第4話:ビターとシロップ
あの豪快な空中爆走は嫌だ、とアンリエッタがごねたため、仕方なく二人は12番街の反対側である6番街まで歩いて帰った。
中央街を回るため、時間はかなりかかってしまう。
夕暮れが眩しくなってきた頃に、ようやく6番街へとたどり着いたのだが……家に着くと、ローレンス夫妻が既に帰っていた。急な用事とやらはもう済んだのだろう。庭先でうろうろと目まぐるしく動いている。
「おや、マダム。もうお帰りだったん、ですね……!?」
安穏としたグレーズに、夫人がすぐさま掴みかかった。
どうやら娘がいない、と騒ぎ立ていたらしく、取り乱していた矢先のこと。
「一体、どこで何をしていたの!」
荒々しい剣幕でグレーズに問いただすと、ようやくアンリエッタが口を開いた。
「ママン、あのね、グレーズはわたしのためにジェニーを取り返してくれたの」
幼い少女は、必死に訴えたが、母親の怒りは収まらない。
「お人形なら、また買ってあげるって言ったでしょ……とにかく、理由がどうであれ、無断で外へ連れ回すなんて許せません! もう、用はないわ。お引き取り下さい!」
冷たくぴしゃりと突っぱねられ、アンリエッタとの別れは呆気なく終わった。
名残惜しそうに振り返ってくる彼女の困惑した顔が視界から消えていく。
完全に消え去った後、グレーズはその場から逃げるように飛んだ。
***
4番街は薄葵でいっぱいで、空も同じ色に変わっていた。
レグルス探偵事務所は、リラの大通りに面した細長いアパートの間にひっそりとある。
光が漏れていたので、どうやらエディが帰っているらしい。
ドアを開けると、やはり褐色の彼がすぐに出迎えてくれた。
「おかえり。その顔は……どうやら、またやらかしたんだな。グレーズ」
頬を膨らませ、酷く拗ねた顔を見せるグレーズに、エディは苦笑を浮かべた。
「どう思う? 僕、そんなに悪いことしたかなぁ? だって、依頼内容はアンリエッタの言うことをきく、だったじゃない。だから、頑張ったのにさぁ……ね、聞いてる? エディ」
事務所へ戻るなり、グレーズはロフトの上からずっと不満を漏らしている。昼間のテディ・ベア救出劇から後味の悪い愚痴までを全てぶちまけても尚、その口は止まらない。
そろそろ、耳が痛くなりそうだったエディはコーヒーの二杯目をゆっくりと飲み干しながら唸った。
「うんうん、頑張った、頑張った。俺の忠告を無視してよく頑張りましたよ、お前は。ご苦労様」
「でしょ! ほんと、もうやってらんないよね!」
「……」
皮肉が伝わらない。
エディは、はぁ、と溜息をこぼした。それから、三杯目を作ろうと部屋から離れる。
事務所として使っている部屋に小さなキッチンがあり、彼はポットから熱々のコーヒーを二つのマグカップに注いだ。一つは黒い自分の。もう一つは緑色。グレーズのにはシロップをたくさん入れる。
くるり、と混ぜたら彼はすぐにグレーズの元へ戻った。
「ローレンス家は一週間前、あのコソ泥に空き巣に入られてな、ちょっと神経質になっていたんだよ。でも、急な用事が入ってしまい、うちに依頼してきたというわけだ」
スプーンに滴るコーヒーの雫を落とし、エディは静かに言う。
「そしたら、大事な一人娘が無断でいなくなった。そりゃ、怒るに決まってるよな」
「でも僕、そんなこと知らないし。そういう事情なら言ってくれても……」
「一度に色々言っても覚えられないだろ。お前は」
鋭い指摘。何も言えなくなる。グレーズは不機嫌に鼻を鳴らした。
「それに、余計な話だ。お前には子守だけさせるつもりだったから、敢えて言わなかったんだよ。まさか、盗まれたクマを取り戻しに行くなんて、想定外だからな。ほら」
そう言ってエディはマグカップを差し出してくる。
シロップたっぷりのほんのり甘い香りが鼻の奥へ伝い、グレーズは渋々受け取った。
「それに、あの連絡の後、なんとなく嫌な予感がしたから気になって聴いてたんだが……まあ、工場の後始末は俺がなんとかするよ」
グレーズはカップの中の自分を見つめ、溜息を落とした。
ジェニーのことですっかり忘れていたが、12番街の缶詰工場は今や、鉄クズが散乱している。
泥棒から取り戻したはいいものの、暴れた損害は大きい。
「ごめん」
「うん。反省してるなら、もういいよ。気にするな」
エディは苦笑しながらカップに口をつけた。
しかし、何を思ったのか、彼はカップを置くと背後にある窓へと視線を向けた。
「どーしたの、エディ」
「あぁ……今しがた、俺の耳に新たな依頼が舞い込んできたんだが……グレーズ、行ってきてくれないか」
「えぇー……」
顔を上げて、すぐさま憂鬱な声を返す。今はそんな気分じゃない。コーヒーを脇に置き、ロフトのフローリングで寝そべっている。
しかし、エディは淡々と事務的に続けた。
「指名なんだよ。場所は、6番街、紫陽花通り3番地。依頼人は、アンリエッタ・ローレンス」
「っ!!」
グレーズはすぐさま起き上がると、その場から飛び降りた。風の如く、エディの前を通り過ぎる。
「行ってくる!」
「おぉ、行ってらっしゃー……って、おい! 窓から出るな、グレーズ!!」
その怒号は、風と共に夜の街へと吸い込まれた。
***
アパートの壁から駆け上り、ビルとビルの間を飛び越え、夜風をまといながら6番街へ。
あっという間に紫陽花通りの大きな家に辿り着いた。
しかし、玄関のチャイムを鳴らせばあの神経質な夫人が出てくるだろう。
グレーズは、辺りを見回した。
確か、アンリエッタの部屋は二階の突き当たり。窓があるはずだ。
「あ、あれだ」
家の端にあるバルコニーから、レースのカーテンがふわりと風に晒されている。
グレーズは軽く屈伸すると、勢いよくジャンプした。
「よっ、と」
屋根に飛び移り、そろそろとバルコニーへ向かう。
爪先だけで降り立つと、ひょっこり、レースの隙間から顔を覗かせた。
「グレーズ!?」
部屋には小さな灯りがあり、アンリエッタがベッドに入っていた。
彼女の驚きに、グレーズは人差し指を口元に当てて「しーっ!」と息を漏らした。
「どうしたのよ、アンタ、どこから……」
バルコニーに駆け寄るアンリエッタは、エメラルドの大きな瞳を輝かせている。グレーズはにっこり笑った。
「君が呼んでるって、エディが言ってたの。彼は遠くのものが見えるし聴こえるから、アンリエッタが呟いた願いを拾ってくれたのかもしれないね」
そう得意気に言って、グレーズはバルコニーの手すりに腰掛けた。
「ね、願いって……そんな、こと……」
彼女はごにょごにょと口ごもる。唇を尖らせるも、嬉しさを隠せていない。
「い、言いそびれたことがあるのよ。アンタを、認めてあげるって……あと、それで、その……」
アンリエッタはネグリジェを握りしめ、俯いた。もじもじと何か言いたそうだが、一向に言葉が出てこない。
「アンリエッタ?」
怪訝に思ったグレーズは彼女の顔を覗き込んだ。
淡いターコイズの目が合わさり、少女は小さな肩をびくりと上げる。あわあわと口を開き、顔を覆った。
「あ、あの……ありがとう、ね。ジェニーを取り返してくれて……嬉しかった」
それは小さく甘い声。耳を通るとくすぐったい。
グレーズは照れ隠しに頭を掻いた。
「あーはははっ! 良かった! 僕ね、ちょっと落ち込んでたから、おかげで元気になったよ!」
「そうなの?」
「うん! うはあ〜嬉しいなあ!」
「どのくらい?」
「そうだねぇ……うーん、1番街から12番街までを一周、いや三周は走れるくらい!」
12もある街を三周とは、大きく出たものだ。
アンリエッタは呆れながらもクスクス笑う。それを見ていたら、夕方のモヤモヤはすっきりと晴れたように思える。
「ねぇ、グレーズ」
「なあに?」
一緒になって笑っていると、ふいにアンリエッタはグレーズの頬にキスをした。
「っ!?」
「お礼よ。わたし、アンタのこと好きよ。大人になったらお嫁さんになりたいくらい」
少女はふふん、と得意気に笑った。それを呆然と見るグレーズ。しばらく何も言わないので、途端にアンリエッタは顔を赤らめた。
「ちょっと、なんとか言ってよ。恥ずかしいじゃない……」
「あ、はははっ……うん、気持ちだけ受け取っておくよ」
グレーズは頬を掻きながら笑った。その態度がなんとも癪だ。アンリエッタはキッと両眼をつり上げた。
「どうしてよ! わたし、本気よ。本気で言ってるのに!」
しかし、その必死な訴えにも、グレーズはただただ笑うだけ。
「わたしが子供だから駄目なの? でも、アンタだってまだ大人じゃないし……年の差なんてどうでもいいわよ」
「うん。でも、僕、女の子だよ? それでもいいの?」
「いいに決まって……へ?」
さらりとした思わぬ白状に、アンリエッタは目を丸くして動きを止めた。
「うーん、こんなだからよく間違われちゃうんだよねぇ」
「嘘……」
「あぁ、でもふっくらした女の人は大好きだよ! だからアンリエッタも大きくなったらナイスボディなお姉さんになって欲しいなあ……ってあれ、アンリエッタ?」
照れくさそうに笑っていたが、ようやく殺気に気がついた。
少女は顔を引きつらせ、段々と頬をぷっくりと膨らませていく。
「この……紛らわしいのよ! 馬鹿っ!!」
絶叫が藍色の空へこだます。
アンリエッタの暴言に、グレーズはバランスを崩して、バルコニーから滑り落ちた。
【to be continued……】
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