第19話:危ない配達員とセクハラの末路
パンにチーズとハムを挟み、パクリと口にくわえたままの状態で、いきなり指を突きつけられ、挙句に「セクハラ」と言われてしまえば、さすがのグレーズも何がなんだか分からない。ただ、目の前に立つ少女が何か怒っているということは悟れた。
とにかくパンを飲み込む。グレーズはようやく口を開いた。
「セクハラ金髪小僧……というのは僕のこと?」
「そうです! 限りなく絶対的にそうなのです! あなたは私の可愛いお胸を奪ったのです! その罪は償わなくてはいけません!」
畳み掛けられ、グレーズは一歩下がる。だが、負けるわけにはいくまい。
「証拠は?」
「はっ……」
黒髪の少女が一歩下がる。グレーズは一歩足を踏み出した。
「おねーさん、ダメだよぉ、証拠もないのに言いがかりをつけちゃ。ほれ、どうなんだい。僕が一体いつどこで君のおっぱいを触ったの? 何時何分、地球が何回回ったとき? ちゃんと教えてくれよ、さあ」
「うぐっ……こいつ、うざい! 激しくうざいです! なんて酷いやつだ」
しかし、彼女はあちらこちらを探したが証拠なんてものは見つからない。あたふたと段々しおらしくなり、その場に座り込んだ。
「あぁぁぁ! もう! 酷い、酷いです! あんまりです!」
「げっ……泣いちゃった。早すぎるだろ」
あまりの煽り耐性の無さに、グレーズはバツの悪い顔をさせて、少女を見やった。
「お、おねーさん……ごめん、ちょっとからかっただけ……」
その時。
グレーズは目の端で何かを捉えた。何かが迫ってきている。すぐに飛びのき、階段の手すりに立った。
「うっわ。マジかよ、信号機投げてくるなんて、僕でもやんないぞ」
グレーズがいた場所には、薄い電子板が割れた黒い信号機。ポールはぐにゃりと折れて変形している。
一体何事だ。
しかし、この非常時に、黒髪の少女は呑気に涙を拭っている。
グレーズは辺りを見回した。
「ん? あいつか……」
前方、道路の向こう側にオレンジジャケットの男がいる。キャップを目深に被っていても、こちらを睨みつけているのが分かった。
「おい、お前。どういうつもりだよ。危ないとこだったぞ」
こちらまで歩いてくる男へ文句を言う。よく見ると、男のジャケットは横で泣いている少女と揃いだ。グレーズは眉をひそめた。
「ふむふむ。君、このおねーさんの仲間?」
問うと、目の前まで来た男は静かに頷いた。
よく見てみると、彼は腕にピアスがある。そこから細かいチェーンが伸びている。格好もそうだが、それよりも彼には何か圧があり、なんだか危なげに見えてしまう。
じっと警戒していると、横の少女が驚いたように目を丸くした。
「あやや? 兄さん、どうしてこんなところに」
「兄さん!?」
思わぬ言葉にグレーズは手すりから落ちそうになった。なんとかこらえ、手すりの上でしゃがむ。
「……で、なんなの。なんで信号投げてきたんだよ。あぶねーだろ」
いつまでも黙ったままの男。
キャップの下にある顔を覗いてみると、鋭い目つきに思わず肩をすくめた。
「お前……妹を泣かせたろう」
「は? あー……いや、ちょっとからかっただけで……」
言っているうちに、グレーズの全身が宙へと浮かんだ。
ふわり、と何かに持ち上げられているような。エディの才能に似ている。
グレーズはわたわたと足をばたつかせた。どんどん上へと持ち上げられていく。
「な、お前……何をする!」
「そいつはこっちのセリフだ。パメラを泣かせるなんざ、万死に値する」
「泣かせただけで!?」
グレーズは顔が青ざめた。
とにかく、持ち上げられているとなればどうにも逃げ場がない。
「兄さん」
男の横で妹が口を開く。すると、彼女はグレーズを指さして言った。
「この子、私の可愛いお胸を奪ったんです! セクハラ金髪野郎なんです!」
「おーい! 今それ言っちゃダメなやつー!」
絶体絶命。死を予感した。
兄の目がギラリと光ったように見え、グレーズは宙で逃げ場をどうにか探す。
と、兄はボソリと殺気を口走った。
「……許さん」
「でしょうね! やべぇ、マジこえぇ。どーしよ」
兄の怒気にグレーズは焦る一方。
心なしか、体に圧がかかっているような。いや、「ような」ではない。潰されそうな勢いだ。
逃げ場は、もうどこにもない。
***
「……荷物、届いたかなぁ」
ようやく朝の忙しいラッシュが終わり、一息ついていたエディは事務所付近を見渡してみた。
「ん? あれ? なんか揉めてる?」
揉めてる、じゃなくグレーズの一大事である。
怪しげな男――いや、あれはオーリック運送の制服だ。その男がグレーズを宙に浮かせている映像が見えた。
思わずカウンターから立ち上がる。
「おいおい、なんかやばそうだ……おーい、店長! 俺、ちょっと帰ります!」
のんびりとパイを焼いていたマノンに声をかけ、エディは店を飛び出した。
***
――あー、もう、どうしよっかな……。
心底困っている。状況は悪くなる一方で、一体どうしたものか。
「あ、待て。僕だって身体強化の才能あるじゃん」
圧はなんだか両手のひらで押さえ付けられているような感覚だ。
力には力を。グレーズはその圧に手のひらをくっつけた。
「何!?」
下では兄の驚きが聞こえた。隙が出来る。
グレーズは唇を舐めると、圧を思い切り蹴り飛ばした。
力が消える。持ち上げられていた力もなくなり、グレーズはそのまま地面に着地して、彼らから飛び退く。すぐさまアパートメントの窓にぶら下がった。
「おい、お前! いくらなんでもやりすぎだぞ!」
「お前が言うな! 泣かせた上にパメラに恥までかかせやがって、一体どういう了見だ!」
「やかましい! 目の前におっぱいがあればそれを揉むに決まってるだろうが!」
負けじと言い返すと、兄は黙り込んだ。キャップを脱ぎ捨て、怒りに燃えた目を真っ直ぐに向ける。
「絶対許さん」
「やべぇ。めっちゃ怒ってる」
グレーズは壁を駆け抜け、屋上まで逃げた。
「逃がしません!」
建物を飛び移ろうとした直後、パメラが目の前に現れた。いきなりのことに、ブレーキが利くはずもなく。グレーズはそのまま彼女の胸に突っ込んだ。
「きゃあああああ!」
事態は益々ややこしくなる。グレーズはパメラの口を塞いだ。
「ちょっと、おねーさん! 妹ならあの兄ちゃん止めてよ!」
「何故ですか! 元はと言えばあなたが……」
「そりゃ確かにふざけたけどさ! とにかく、僕、このまんまじゃ八つ裂きにされちゃう」
「願ったり叶ったりですよ」
パメラはしれっと言った。そんな彼女にグレーズは眉をひそめる。
「なんなんだよ、この兄妹……」
「おい、チビ。さっさとそこを退かないと殺すぞ」
屋上の入口から、息を切らした兄が言う。わざわざ駆け上ってきたのだろう。その執念深さたるや、恐るべし。
「ユーゴ兄さん! 私が捕まえています! さっさと成敗してください!」
パメラの声に、兄、ユーゴはこくりと頷いた。口元にあるピアスが危なげに光る。
グレーズはパメラの腕を払うと、そのまま屋上から飛び降りた。
「あーーーーーっ!」
「ばーか、ばーか! わざわざご苦労様!」
そのまま壁を駆け下り、グレーズは高らかに笑う。瞬間、目の前(ほぼ地面)に、パメラが両手を広げて待ち構えている。
「逃がさないって、言ったでしょ」
「うわぁ、マジでなんなの、この兄妹……」
呆れはパメラの腕の中に吸い込まれる。彼女の瞬間移動によって、グレーズは共々、屋上へ舞い戻ってきた。
眼前には、怒りの目を向けるユーゴ。後ろにはパメラ。左右はガラ空きだが、瞬間移動がある限り難しい。
グレーズはじりじりとユーゴから距離を取った。だが、一歩下がれば向こうも一歩近づいてくる。
「ちくしょ……なんなんだよ。おっぱい触って何が悪いっていうんだよ」
追い詰められたグレーズは小さく呟いた。目元にはたっぷりに涙を浮かべて。しかし、この場にいた誰もの心に訴えは届くはずもない。
ふいに、コートのポケットが震えた。端末だ。
グレーズはそろそろと端末の画面をスライドさせて鼻をすすりながら電話に出る。
「もしもし……」
『グレーズ、俺もさすがに同情出来ないぞ』
エディだった。聞いていたんだろう。だが、今はそんな言葉が聞きたいわけじゃない。
「うるせーよ、ばーか! もういいよ。僕はもうここで死ぬから!」
『そう拗ねるなって。もうじき、助けは来るから。どうにかねばれ』
助け、とは。
口ぶりからして、エディではないのだろう。
グレーズは首を傾げて、目の前のユーゴを見やった。
鼻息荒く睨みつける兄の迫力に、何故か後ろのパメラも怯えているが知ったことではない。
一体、誰がこの状況を変えてくれるというのだろう。
そう考えていると、ユーゴの頭に何かがぶつかった。いや、ぶつかったと言うよりぶん殴られたと言ったほうが正しいか。
ユーゴはばたりとその場で倒れた。
「あれ? 社長! どうしてこんなとこに!」
パメラが驚きの声を上げる。一方、グレーズは呆け顔で目の前にそびえ立つオレンジジャケットの女を見上げた。長く豊かな黒髪が風になびく。
「悪かったね、君。うちの子たちが迷惑かけて」
社長、と呼ばれたその女はキリリとした眉を上げて、ユーゴを片手で拾い上げた。
「いえ……いや、どっちかと言うと僕が悪い? みたいだけど」
素直に言うと、社長は首を横に振った。
「大方、パメラが騒ぎでも起こしたんだろう。このシスコンはどうしようもない妹馬鹿だから余計に暴走しちゃって。全部、エディに聞いたから大丈夫さ。ま、君もよく反省するんだよ、いいね」
伸びてしまったユーゴを軽々肩に引っ掛けると、社長は「あ、そうだった」とジャケットのポケットから紙を一枚、ペンを一本取り出した。
「サインだけ貰っとこう。パメラ、受取人からサイン貰うんだろう? ほら、ぐずぐずするな」
キビキビした指示に、パメラは「はいい!」と素早く社長の手から紙とペンを受け取った。そして、グレーズにそのまま手渡す。
「よ、よろしくです」
「あぁ、はい……」
グレーズは慎重にその紙を眺めた。ペンを取ったが、
「えっと、僕の名前でいいの?」
「はい! お名前をよろしくです!」
グレーズは力が抜けたように笑い、紙の上に豪快なサインを記した。
「それじゃあ、毎度。これからもオーリック運送をよろしく!」
社長は片手を振って、その場を後にした。パメラもサインを受け取って満足そう。
そんな三人を見送って、グレーズはようやく息をついた。
***
「まぁ、これに懲りたら誰彼構わず触るのはやめることだな、グレーズ」
エディはしばらく笑いが止まらなかった。それをじっとりと睨みつけるグレーズ。ちっとも面白くない。
「分かったよ。懲りたから、もうアリスだけにするよ。フンっ!」
「まぁそう怒るな。せっかくお前に買ってあげたっていうのに……」
エディは玄関に放られた小包を開封した。そこから出てきたのは、淡いクリームのセーターとオーバーオール。新品の服だ。
「え? 何、これ、僕になの?」
訊くとエディは頷き、その二着を投げて寄越した。
「この間の金で買った。大事にしろよー」
そう言うと、彼はまた「仕事に戻る」と言って出ていった。
「なんだよ、エディのやつ。どうせならコゼットに買ってあげればいいのに」
しかし、そんな呟きの端々には嬉しそうな笑いが漏れている。ニヤけた顔をセーターに埋めた。
「しょーがないな……これ着てアンリエッタのとこ行こーっと!」
【to be continued……】
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