2件目:ベルモンド教授の優雅な休日
第5話:前準備
6番街は、紫陽花の花で囲まれた、12の街のうち最も高級な住宅地である。
洗練された街づくりに取り組んでおり、モダンなオブジェやモニュメントが多く、公園でさえシンプルで落ち着いた品のある遊具が揃っている。
その一角。
黒に塗られた細い鉄をつなぎ合わせ、模様を施した滑り台の上で、くすんだ緑のコートを着た金髪の少年……ハツラツと目を輝かせているその人物は、グレーズという。
その下では、赤いクラシカルなワンピースを着た少女、アンリエッタがじっとりとした目つきで見上げていた。
「ねぇ、グレーズ。いいから早く降りてきてちょうだいよ。わたし、アンタを公園で遊ばせるために呼んだわけじゃないのよ」
「待って、待って、もう一回だけ! これ滑ってもう一回滑ったら終わりにするから!」
見た目はグレーズの方が年長だ。
というのも、グレーズはそろそろ15歳になる。
滑り台一つで無邪気にはしゃげる15歳もなかなか貴重だろうが、アンリエッタはただ恥ずかしく、苛立ちを募らせる要因となっていた。
「駄目よ。アンタ、さっきもそう言ってたわ。いいから! 早く! 降りてきなさい!」
公園内に、金切り声が轟き、グレーズは慌てて滑り降りてきた。
「今日、アンタを呼んだ理由、分かる?」
小さく華奢な少女は頬を膨らませてグレーズを睨んでいた。
その真ん前で、グレーズは小さくちんまりと座らされている。公園の中心で。
「えっと……デート? だよね」
「違うわよ、馬鹿!」
「えぇー、違うの!? じゃあなんで呼ばれたの、僕!」
グレーズの驚きに、溜息を漏らすアンリエッタ。幼い少女には似つかわしくない。
「……アンタが、本当に女の子なのかどうか調べるために呼んだのよ」
前回、アンリエッタはグレーズがまさか女子であるという事実を知って驚愕した。
あまりにも奔放で飛び抜けていて、それに少女らしくない格好のせいで思考がショートしかけたのだ。
ようやく事態を飲み込み、落ち着いたので呼び寄せたわけだが……当のグレーズはけろっとした顔で首を傾げている。
「え、本人が言ってるのに信用してくれないの? 僕、本当に女の子だよ。一応。あんまりないけど、おっぱいだってあるし……見る?」
「見ないわよ。いいわよ、そこまでしなくて」
コートを脱ごうとするグレーズを慌てて止める。アンリエッタは再び濃い溜息を吐いた。
「ファーストネームを聞いてなかったわね、そう言えば……わたしも迂闊だったわ。きちんと聞いておけばよかった」
「うーん……でも僕、あんまり自分の名前好きじゃなくってね。グレーズの方が呼びやすいからさぁ」
いやに出し渋る。
アンリエッタは腕を組んで、目を細めた。
「ふうん? もしかして、似合わない可愛い名前なのかしら? エアリーとかマリアとか、マドレーヌとか?」
彼女はからかうように「ふふん」と笑う。
対して、グレーズはふるふると首を横に振った。
「ううん。僕の名前はマティルダだよ。マティルダ・グレーズ。でもほら、マティルダって呼びにくいじゃん? つづりも難しいしさ。だから、グレーズの方がいい」
「あぁ、そう……」
あまり中身のない薄っぺらな理由だった。肩を落として、グレーズの横に座り込む。
「なぁんだ。つまんないの」
「はぁ? つまんなくないよ! これはもう大問題なんだから! なんか、署名とかしなくちゃいけないときに困るんだよ! LとIをよく入れ替えちゃうし、難しいんだからね! テストの時も時間食うし!」
「うーん……初めて会ったときから馬鹿そうだなぁとは思ってたんだけれど、相当な馬鹿よね、グレーズって」
自分の名前もまともに書けないほどに。
呆れるアンリエッタに、グレーズはむすっと顔をしかめた。
「そんなに馬鹿馬鹿言わないでくれよ。僕だって、一生懸命なんだよ。それに、どんな馬鹿も才能一つあれば、充分食っていけるんだから」
「才能、ね……まぁ、アンタの場合、ちょっと度が過ぎるような気がするけれど……」
あの空中爆走は忘れられない。
アンリエッタは引きつった笑みを見せて肩を震わせた。
もしも慣れたら、少しは楽しめるのか……いや、絶対にそんな日は来ない。
すると、グレーズが「ん?」と小さな声を上げた。コートのポケットを探り、スマートフォンを取り出す。
「どうしたの?」
「んー、なんかエディから連絡きた……はいはーい、こちらグレーズ。何のご用?」
軽々しくも、少し不貞腐れた様子でグレーズは電話に出た。
「もう、エディったら。今日は僕、遊びに行くって言ったよね」
『あぁ、お楽しみのところ邪魔してすまない。残念なお知らせだが……グレーズ、仕事だ』
深い声が耳を通り、グレーズは眉をひそめた。
『場所は1番街、スイセン通り10番地。至急だ。3分で来てくれ』
そんな事務的な言葉に、グレーズの表情は益々険しくなる。
『聞いてんのか? ちゃんと来いよ』
「あーもう、はいはいはい! わかりましたよ、行きゃいーんでしょ」
そうして、ブチリと通話を切る。その際、画面にヒビが入ったような気がしたが無視する。
「なんですって?」
じっと黙って待っていたアンリエッタは、おずおずと声をかける。
そんな少女の頭に手のひらを置いて立ち上がるグレーズは、ふにゃりと苦笑した。
「仕事だってさ。まったく、エディったら空気を読んでほしいよねぇ」
心底残念がるグレーズ。その表情に、アンリエッタは頬を緩めてしまった。
急いで元に戻し、話を変える。
「エディってあの色黒の眼鏡の人、よね? この間、お家に来たのよ」
「え? そうなの?」
その話は知らない。いつの間に、ローレンス家に行ったのか。グレーズは首を捻った。
「なんか、お詫びって言ってたけど……まぁ、悪い人じゃなさそうよね」
「うん、悪い人じゃないけどね。ただの仕事馬鹿だよ、彼は」
仲の悪そうな雰囲気だったので、アンリエッタは少し不安げだった。しかし、グレーズの皮肉めいた口ぶりからして、関係は悪くなさそうである。
「じゃあ、その、エディにもよろしく言っておいてくれる?」
「分かった」
グレーズは明るく言うと、彼女のふんわりとした栗毛を撫でた。
「じゃあ、またね、アンリエッタ。今度はゆっくりデートしよう。あ、そうだ。ジェニーも連れておいでよ」
「え? う、うん? いや、ちょっと、デートじゃないって言ってるでしょ!」
しかし、その声が届いたか定かではない。
グレーズのコートが既に上空を飛んでいたから。青空に向かって、その足は高く跳ね上がる。
***
言われた通り、足の筋肉を強化させてぶっ飛ばした結果、連絡から2分58秒43で1番街の地に足を着けた。
モカのトレンチコートを着たエディがすぐ眼前に見える。彼は眼鏡を光らせて、片手を上げた。
「空気を読んで、いい頃合に電話したんだけどなあ、俺」
来て早々、彼は悪びれもせずに言った。
通話後もどうやら聞き耳を立てていたらしい。
グレーズは頬を膨らませた。
「もういいよ。その代わり、お小遣いちょうだいね。今度、アンリエッタにお菓子持って行きたいから」
「あぁ」
意外にすんなりと申し出を受けてくれる。彼は背の高い建物の前でじっと目を凝らしていた。
「おかしいな……さっき、ちらっと見えたのに」
「どうしたの?」
問うとエディは、怪訝に眉を潜めて唸った。
「いや、さっきな、ちょっと街を見渡してて……」
「息をするように街を見渡してるね。監視カメラか何かなの?」
すぐさま軽口を叩くと、エディは「うるさいな」と苛立たしげに返した。
「で、丁度1番街を見てたんだけど……そしたら、教授が部屋の中で俺に“見せてきた”んだよ。なんか、画用紙に……ヘルプって書いてあった」
「え?」
話がよく分からない。グレーズは「うーん」と腕を組んで唸ると、確かめるように訊いた。
「えっと、ここって、確か、ベルモンド教授のお家……があるんだよね」
「そう。ここはベルモンド教授のアパート前だ」
「で、なんで部屋を覗いてたら、教授と目が合うわけ?」
「……大方、“知ってた”んだろうな。俺が今日、教授の家を覗くのを」
なんとも奇妙で不気味な話である。グレーズもエディと同じく眉を潜めた。
その時、
「やぁ、大正解だよ。若者たちよ」
背後が急に陰ったかと思うと、やけにテンションの高い声が響いた。
急いで振り返る。
すると、そこには上等なワインレッドのコートを着た紳士風の男がにっかりと歯を見せて笑っていた。
二人はほっと胸を撫で下ろす。上がっていた肩をすぐに落とした。
「しかし、エドガー。君の『才能』はさすがだよ。いや、私の方が遥かに優れているのだけどね! 君はまったく監視カメラのようだ。まぁ、そのおかげで今日はとても要領のいい日を迎えられそうなんだが」
男は快活に早口に言った。呼ばれたエディはそのテンションの高さについていけない。グレーズは苦笑を浮かべている。
「さて、諸君。改めて依頼をしたいのだがね。美味しいコーヒーでも飲みながら、どうだい?」
アッシュグレーの口ひげに、揃いの髪色をした紳士は1番街の大学で教鞭をとるベルモンド氏である。
彼は、日がな一日を要領よく過ごすために、その『才能』を惜しげもなく派手に使うのだが……時にそれは他人をも巻き込むことで悪名高い。
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