第30話 〈二十七年前―二十六年前〉
それから三年、魔王としての仕事に追われて休養などできなかった。アイーダのことを忘れたわけではないが、問題があった場合自分で赴く性格なので、ほとんど暇がなかったのだ。
夕食後、自室で親書を書いていると部屋のドアがノックされた。「入れ」と言うと、ドルキアスが固い面持ちで入ってきた。
「魔王さま、少しよろしいでしょうか」
よろしいでしょうか、と言いながらも勝手に喋るつもりだと言わんばかりの圧力があった。十三歳にしては迫力がある。
「どうしたんだそんな顔して。言いたいことがあれば言ってみろ」
「単刀直入に言いますが、エスカラードのことでお耳に入れておいて欲しいと」
「エスカラードか。久しく行ってないな。今度行くか?」
「いえ、そのエスカラードですが、先日、滅びました」
紙の上を走っていたペンが止まった。ドルキアスへと顔を向けてじっと見つめた。
「なんかの冗談か?」
「冗談ではありません。二週間ほど前から疫病が流行し始め、帝王はすぐに周囲を封鎖したのですが、疫病の感染が早かったのとあまりにも早く住民が死んでしまったようです。いざとなったら魔王さまに協力を要請するつもりだったとおっしゃっていました」
「二週間で全滅? そんなこと、ありえるのかよ」
「どうやら突然変異のウイルスのようです。温泉が原因ではないかと。正確には温泉の成分となにかが混じり、変異したのではないかと思われます」
「……エスカラードに向かう。お前はここで待機だ」
「ワタクシも行きます」
「俺の速度についてこられないだろ」
「……はい、ではあとのことはお任せください」
「ああ、行ってくる」
窓を開け放ち、そのまま外へと飛び出した。
地面に着地することはなかった。風を操って飛行を続ける。魔動車では何時間もかかる距離だが、エリックほどの魔力を持つ者であれば数十分もかからないだろう。
二十分後にはエスカラードに到着し、町の入口に立っていた。
町はしんと静まり返り、どこの家からも光が消えてしまっていた。町の入り口からでもわかるほどの腐臭。虫が飛び交う音も聞こえていた。
右に左にと首を動かしながら町を進む。三年前に来た頃は温泉街として賑わっていた。住民も冒険者も楽しそうだった。旅行に来たであろう人たちの笑顔もあった。それが今では死の町に囚われてしまっている。
三年前に泊まった宿屋に入った。一部屋一部屋回ってみるが客室には誰もいなかった。だが、主人たちが暮らしていたであろう居住区には二つの遺体があった。半分以上虫に食い荒らされていたが、ベッドの上で仲良く寄り添って寝ていた。
「二人……アイーダはどこだ……」
急いで宿を出た。
行く場所があればきっと一つしかない。
全力で足を動かして診療所へ。しかし、診療所にはたくさんの遺体があり、誰が誰なのかさえわからない状態だった。この状況でアイーダを探すのは困難だった。
診療所から出てため息を吐いた。弔ってやりたいが、自分ひとりでは無理がある。帝王に話をして、病原体に強い魔族を派遣して墓を作ってやるのがいいだろうと、そう考えた。
その時、森の中で光を見た。光というよりは火だ。赤く黄色い光が森の中へと入っていく。
不審に思いながらもその光を追った。
光の動きが止まり、その光に向かって近づいていった。
大きな湖があった。湖の前で松明を持った女性が一人。見覚えがある後ろ姿だった。
「アイーダ……」
エリックがそうつぶやくと、女性の肩がビクリと跳ねた。そして、こちらを振り向く。
松明の火に照らされた彼女の顔は酷いものだった。虚ろな瞳、目の下にはクマができ、頬はやせこけていた。
「え、りっく?」
「ああ、俺だ。よく覚えてたな」
彼女が力を失い、その場でしゃがみこんでしまう。急いで駆け寄り、彼女の身体を支えた。
「なにがあったんだ」
「病気だって。みんな倒れちゃった。みんな死んじゃった。頑張って看病したんだよ。お父さんもお母さんも、おばあちゃんもおじいちゃんも。診療所に泊まり込んで看病した。でも誰も治ってくれなかった。どの薬もきかなくて、帝国兵の人たちもいろいろやってくれたけど、それでも誰も治らなかった」
大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。
首にかけられたペンダント。それはエリックがアイーダに贈ったものだった。渡した時は白かったペンダントは真っ黒に変色していた。
魔獣の骨から作った魔除けのお守り。アイーダを疫病から守り、そしてアイーダを孤独にした原因でもある。
彼女が死ななかったのは幸いだった。真っ黒になっているということは、魔除けのお守りの限界が近いということでもあった。しかし、彼女を孤独にしてよかったのかと、エリックは頭を悩ませた。どちらをとってもいいことにはならない。だからこそ、自分の行いが正しかったのかと悩むのだ。
「誰も救えなかった。私の頑張りが足りなかったのかな。なにか他にできることがあったのかな」
彼女の胸中がわからないわけではない。子供の頃の自分がそうだった。なにもできなかった。けれど自分のせいではない。自分のせいではないけれど、自分だけが生き残ってしまった。それはつまり「自分ならばなんとかできたのではないか」という自責の念だけが残ってしまうことになる。
「お前は悪くない」
「でも私だけが残った」
「そうだよ、お前は生きてる」
「なんで私だけが残ったの! お父さんもお母さんも苦しんでた! ご飯も食べてくれなくなって、いつの間にか動かなくなっちゃった! なんで! なんでなの!」
力なく、何度もエリックの胸を拳で叩く。痛くはないが、痛かった。
「それでもお前は生き残ったんだよ。辛かったろう、苦しかっただろう。それでもお前にだけは生きる権利があるんだよ」
「アンタになにがわかるのよ!」
「――俺の両親と妹は目の前で殺された。だから少なくとも、多少だがわかってやれる。自分だけ生き残ってしまったことに罪悪感を感じることもある。なんで自分だけなんだと泣き叫びそうな時もある。今もだ。それでも、なんの因果か生きてるんだよ」
「生きるのがこんなに苦しいなら、私は生きなくてもいいよ。みんな死んじゃうんだよ。私よりも早く死んじゃうんだ。そんなの、もうやだよ……」
子供のように泣きじゃくる彼女を見て、彼女がまだ十代であることを思い出した。大人びた顔立ちや雰囲気はあるが、それでも経験不足な十代なのだ。
エリックは大きな体でアイーダを抱きしめた。壊れないように、優しく包み込んだ。
「人の死を見たくないのなら俺の側にいろ」
「なに、そのプロポーズ」
「俺の方が年上だが、俺は魔王だ。だから確実にお前より長く生きるぞ。お前は死を見なくてもいい。だから俺の側にいろ。俺の、嫁になれ」
「魔王だなんて、誰がそんなの信じろっていうのよ」
「今は信じてくれなくていい。これから魔王城に行ってそれを証明してやる。証明できたら、俺と一緒に人生を歩いてくれるか?」
この時はまだ、彼女に対しての気持ちは定まっていなかった。本来エリックが持つ優しさが優先されたからだ。
「魔王城に行って、私の気持ちがアンタに向かなかったら?」
「待つさ。いつまでも待つ」
抱擁を解き、今度は彼女を抱きかかえた。
「心配しなくていい。俺は魔王だが、悪いヤツじゃないって思ってる」
「自分で、言うなよ……」
その言葉を最後に、彼女は眠ってしまった。体も心も限界がきていたのだろう。
アイーダを抱いたまま、来た時の数倍の時間をかけて魔王城まで戻った。
侍女や執事には事情を説明して部屋を用意させた。まだ婚約を済ませていないので客人という扱いになる。
ドルキアスに「起きたら飯を食わせてやれ。それと風呂だ」と言い、エリックは自室に戻った。エスカラードの件を帝王に話をしなければいけない。そのために新しい書類を書かなければならないのだ。
こうして、元あった仕事と共に書類を書き、帝王に届けさせた。
その後太陽が上り始めた頃、疲れ果てたエリックは泥のように眠るのだった。
それからが大変だった。アイーダは徐々に元気になり、城の仕事を進んでやるようになった。客人だからという周りの言葉も無視し「やりたいことをやるのだ」と、掃除に料理に洗濯にと駆けずり回った。
エリックは言う。「もう少し大人しくしたらどうか」と。
アイーダは言う。「そんなの私じゃないでしょう?」と。
だからエリックは彼女の好きにさせた。そうすることで少しでも気持ちを保てるなら、と。
それから一年後、エリックとアイーダは結婚した。付き合うというほどの付き合いはほとんどなかった。ただアイーダがどこかに行きたいと言えば連れて行き、なにかが欲しいと言えば買い与えた。その代わり、エリックが疲れて帰って来た時、アイーダはその献身さで疲れを癒やした。食事を作り、頭を撫で、話を聞いた。
こういう関係も悪くない。そう思っていたのだが、アイーダが急に「私を嫁にしなさい」と言い出した。そこからは急速に話が進んだ。
結婚式が終わったあと、二人はエリックの部屋にいた。ベッドに座り、お互いに手を握り合っていた。
「どうして俺と結婚しようと思った? あんなに微妙そうな顔してたのに」
「うーん、アナタの言うことなら信じられるかなって。本当に魔王だったし」
「あんなところで嘘をついてどうするんだよ」
「私ってほら、美人だから、引く手数多っていうか」
「あんなにボロボロで美人もクソもなかったぞ」
「そんな私にプロポーズしたくせに」
「まあ、ボロボロでもお前はお前だからな」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。でもね、本当はちょっと違うんだ」
「違うって、なにが?」
「アナタがとてもいい人だったから。言ったことは守るし、お城の人には好かれてるし。魔王がどうのっていうか、その人柄がいいんだなって」
「照れるからやめてくれ」
「自分から言い出しておいてなに言ってるの?」
「悪かったと思ってる」
「むー!」
手を離し、エリックの頬を両手で押さえ込んだ。
「な、なにするんだよ」
「そういうところも可愛いんだ。だから私と一緒にいてね」
「ああ、ずっと一緒にいる。お前の死は俺が看取る。お前には幸せなまま死んでもらいたいからな」
「ええ、ありがとう。でも私の遺灰はエスカラードに埋めてね」
「そういう約束だったからな。でも、なんでだ?」
「あそこには私が生きてきた「思い」があるから。私が悔しいと思った気持ちも、辛いと思った気持ちも詰まってるから。その「思い」と一緒に眠りたい」
「わかった、約束しよう」
「アナタなら、どこまでも信じられそうな気がするわ」
そう言って、口づけをした。
ああ、こんな幸せがいつまでも続けばいいと、エリックは心の底から願った。そんなことがあるはずない。わかっていても望んでしまう。愛する女性といつまでも、こうしていたいと思ってしまう。
だからこれからも頑張るのだ。夫として、魔王として。彼女を敬い、彼女を愛し、人々のために、自分のために。
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