後編・時の支配者
「……はぁ、つまらないことを考えてしまった。まったく、君は大したものだよ」
僕は傍らに座る彼の頭に手を置いた。
「俺、何もしてないけど」
少年は僕の手から逃れるべく避けてしまう。
「いいや、この僕を悩ませるなど凄いことだ。君、いつかそのうち僕の助手にならないかい?」
「はぁ?」
僕の高揚とは裏腹に、少年はとても煩わしげに顔をしかめてきた。しかし、僕は構わず彼の顔を覗き込む。
「いつの日か、僕が研究員に飽きた時、君を助手に……そうだなぁ……探偵でも始めてみたいものだね。きっと楽しいだろう」
「………」
フードの下にある褐色は未だ暗い。
「ん? 君はポワロを知らないのか」
「いや……あぁ、うん。知らないけど。話が飛びすぎて意味わかんねぇ」
「そうか……まぁ、いずれは分かるだろう。もう少し大きくなってからだな」
「だとしても御免だよ。絶対やだ」
ムキに言うと、少年はふわりと幹から飛び降りた。そして、僕を見上げて手を伸ばす。手のひらで何かを握るように見せると――幹がバキバキと音を立てて折れた。
当然、僕の身体は支えるものがないから、ぐらりと傾いていく。落ちる。落ちていく。
たったの数秒ほどの出来事であるはずが、僕の体感では数分のよう。幸い、地面は柔らかい芝であるので僕は尻を打っただけで何事もなかった。
それに、彼の能力を目の当たりにして何やらウズウズと興奮が湧き上がってくる。
「君、ただの念力ではないのだな!」
僕はすくりと立ち上がると、あざ笑うようにこちらを見ていた少年に詰め寄った。彼はすぐに笑いを引っ込める。
「ねんりき……?」
「そうだ。念動力。しかし、今のはなんだかそれとは違って見えた。少なくとも、僕が知っているものとは違う!」
だが、この高揚とは対象に、少年はそろりと一歩ずつ後ずさっていく。だから自然と僕の足は前へ進む。距離を詰めると、少年の引きつった顔をが窺えた。
「何か、触るようだった。いや、なんだろう……君、もしかして遠距離のものを操作出来るのだろうか?」
「えぇ……なんだこいつ。すっげーグイグイくる……」
「そりゃ、興味深いものだからね! それで、どうなんだい」
問うと、少年はかぶっていたフードを前へ引っ張った。顔を隠すように。
「えーっと……多分、そう。遠くのものが見えたり、聴こえたり、触れたり……する、けど」
「ほほう! 遠距離の感覚を持つのだね! すごい!」
まったく、無知とは恐ろしく愚かしい。
今まで見てきたどの「才能」も優れていたが、彼の「才能」は特に優れている。とにかく、才能の幅が広いのだ。
僕に関して言えば「予知」であるが、これは僕の行動を「予知」するだけであり、限定的なもの。しかし、彼は違う。3つの手段があるのだから、これほど魅力ある才能に出会ったのは初めてだ。
あぁ、この世もまだまだ捨てたものじゃないな。これでは、僕の信念が鈍ってしまうじゃないか。
やはり、彼とは出会ってはいけなかったのだろう。過去の僕は選択を間違えたようだ。だが、今の僕はとても満足していた。
「すごい……? そんなの初めて言われた」
少年は不思議そうに言う。そして、その声音は暗い。
「でも、こんなの悪戯にしか使えねぇぞ。泥棒向きだと思うけど」
「何を言っているんだ」
僕は笑い飛ばしながら、少年の頭を小突いた。
「君は泥棒になりたいのかい?」
あまりオススメはしないが、なりたいのなら引き止めることは出来ない。しかし、彼よりは長く生きているせいか
少年は首を横に傾げた。
「うーん……まぁ、向いてるとは思ってる」
「成る程。しかし、この世には法というものがある。破ってはいけないものという大きな理念が存在する。善を説くように神から授けられた世の理とも言える。それを知りながらも、君はあえて修羅の道を選ぶわけだ……何事も使いようなのだがなぁ……勿体無い」
「ふん。何とでも言え」
少年は舌を出して挑発的な態度を取る。あどけなさのせいで、どうしても憎めないが。
これは僕の懐の広さなのか……いや、鈍感なだけなのか。
「……分かったよ。では、勧誘はまたいずれ」
「もうぜってぇ会わないけどな」
そう言って、彼はくるりと踵を返す。
その際、僕の眼前は唐突に景色を変えた。芝と植林を駆ける少年ではなく、研究室へと変化する。もやがかかったような映像は今に始まったことではない、僕の「予知」だ。
研究室の中にいる誰かが、僕のものを慌てて持ち出している。それらがぐにゃりと渦巻いて、元の景色へと戻っていった。
ふむ……この予知は、なんだか嫌な予感しかしないな。
それに、はっきりとは分からない断片的な画である。誰かが、何かを持ち出すということがいつの日か起きるのだろう。
僕は白衣のポケットに入れていた携帯端末にそれをメモした。
少年の後ろ姿は既に遠のいている。それを見やり、僕は何を思ったのか咄嗟に彼を呼んだ。
「おーい、君」
バタバタと駆け寄ってみると、少年は振り返りもせずに歩を緩める。
「何?」
「いや、君、泥棒になるのは結構なんだがね、くれぐれも僕のものを盗んでくれるな。それだけは許さないからね」
予感がした。あの予知が、彼でないことを祈りたいが。
少年は鼻を鳴らして振り向いてくれる。
「分かった。警察に言わなかった礼として覚えとく」
「有難う。それじゃあ、君にも幸福が訪れることを願っているよ」
言えば彼は呆れたように笑う。そして、突然に何やら目を瞬かせた。その変わりようはなんとも突然で、子供らしく不安げな表情を見せてくれる。
「……あのさ」
何かを見たような、しかしはっきりとしないような、躊躇いがちに口を開くと彼は僕に言った。
「白い髪の女の人がこっちに来てるみたいだけど、あんたの知り合い?」
彼にはそれが見えたのだろう。
僕は待ちわびていた人物を思い起こし、無意識に口角を上げた。こうなると、試したくなる。
「その女性はどこから来るのかね」
「えぇっと……」
少年は人差し指を上に真っ直ぐ伸ばした。
空から訪れるという、その女性は確かに僕の待ち望んでいた人物である。大正解だ。やはり、彼は素晴らしい「才能」を持つ者。これをどうにかこの世に残してやりたくなる。
実は、僕はこの世界を作り直すべく、人々に眠る「才能」をすべて消そうと目論んでいるのだ。
しかし、彼と出会ってしまったことにより、考えに揺らぎが生じた。いや、既に答えは出ている。
「――君、そろそろ帰った方がいい。その白い髪の女性は、確かに僕の知り合いだよ。随分昔に会った特別な人なんだ。彼女と話をしようと待っていたところなんだよ」
そう言うと、彼は素っ気なく「ふーん」と音を出す。
「君との話はいい暇つぶしになった。それに、実に有意義なものだったよ」
「はぁ……そりゃ、どーも」
少年は不審そうに返した。そして、もうこちらを振り返ることなく走り去っていく……
特別な日を迎えるべく、単なる暇つぶしでしかなかったのに、まさかこの数時間で僕の選択を真逆にしてしまうとは。
これまでの人生をすべて覆してしまうほどに、彼との出会いは衝撃を伴うものだった。そして、偽り無く「有意義であった」と言えよう。
さて。もう間もなくで、世界を作り直すために現れる「女神」のお出ましだ。
白髪に白い肌、真っ赤な服がよく映える凛とした佇まいの綺麗な女性である。年は分からないが、小柄で少女のような出で立ちのその人は空から降りてくる。
もうすぐ。
あと数分……あと数秒……
背後で、《ボッスンッ!!!》と着地に失敗したような音がした。
「痛い……この私が時空波に揉まれるなんて……あぁ、もう。服が……あぁぁ! 誰よ、こんなとこにバナナの皮なんてものを置いてるのは!」
登場してそうそう、文句が雨あられと飛び出している。
そんな彼女の前へと僕は近づいた。
「初めまして、マドモアゼル。お待ちしておりました」
「あぁ、そう。それはどうも、良かったわね」
未だ、ゴミに気を取られている彼女はしかめっ面のまま、邪険に言葉を向けた。思ったよりも、親しみやすい女性なのだと僕は気付いた。
「えぇっと? 初めまして、と言っていいのかしら。貴方が、オーギュスト・ベルモンドということは分かっているわ」
「それは光栄なこと。僕も、貴女が誰かは分かっています。十年ほど前でしたかね。時空を行き来する貴女が僕へ伝言をしたのは」
問うと彼女はワンピースについたゴミを払いながら唸る。そして、落ち着いたのか静かにゆっくりと口を開いた。
「そうね……私は、時間を行き来する者だから、当然、過去の貴方にも未来の貴方にも会っている。未来というのは
そう言うと、彼女――僕が「女神」と呼ぶその人は、持っていた旅行かばんから、古い年代物の懐中時計を取り出した。
「さて……未来の貴方はこの世界を不満に思っていた。だから、私は子供の頃の貴方へ伝言を残した。世界を作り直したい、と願っている。違いないかしら?」
時空の女神は冷ややかに、事務的に告げる。先程までの取り乱しが嘘のよう。
僕はその温度差のせいか、急激に漠然とした恐れを抱いた。いや、ついにこの日を迎えてしまったことによる気持ちの上下に追いつけない。
世界をつくる、という大仰に壮大な、時の境界というものに触れて恐れを抱く。浮足立っていたのにも関わらず、だ。
「……改めて聞きますが、僕が勝手に決めていいものなんですかね」
努めて平静を装ってみる。
しかし、僕よりも遥かに長い時間を過ごす彼女は、若輩の心を読み取るかのようでニヤリと薄く笑う。
「貴方の意見を参考に、世界をつくるのよ」
そう言ってもらえて、少し気が楽になった。
それなら、僕の望む世界を告げよう。
「では、その前に、先程に起きた出来事を語らせてほしいのですが……お時間よろしいですか?」
世界をつくるには、まずそこから語るしかなるまい。
彼女は眉を顰めたが「えぇ、いいわ」と懐中時計を見やりながら承諾してくれた。
僕が望むのは、共存だ。
それだけは変化しない。ただ、「才能」を消すという願いを消すことに決めてしまったのは、紛れもなくあの有意義な時間のせいである。もう少しだけ、世界の先を見たくなってしまったのだから、仕方がない。
それはきっと、彼のためでもアレクサンドラやあらゆる人類のためではなく、僕ただ一人のためなのだろう。
女神は僕の長い長い有意義な話を聞き終えると、世界を作り直した。あっさりと作り直した。
彼女によって、「才能」は人類に欠かさぬものとして認識を変えられた。人々に生じていた差がこの瞬間に消え失せることとなる。
これは僕の望んだ世界ではある。
女神はそれから「秩序」として更に世界を統率していくのだが……彼女の不在が訪れたその時、僕はこの選択を僅かに嘆いてしまう。
***
そんな未来までが、ちらりと目の端を横切った。
「……おい、オーギュスト。頼むから静かにしてくれないか」
「おや、起こしてしまったかい」
微睡みから覚めたのか彼女は、もう片方の瞼も開いて小さく欠伸をした。グレーの瞳が濁っている。あぁ、折角の綺麗な虹彩が勿体無い――。
そう考えていると、彼女は僕の思考を読み取ったのか、不機嫌な顔を僅かに緩めた。
【研究員ベルモンドの希望的観測、終】
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