第31話 〈十一年前〉

 刹那、目の前が暗くなった。


 気がつけば、汗だくで城の中を走っていた。


 ああそうか、これは夢なのだと、その時ようやく気がついた。


 寝室に飛び込むと、腸を地面にぶちまけるアイーダがいた。横たえ、ひゅーひゅーと息をしていた。


「アイーダ!」


 彼女の身体を抱き上げた。三十五歳になった彼女だが、それでも昔と変わらぬ美しい。そんな彼女が今、命を失おうとしていた。


「アナタ……」

「どうして! どうしてこんなことに……!」

「さあ、どうして、でしょうね」

「クソっ! もう喋らなくてもいい! 俺がなんとかする!」

「もう、無理よ。目もほとんど、見えないの」

「そんな馬鹿なことあるものか! 俺の魔力ならなんでもできる!」

「お医者さんが言ってた。血を流しすぎてるんだって。輸血しても、もう魂が身体から離れかけてるから、そればっかりは魔法でも無理なんだって」


 そこで、エリックはなにかを察した。握りこぶしを震わせ、その握りこぶしを力なく解いた。彼の中にあったのは諦め、脱力、そして理解だった。


「なんでだ、なんでだよ。なんでお前なんだ。なんで俺がいない時に限って、なんで……」


 アイーダの頬を何度も撫でた。ポタリポタリと、彼女の顔に雫が落ちる。それが自分の物だと気がつくまでに少しの時間を要した。


 泣いているエリックの頬に、アイーダの手が伸びてきた。弱々しく、けれど優しくその頬を何度も撫でた。


「俺はこんな形でお前を看取るために嫁にしたんじゃない! お前には余生を全うしてもらいたかったんだよ! エルキナだってまだ幼いんだ! お前が必要なんだよ!」

「ねえ、よく、聞いて」


 徐々に小さくなる言葉。顔に顔を寄せて、一語一句聞き逃さないようにと身構えた。


「私はとても幸せだった。アナタは、幸せだった?」

「ああ、幸せだったよ。お前との日常は宝物だ。結婚する前から、俺はお前を愛してる」

「そう、ありがとう。私はいなくなってしまうけれど、アナタにはあの子たちがいるわ。私が腹を痛め、私が産んだ、私の可愛い四人の分身。あの子たちのこと、お願いね?」


 言いたくない。こんなこと言いたくはないけれど、言うしかなかった。


「ああ、俺が責任を持って育てる。まっすぐに育つように、尽力するさ」

「それと、絶対に憎んではダメよ。あの子たちに誰かを憎んでいる姿を見せてはダメ。アナタはアナタらしく、ずっと、かっこいいアナタでいてね?」

「ああ、約束する。身なりにもちゃんと気を付ける。お前にも、子どもたちにも誇れる父親であり続けるさ」

「そうね、アナタなら、無茶でもやりそうだわ」


 ふうと一息つき、苦しそうに顔を歪めた。眉間に刻まれたシワの間に汗が滲んでいた。


「アナタ、ヒゲが似合うようになったわね」

「お前はシワができても綺麗だよ」

「いやだわ、私はいつだって超絶美人なんだから」

「ああそうだよ、俺の理想の嫁さんだ」

「ねえエリック、ぎゅってしてよ」


 アイーダの身体を抱きしめた。背中に回した手がぬるりと滑った。これほどまでに出血しているのかと、ここでようやく知った。


「きにやまないで。あいして、いるわ」


 小さくなっていく声。細くなる吐息。消えていく鼓動。


「俺もだ! 俺も愛してる! お前が死んでもお前を一生愛してる!」


 彼女の手がスルリと地面に落ちた。


「ああ……ああ……そんな馬鹿なこと……」


 何度も頬を撫でた。何度もキスをした。けれどアイーダの目が開くことはなかった。


 目をキツく閉じ、死を受け入れるのと同時に自分の愚かさを悔いた。なぜ城にいなかったのかと。なぜ側にいてやらなかったのだと。


 彼女の死を目の当たりにし、エリックは今までにないほどに咆哮した。


 憎い、憎い。アイーダを殺したヤツが憎い。


 殺したい、殺したい。腹をかっさばき、同じ痛みを味あわせたい。


 しかし、そんなことは許されない。もうここにはいない、愛する妻と約束したのだ。


 だから吠えた。その約束を破らないようにと、自分にケジメをつけるために。


 いつか、どんな形であっても仇は討つ。そのために、自分が自分で居続けるための努力をしよう。


 涙を流しながら、エリックはもう一度アイーダを抱きしめた。きっとこれが最後の抱擁になるだろう。冷たくなっていく彼女の身体を抱き、エリックは強く下唇を噛んだ。

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