ、ピアノ専攻科専用の音楽室の鍵を閉め廊下を歩き始めた。
私は歩夢が好き。大好き。
ただそれだけのことだったんだ。
♪・♪・♪ To be continued ♪・♪・♪
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