第16話:恋のキューピッドは嘲笑う
「よいしょっと、あぁ、腰が痛い。ただいまぁ」
店の戸が開き、入ってきたのは大柄で全身がふかふかした壮年の女。
バケットや果物、ミルクなんかの大荷物を抱えて、ふうふう息を切らしている。パンパンに膨らんだ頬が愛嬌たっぷりだ。
彼女はマノン・ベルリオーズ。
ル・カフェ・デ・リラの店主である。
コゼットを待ち構えていたエディ、グレーズ、アンリエッタは思い切りテーブルに頭をぶつけた。
「店長……あの、表から入ってくるの、そろそろやめてくれませんか」
額をさすりながら、エディが文句を言う。すると、マノンは豪快に笑った。
「あらまぁ、なぁに? コゼットさんが来るの、まだ待っていたの? 残念だったわねぇ」
「はぁっ? 違いますけど!?」
大きな声でそんなことを言うものだから、エディの声も荒くなる。遠くから見ていたグレーズとアンリエッタはあわあわと落ち着かない。
と、言うのもマノンは容赦なかった。
「うふふ。まったく、この子ったら。健気ねぇ」
「やめてください……マジで、ほんと、勘弁して」
これにはエディに同情する。グレーズは慌ててカウンターまで向かった。
「お、おばちゃん! ちょっと、こっちに来て! 僕とお話しよう!」
「あらぁ! 愛しのマティ! 久しぶりじゃなぁい!」
マノンはグレーズを捕まえると、わしゃわしゃとその金髪を撫でた。まったく、話を聞いちゃいない。
「マティ?」
後ろからおずおずと入ってくるアンリエッタの小さな問い。グレーズはふかふかの腕から這い出ながら答えた。
「僕のあだ名……ほら、マティルダだから……うわっ」
マノンは逃さないとばかりにグレーズをがっちりとホールド。
その様子を見て、アンリエッタは「へー」と可笑しいやら呆れるやら、複雑な表情を浮かべる。
「そういや、グレーズが唯一逃げられないのって、店長くらいだよなぁ」
矛先が変わったおかげか、エディが調子を取り戻して言う。
「そうなの?」
「うん。捕まったら逃げられない」
それはなんというか、気の毒というか。しかし、誰も助けようとはしなかった。
***
一悶着の後、グレーズは「こほん!」と咳払いし、マノンを拠点(奥の席)に引っ張り込んだ。
額を寄せ合い、ヒソヒソと話し合う。
「いい? おばちゃん。余計なことはしないでよ。これは僕たち全員の任務なんだ」
いつの間にそうなったのだろうか。話が大きくなりすぎてはないか。
しかし、それを咎めようとはしないアンリエッタである。
「分かってるわよぉ。エディとコゼットさんが上手くいくようにお手伝いをしたらいいんでしょう?」
「いや、そうじゃ……あー、うーん? そう、なのか。そうそう」
マノンは察しが良すぎた。これなら話が早い。
だが、問題は別のところにありそうだった。
「任せて! あたしがなんとか上手くやってあげるから!」
マノンは声高らかに宣言した。
その声が大きく、グレーズとアンリエッタはあわあわと彼女の口を塞ぐ。
「あのね、これはエディに気づかれちゃ駄目なやつだからっ、ね、お願いだから変なことしないで」
「大丈夫よ。あなた、そんなに心配性だったっけ?」
確かに、大雑把なグレーズが気を使っているのは不思議に思う。
「いや、だって、こういうこと、エディは気にするタイプだって……」
段々と声が小さくなるグレーズ。その鳶色の肌が僅かに曇っていく。
それを見て、マノンとアンリエッタは顔を見合わせた。
「エディのこと、すごく大事なのね」
「違うよ! そういうんじゃない! もう、おばちゃん、余計なことしないでくれよ、本当に!」
「照れてる……」
すかさず、アンリエッタがぼそりと言った。
その様子を、エディは遠くのカウンターからじっと覗く。
さっきから怪しいとは思っていたが、才能を使ってまで聞き耳を立てなくてもいいだろう。
眉を寄せて怪訝そうにしていると、扉のベルがからんころんと涼やかに鳴った。
「あ、いらっしゃいま、せ……」
思わず、声が止まった。多分、息も同時に。
昼下がりの陽を背に現れたのは、軽めの装いの若い女。顔を俯けて、恥ずかしそうに後ろめたそうにしている。紛れもなくコゼットだ。
「ひ、久しぶり、ですね」
警察署で見た時のあのキリリとした佇まいはどこへやら。コゼットはぎこちない笑みを向けてきた。
その背後の、扉の向こうではアリスがウインクを飛ばしている。
――お前の差し金か……ということは、あいつらも。
と、エディはすぐさま店の奥を睨んだ。
慌てて机に顔を伏せる3人を見やり、エディは眉間に皺を寄せる。
「あの……この間は、なんだか変なところで、会ってしまいましたね」
コゼットが言い、エディは「へっ!?」と声を上げた。思わず上ずり、咳払いをする。
「えーっと……そう、でしたね。いやぁ、変なところで会うもんだ」
「本当に、そう、ですよね……えへへ。びっくりしました」
「俺もです」
彼らは目も合わせない。ただ、立ち尽くしているだけ。
その様子を3人はもどかしく見つめていた。
「え、待って。大丈夫? 何あの空気。ほんとに大丈夫?」
「エディって、ヘタレなの?」
「あの子たち、いつもああなのよねぇ。駄目、もう見てらんないっ!」
「待って、おばちゃん! まだ行かないで!」
椅子から立ち上がろうとするマノンをグレーズが引き止める。思い切り引っ張ったので、さすがの彼女も大きな体をよろめかせた。
「わ、分かったわ……我慢する」
「頼むよ」
「あ、見て! コゼットが座ったわ」
アンリエッタの声に、グレーズとマノンはじっと食い入るように見た。
一方で、その3人の視線すら気にする余地もないエディは、カウンターにコゼットを促してやはり黙っていた。
いや、脳内ではぐるぐると混乱が渦巻いていたのだが。いざ目の前にするとどうしていいか分からなくなるらしい。
「えーっと、ブレンドをいただこうかしら」
「あ、はい……」
返事が素っ気なかったかもしれない。
エディはくるりと彼女から背を向けると、真顔を保とうと努めた。いや、ここは愛想よくしたほうがいいのでは。しかし、気を抜くと色々緩みそうで困る。色々とはなんだ。
どうにもまだ落ち着けないが、とにかく受けた注文をまずはこなさないといけない。
香ばしく強い苦味を放つ豆を、ステンレスのミルに落とし、黙々とハンドルを回して挽く。その作業のおかげでどうにか胸の動悸は収まった。
「あの」
後ろから、控え目な小さな声がした。カウンターにはコゼットしかいないから、彼女なのだろうがそれを聞くだけで肩が上がる。
「はい……」
「えっと、あの。ごめんなさい」
何の脈絡なく、彼女はそう言った。
思わず目を開かせてしまう。エディは怪訝に彼女を見た。
「な、何が……?」
見ると彼女は、未だ恥ずかしそうに顔を俯けていた。
小さく縮こまるようなその様子が可愛らしくも不自然。そんな印象を受ける。
思えば、店に来る時の彼女は毅然としており、ずっと清廉で、美味しそうにコーヒーを飲む。
それがどうだろう。今はそわそわと落ち着きがない。
「いや、だって……私、あなたとの約束を、すっかり忘れてしまっていて……あっ」
言ってしまってから口をおさえるコゼット。彼女もなんだか緊張しているようだった。
「あー……ですよねぇ」
ショックはある。が、これは想定内だ。1年も前の約束――約束と言っていいものか分からないあの言葉を、彼女が気にしていたことに驚きだ。
「いえ、気にしないで。こうしてわざわざまた来てくれたわけだし。仕事、大変なんですよね」
「ご、ごめんなさい……」
コゼットは恥ずかしそうに顔を両手に埋めた。それを見て、ようやく気がつく。
――あぁ、今日は私服なんだ。
白いシャツにデニムを合わせたスタイル。その上には淡いサーモンピンクのコート。腰のあたりが綺麗なくびれを作り、彼女の細い体にフィットしている。
髪はいつもくくっているから、さほど変わり映えしないが、それなのに色が違うだけでこうも表情が変わってしまうのか。
意識をしてしまえば、また彼女の顔が見られなくなった。
くるりと背を向けて挽いた豆から抽出するため、サイフォンのグラスのようなロートに粉を入れる。
作業は速やかだが、それは装っているだけだった。
さて。この様子を悶々と見ていた3人は、そろそろ業を煮やしていた。
特に、マノンは何度か席を立ちかけた。
「うーん……動きがないなぁ……」
「本当よ。エディったら、なんであんなに黙ってるのよ。もう少し気の利いたことが言えないの?」
「私だったら、怒って帰っちゃうかも」
マノンの言葉にアンリエッタも頷き、口調は厳しい。
一方で、グレーズは別のもやもやを抱いていた。
――なんか、つまらない。
その正体はよく分からない。
しかし、エディがコゼットに柔らかく微笑んでいると、複雑な思いを持ってしまう。
彼のそんな顔は、今までに一度だって見たことがなかったから。
「あぁ、もう。やっぱり見てられない!」
とうとうマノンがいきり立つ。それを、グレーズは思わず見逃してしまった。
「エディ! あんたねぇ……」
カウンターへと乱入していくマノンをアンリエッタが慌てて追いかけるも、グレーズはただ、むすっと眺めているだけ。
それに気づいたアンリエッタは溜息を吐いた。
「……グレーズったら。そんなに嫌なら、もうやめておけばいいじゃない」
「何が?」
マノンに背中を叩かれ、驚くエディの様子をじっと見つめながら言う。すると、アンリエッタは苦笑した。
「やきもちでしょ、それ」
「そんなわけない」
「エディを取られて面白くないくせに」
「はぁ? いやいや、まだ取られてないし。別にそんなんじゃないし。あははっ! アンリエッタったら、おかしなこと言うねぇ」
グレーズは両手を広げて笑い飛ばした。
「さて、と。お子ちゃまにはまだこういうのは早いから、そろそろ帰ろっか。アンリエッタ」
そうして、静かに席を立つ。「お子ちゃまって何よ!」とアンリエッタが怒るが気にも留めない。
マノンからの叱責を受けるエディに手を振って、苦笑するコゼットの後ろを通って、2人は店を出た。
***
「それで?」
「うん。またお店に行くってことは約束したわ」
「それだけ?」
「えぇ」
「はぁ……もう、なんなのよ、それぇ」
アリスはバーカウンターに額を押し付けた。脱力するように。
「それに、食事に誘う相手を間違えてるじゃない。なんなのよ、コゼットもエディも。2人してうぶなんだから」
「いやね。思春期の子供じゃあるまいし」
コゼットはモヒートのグラスを傾けながら軽く笑う。
それを一刀両断するように、アリスが不機嫌に言った。
「子供よ。思春期の子供以下だわ」
「うーん……彼も、とってもいい人だけどね。でも、まだよく分からないし。まずはお友達からでもいいじゃない」
にこやかに、晴れやかな表情を向けられる。
「慎重すぎる……」
――エディ、これは相当手強いわよ……。
アリスはこれみよがしに深い溜息を吐いた。そんな親友を気にするでもなく、コゼットは平然としていた。
「でもまぁ、今日はとても楽しかったわよ。休日に出かけるのもいいものね」
そう言い、機嫌よくカクテルを飲み干す。
爽やかなミントがアリスの敏感な鼻をくすぐった。その爽快さが、コゼットの表情にも現れており、不服ながらもいくらか満たされた気分になる。
どちらにせよ、コゼットが元気でいられるならそれでもいい。
「……よーし、それなら、私はまた頑張るわよ」
クスクスと意地悪そうに笑う恋のキューピッドに向かって、アリスは強く宣言した。
【to be continued……】
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