第15話:ル・カフェ・デ・リラ

 エディから差し出された大きめのマグにはミルクが、陶器のボウルにはカフェオレが。二人はこぼさないように気をつけながら店の奥へと根城を構えた。


 こくこくと口に含み、同時に「ぷはー」と息をつく。


「このミルク、甘くて美味しいわ」


「はちみつが入ってるんだよ。僕のにもたっぷりだよ」


 そうして交換して飲んでみると、確かに口の中には甘みが広がった。しかし、コーヒーの苦味も後で追いかけてきたのでアンリエッタは眉をひそめてボウルを返した。口直しに甘いミルクを頬に蓄える。

 一方で、グレーズは周囲をきょろきょろ見渡していた。


「ふーむ……お客は僕ら以外に、2、3人くらいか。これだとおばちゃんが出て来ることもないかな」


「おばちゃん?」


 ミルクをごくんと飲みこみ、アンリエッタが問う。


「ここの店長さ。優しいおばちゃんだよ。でも、怒ると怖い」


「へぇぇ……」


 そう言えば、どうにも分からないことが多い気がする。

 アンリエッタはミルクのおかげで落ち着きを取り戻したものの、ふと沸き立った疑問を口にした。


「ねぇ、グレーズ。エディはどうしてこのお店で働いているの?」


「へ?」


「いや、だってね、探偵のお仕事をしているんでしょ? それなのにどうして?」


 その問いに、グレーズはボウルの中のカフェオレを覗いた。まろやかな茶色に自分の顔が映る。


「うーん、それは、多分、僕のためなんだと思うんだぁ」


「グレーズのため?」


「うん。エディはもともと、ここで働いてたんだけどね。なんか突然『探偵、やってみるか?』って訊いてきてさ。それで今に至るわけ」


 そうして、またグレーズはごくごくとカフェオレを飲んだ。「ほわー」と息をつく。


「まぁ、僕の才能が天才的だからかなぁ。使わないともったいないだろ」


「え、あ、う、うーん? そうなのかしら」


 アンリエッタは腑に落ちない顔をさせた。


「それよりも、僕らは彼を見守るためにここへ来たんだよ。よそ見をしてないで、きっちりと監視したまえ、アンリエッタ隊員」


 びしっと指を突きつけられ、アンリエッタは面食らう。言われるまま、エディの方へと顔を向けた。


「そ、そうだったわね。うーん? 今のところ、動きはないけれど……」


「まぁ、そうそう動きがあったらびっくりするよね……お?」


 戸口にスラリとした女性のシルエットが見える。二人は食い入るように見た。エディも新聞から顔を上げている。


「いらっしゃい、ませー……」


 明るく元気な声が段々と小さくなっていく。


 客はコゼットではなかった。そのあからさまなガッカリ感が遠目からでもよく分かるので、こちらも肩を落としてしまう。


「待ってるねぇ……あれは確実に待ってるね」


「やっぱり、グレーズでも分かるのね……まぁ、とても分かりやすいもの」


「あいつの普段はあんなにハツラツとしてないしね。なんかいつも怠そうだしさ。なるほど、あれはコゼット用スマイルか」


 それはカフェ店員としてどうなのだ。

 アンリエッタは半眼でエディを見やった。



***


 実際、才能を使ってしまえば彼女がどこにいるのかはすぐに分かる。

 しかし、それをするのは良くない。というか、したくない。だから、客が戸を開けて入ってくるたびに気が気でない。


 新聞を読んでいるのも、実はまったく内容が頭に入ってきてはいない。同じところを何度も読んでいる気がする。


「はぁ……」


 無意識に溜息をこぼしてしまう。


 思えば、5日前にちらりと会ってから、僅かに期待は寄せていた。


 彼女が塔から久しぶりに帰ってくるというのは、1番街から『噂』が風に運ばれてきたから。既に数日前から知っていたのだ。


 そして、コゼットが来るかもしれない、と睨んだ日がたまたま休みになっていたので、そこからわざわざ出勤をずらすという、そこまでの計画を立てていたのに……まさかベルモンド教授から依頼が来るとは思わなかった。


 もしかすると、あの一連すべてを予知されていたのかもしれない。そもそも、『噂』を流すのはあの教授である。最初から手のひらで転がされていたように思えた。

 やはり腹立たしい。だが、振り込まれた金が一件の依頼にしてはなかなかの額だったわけで、文句を言うには分が悪い。


「……おっと」


 鍋からミルクが吹きこぼれそうになる。エディは慌てて鍋を電子ヒーターから持ち上げた。


――集中できねぇ。


 大体、コゼットが来るという保証はない。

 あの約束だってもう一年以上、時間が経っている。もしも、彼女が4番街へ来たとしても約束を覚えているわけではない。


 そもそも、約束というのも違う気がする。曖昧な言い方をしてしまったのだから、彼女がどう受け止めるかは彼女次第だ。


 今日で思わぬ再会から6日が経った。

 もう淡い期待はしないでおこう。そもそも、彼女とはまともに話したことがないのだ。

 もし、彼女が現れたにしても、何の特別感もないもてなししか出来ない気がする。


 教授に貰った金は今度、グレーズの服でも買ってあげることにしよう。それか、新しいコーヒー豆を買う。


 そう決めた直後だった。




***


 ふと、コートの中でブルブルと端末が震えた。慌てて画面をタップする。


「もしもし、こちらグレーズ」


「あ、もしもし? 私。アリスよ。今ね、やっとコゼットを捕まえたの」


「おお! ほんとに? さっすが警察! 頼りになるぅ」


 思わず興奮気味に椅子から立ち上がったが、エディは溜息を吐いているだけでこちらにはまったく関心を持っていない。

 アンリエッタがヒヤヒヤとこちらと向こうを見ていたが、グレーズはお構い無しで、僅かにトーンを落として話した。


「それで? 今どこにいるの?」


「もうすぐお店に着くわ。それまで、どうにか邪魔が入らないようにしてね。頼んだわよ」


「了解!」


 端末を切り、グレーズは「ふふん」と機嫌よく笑った。


「なんですって?」


 アンリエッタがひっそりと聞く。


「もうすぐ着くってさ。だから、僕たちは二人に邪魔が入らないようにしなくちゃいけない」


「分かったわ。これはなんとしてでも遂行しなくちゃね。成功させるわよ」


「だね! よーし、かかってこい、コゼット!」


 二人は机に伏せて、彼女の登場を待った。

 まったく隠れられてはいないが、それでもこっそりと様子を窺っている様を装う。


「……それにしても、意外にあっさり見つかったのね」


「そうだねぇ。まぁ、アリスは鼻がいいから人一人くらいすぐ見つけられるんだろうけれど」


 ひそひそと話していると、店の戸が再び開かれた。




***


「うーん……駄目だわ。これも、なんか駄目。ダサい。いや、こっち……あぁん、もう」


 コゼットは下着のまま、自宅のタンスをひっくり返し、服を並べて唸っていた。


 カフェに行くだけでどうしてこんなに悩まなくてはいけないのか。

 それもそのはず。

 彼女は4番街のル・カフェ・デ・リラへは通勤前だけに通っていた。当然、いつもはスーツを着用していたのだから、こうして改めて休日に出向くなんてことは一度もない。


 それに彼女の私服は少なく、着回しで済むようにしてある。

 どう足掻いても、パターンは決まっているので悩むことこそが不毛だ。


「それに、私、休みは外に出ないし……もう、やっぱり行くのやめようかしら」


 しかし、昨晩のアリスの言葉が引っかかる。


――彼、あなたに気があるもの。


 本当にそうなのだろうか。気の迷いではないか。こんな、仕事しか取り柄のない真面目な女のどこを気に入るというのか。皆目分からない。


「やっぱり、考えすぎよね……普通に、気軽に、ちょっとお喋りして帰るだけ。それでいいじゃない。うん、それでいいわ」


「いいわけないでしょう!」


 唐突にバターン! と、部屋のドアが開かれた。


「な、何!? アリス!?」


 思わず声が上ずり、コゼットは飛び上がった。

 どうやって入ってきたのか、その理由を考える間もなくアリスがズカズカと部屋に上がり込む。


「駄目よ、ちゃんとしなさい! ちょっとお喋りするだけ〜なんてふざけてるの?」


「ふ、ふざけて、ないわよ……でも、だって、そんな、もう……ほら、もうお昼過ぎてるし……」


 窒息しそうなくらい苦しい言い訳だった。それをアリスはすっぱりとぶった切る。


「こっちのデニムとシャツでいいわ。はい、決まり! ほら、さっさと着替える!」


 いつにもまして、いや人が変わったようにアリスはテキパキとコゼットに指示を出した。言われるままにコゼットはもたもたとシャツの袖に腕を通す。


「アリス……あなた、普段からもそうしていたらすぐに出世できるはずよ……」


「私はこういうことしか興味がないから無理よ。ほら、つべこべ言わずに、支度して! そしたら私が送ってあげるから!」


「うぅ……厳しい……」


 ものすごく荒々しい剣幕の親友に、さすがのコゼットも逆らおうとはしなかった。



 薄くメイクをして、ごわごわした金髪に艶を入れる。豊かな髪を一つに束ねると、少しラフなスタイルが出来上がった。

 それをチェックするなり、アリスはすぐさまコゼットの手を引いて、アパートを飛び出し、車に押し込める。


「いい? 今からお店に連れてってあげるから、きちんと彼とお話するのよ。あわよくば、仕事終わりに食事にでも誘うのよ。いいわね?」


「えぇ? いや、そこまでしなくてもいいじゃない? 彼だって事情とか用事とかあるだろうし……ひっ」


 運転席のアリスが瞳孔を開かせた目でこちらを冷ややかに見ている。


「でも、誘うって、私から誘うってどうなのよ」


「別にいいでしょ、それくらい。今時、男性から誘われるのを待つ女なんていないわよ。がっつきなさい」


「えぇー……」


 気乗りしない。しかし、アリスの剣幕が怖い。

 まぁ、会ってしまえばアリスも満足するだろうし、何より彼女は仕事中のはずだ。ずっと監視されるわけではないだろう。


 コゼットは僅かに憂鬱さと不安を表情に浮かばせて、1番街に咲く白スイセンをぼんやり眺めた。




 そんなそれぞれの思いが交錯した時。

 ル・カフェ・デ・リラに、が姿を表した。

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