第8話:1番街の預言者

 その日、クロノ都市大学の学長室に厳格そうな鋭い目つきの男と、ぽやっと眠たそうな若い女がいた。


「あのぉ、警部。本当に本当にほんとぉーに『噂』は間違いないのですよね?」


 横で静かに口を引き結ぶ男に、女は念を押すように問う。

 一方で男は硬い表情。今朝からの強い耳鳴りとどうにも拭えぬ胸騒ぎのせいだ。


 それに、昨日3番街へと運ばれてきた「噂」にも強い確信を持っている。緊張感は高まる一方だった。


「当然だ。何度も言わせるんじゃない。それよりもアリス。君の鼻はまだ良くならんのか」


「はぁ、まぁ、花粉症は簡単には治るものじゃないので……うーん。困りました。もう本当、鼻水が邪魔をし……し……ひぇぁ、ひゃっくぶしょんっ!」


 盛大なくしゃみが放たれるが、彼は微動だにせず表情を崩さない。


 何せ、噂が正しければ「ベルモンド教授の研究室でボヤ騒ぎ」が起きるからだ。

 不良生徒の悪行だかなんだか知らんが、ともかく危険あるところに駆けつけるのが彼らの役目である。


「ふぇっ……んもう、やんなっちゃう……警部、私、この部屋嫌です。もう撤退しましょ。そこかしこに花があって、私のこの敏感な鼻がビンビンに過剰な反応を起こし……あっ、んんっ! ひゃっ! ふぁっ!」


「アリス、ちょっと黙っててくれ。集中出来んだろうが」


 傍らで鼻をずびずび鳴らす部下を睨み、彼は大きな溜息を投げた。


「大体、花なんてどこにもない。全部絵だ。それに、我々はここから動くことは出来ん。学長の許可がないと……」


「学長と私の鼻のどっちが大事なんですか!」


「使えん鼻の心配をしたってな」


 警部はピタリと言葉を止めた。耳の奥では警報を鳴らすかのように、キーンと高い音が張り詰めている。全身が緊急を訴えている。


 まずい。これは非常にまずい。


 彼の危険察知は正確だ。となれば、既に事は始まっている。


「アリス! 緊急事態だ! もう学長を待ってる暇はない!」


「ええええええっ!? だから言ったじゃないですかぁーっ!! んもう!! っくしゅんっ!」


 学長室から飛び出す警部の後を、アリスは鼻を押さえながら追いかけた。



***


 火は沈下したものの、部屋一面黒焦げで、膨大な資料は灰と化していた。

 その中心で一息つくエディ。すると、後ろからバサバサとはためく音が聴こえた。


「エーディーっ!」


「おう、グレーズ。無事で良かった」


 なんとも涼し気な顔で佇む彼の背中に、グレーズは思い切り蹴りを入れる。


「それはこっちのセリフだぁ! もう、心配したんだぞ! 馬鹿! バーカバーカ! このっ、クソ眼鏡!」


「はいはい」


 蹴飛ばされてバランスを崩しても、エディはただ安穏と苦笑するだけ。グレーズの頭をぽん、と手のひらで軽く撫でる。


「あれ? なんだかずぶ濡れだね……どうやって火を消したの?」


「あぁ、スプリンクラーをいじったら思わぬ威力でさ。あとは念のために、各教室から消火剤と消化器と水道から拝借して。意外と早く片付いて良かったよ」


 言いながら指先を動かしてみせた。

 彼の遠距離感覚はテリトリーが無限だ。あらゆる場所から物体を掴むことが出来、引き寄せられるが、この才能には少しのハンデがある。


「おっと、まずい。廊下の奥から足音が一つ、二つ……誰か来るな。グレーズ、すぐ飛べるか?」


「任せて!」


 すぐさまエディを抱えると、グレーズは再び窓から飛び出した。ぐんぐん地上から離れ、ひとまず校舎の屋上へと着地する。


 下を見ると、飛び出した窓からバタバタと駆けている人影が数人。グレーズの目からも容易に見えた。一方で、エディは目を細めて凝らしている。


「あ、やばい。そろそろ電池切れだ。グレーズ、俺の感覚もう使えないっぽいから、こっから先は勘で逃げるしかないぞ」


 視界がぼやけており、いつもは見えすぎる視界が段々と狭まっていく。それは聴覚も同じだった。そうして彼はブツブツとぼやいた。


「これだから、あんまりリミッター外したくないんだよなぁ……まったく」


「あ、そうだ。教授が門の前で待ってるって言ってたよ」


「マジか……あー、まぁ、一言文句だけは言っとかないとなぁ。じゃ、門までよろしく」


 グレーズはエディを小脇に抱えたまま、宙を舞う。三角屋根を足場にもう一度、高くジャンプ。


 鼻の奥ではつんとカビの臭いがし、上空を見上げると雲が更に分厚く暗がりを帯びていた。雨がもうすぐそこまで迫っているが……一滴、地面に落ちてくるその前にはベルモンド教授の前に降り立った。


「おお、無事だったかい。まぁ、分かってはいたのだが。火事場の馬鹿力とはまさにこのことを言うんだろうね」


「ったく、白々しい。あんた、最初から分かっていたんだろう? あれだけの爆破を予想出来ない科学者がどこにいるっていうんだ」


 満面の笑みを向ける教授の鼻先に、エディは人差し指を突きつけた。終わったことをとやかくは言いたくないのだが、言わずにはいられない。


「はははっ。どんなに優れた人間でも、間違うことはあるさ」


「はぁ……」


 あくまでも白を切る教授に、エディは怒る気力をなくした。とにかく、全神経が疲労を感じている。

 教授は能天気に鼻歌を鳴らしながら、傘を差す。すると、大粒の雨がバラバラと落ちてきた。


「さて。諸君の働き、実に見事だった。エドガー、後で金を振り込んでおくからね。あぁ、そうだ。先にこれだけでも渡しておこう」


 機嫌よく言うと、教授はエディの手のひらにワインレッドのカードを渡した。都市で使われる電子通弊だが、ワインレッドのものだと価値は高級のレストランでフルコースの食事が出来るほどである。

 エディだけでなくグレーズも目を丸くした。


「ちょ、教授……いいんですか?」


「いいよ。君には悪いことをしたからね。コゼットとの約束があるんだろう? 受け取っておきなさい」


「はぁ……」


 見透かされていることはもう言及しない。言い訳するのも面倒だ。

 エディは気まずそうな顔をしながら、すぐにカードをズボンのポケットに入れた。教授が預かっていたコートを受け取り、袖を通す。


「そう言えば、教授。今から用事があるんだよね? どんな用事なの?」


 コートの焦げに眉をひそめている横で、グレーズたちは和やかに話している。教授は機嫌よく、傘をくるりと回した。


「うむ。今日はなんと、あのオリヴィア・カルティエがコンサートを行うのだよ。私は彼女の大ファンでね。試験官などをしている暇はないのだよ」


 その内容を耳にしたエディはとうとう脱力した。

 グレーズは「なるほどねぇ」とのんびり返しているが。


「オリヴィアって、すっごく綺麗でナイスボディな歌手さんだよね。画面で見たことある。なかなか会えないんだよね? いいなぁ、教授、羨ましい!」


「そうとも。彼女はとても魅力ある女性だ。機会があれば君もいつか連れていってあげよう」


「やったぁ!」


 そうしてグレーズは両腕を高く上げて万歳をする。つられて教授も万歳をする。その輪の中にエディは入る気がまったくなかった。


「ばんざー……ん?」


 教授の動きが止まる。何やら腕時計を見やり、いそいそと襟元を正した。


「さ。私はそろそろ会場に向かうよ。いやぁ、君たちにはとても感謝している。それじゃあ、エドガー。後は頼んだよ」


「え、後はって……どういう?」


 何か引っかかりを覚える。すると、教授は「はははあ」と明るげに笑った。


「なんてことはない。まぁ、約束の時間に間に合うから良いよね」


「は?」


「それじゃあ、さらばだ」


「え、ちょっと、教授!?」


 しかし、軽やかにステップを刻むように雨の中へと姿をくらました。

 脱力のまま蹲っていたエディは呆気に取られる。グレーズは首を傾げて教授を見送った。


「なんだよ、意味が分からん……他に何があるっていうんだ。追加依頼か?」


「さぁ〜? まぁ、そんなに深く考えなくていいんじゃないの」


 腰に手を当てて安穏と言うグレーズ。しかし、それはすぐに穏やかさが消え去った。


「……とまぁ、エディよ。そ、れ、よ、り、も」


 エディの顔面に、ずずいっと鼻先を近づけるグレーズ。その至近距離に彼は思わず「うわっ」と嫌そうな声を上げて仰け反った。


「結局のところコゼットって誰なのさ」


 覚えていたらしい。そして、やけにしつこい。エディは明後日の方向へ視線を向けた。


「う、うーん……? いや、別になんでもないんだけどなぁ……」


 グレーズは頬を膨らませて足を一歩踏む。途端に、石畳が地割れを起こして欠片が舞う。


「教えろよ」


「聞いても面白い話じゃないぞ。ただの、カフェの常連だし」


「ただの? んなわけないでしょー。もう、僕だけ除け者にしちゃってさ。つまんないの」


 じっとりとエディを見下ろす。まだ探りを入れるようで、目のやり場に困る。


「あーもう、分かったよ。事務所に帰ったら話すから。一旦、帰ろう、ぜ……」


 言いかけて背後を振り返った。とてつもなく鋭い視線が背を突き刺してくる。その正体は、大柄な男と鼻を押さえる女の影。すぐ後ろでそびえ立っていた。

 男の口が横へと伸びていく。


「アリス、確保だ」


「はーい、ぶぇっくしょんっ! はい、かくほー! ごふん、げふん」


 なんとも締まりはないが、その動きは俊敏。あっという間に動きを封じられる。


「おい、待て。ちょっと、待って!?」


「ええい黙れ。待たん。まさか、お前たちが放火の犯人だったとはな」


 弁解の余地もない。エディは抵抗を試みたがあっさりと無駄に終わる。

 一方、グレーズは、


「わー、アリスだ! 久しぶりー!」


「はぁい、グレーズ。まったくもう、本当に君は悪い子なんだからぁ」


 アリスの豊満な胸に飛びついてあっさりと捕まった。なんとも締まりがない。


「いやいや、やはりあの『噂』は本当だったようだな」


「うわさ?」


 警部の声にすぐさま反応を示すエディ。すると警部はニンマリと笑った。


「大学の研究室で放火という噂だ。昨日、3番街まで回ってきてだな」


「はぁ?」


 そう言えば、1番街の預言者プロフェートは気まぐれにを風に乗せて飛ばすことがある。

 教授は前もって準備をしていたのだ。時間短縮の為の根回しを。

 どうりで警察の到着が早いはずだ。


《後は頼んだよ》


 その言葉の意味をようやく理解した。早急に場を離れた教授の後ろ姿を思い出すと腸が煮えくり返る。


「ざまぁないな、探偵。さて、15時14分。エドガー・レヴィ、マティルダ・グレーズを放火の容疑で逮捕する」


 底意地の悪い声が頭上に響き、どう足掻いても逃げ場は見当たらなかった。



【to be continued……】

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