第3話:ジェニーを取り戻せ

 ただ、飛び上がっただけだ。

 それなのに、青空はぐんぐん目の前まで近づいてくる。


 グレーズはアンリエッタを抱きかかえたまま、高層アパートの屋上へと軽やかに足をつけた。


「なっ、な、何っ! いいいい今のっ!!」


 甲高い悲鳴を上げるアンリエッタ。あわあわと顎が外れそう。

 そんな彼女の顔を、グレーズはにこやかに見やった。


「えっへへー! すごいでしょ。僕のとびっきりの『才能』さ」


「さい、のう……?」


「そう! 僕はね、身体能力を強化できるんだよ。だ、か、ら……っ!」


 グレーズは少し腰を落とすと飛び上がり、隣の建物に移った。

 ひとっ飛びで、そのまま宙を駆ける。


「っ!!」


 思わず下を見てしまい、声にならない悲鳴が飛び出す。

 黒い道路や紫陽花は小さなジオラマのよう。ミニチュアの家々、ビルディング、街路樹が更に小さくなっていき、グレーズのコートを強く握った。


「やだやだ! 怖い! 降ろしてぇぇぇぇっ!」


「大丈夫! 落としゃしないから! それよりも、ほら、見てごらん」


 素早く駆けるグレーズの両脚。またもや宙を舞うと、今度はタワーの煉瓦壁を蹴った。風の唸りが耳の中を通り抜け、景色はあっという間に移り変わっていく。


「ここ、どこなの!?」


 紫陽花の街は紫色だ。しかし、眼下に広がるのは空色。天と同じ色をしている。遠くを見渡せば、煙突がそびえる黒煙が。


「え? あぁ、中央街だよ。6番街から12番街へ行くには、真っ直ぐ突っ切ってしまえば早いの!」


 その理論は分かりやすいのだが、あまりにも常軌を逸している。

 風を受けているうちに、中央街を過ぎ、煙突に、煙に……ぶつかる!


 アンリエッタは目を瞑り、コートの中へ顔を埋めた。

 その頭を少し抑えて、グレーズはペロリと唇を舐めて、細長い煙突に足の裏をくっつける。そのまま下へ向かって……垂直に、煙突の側面に沿って勢いよく滑った。


「ひゃっふーーいっ!! うぉっ!」


 分厚いはずの靴底が摩擦で熱を溜めてしまう。グレーズは煙突の中腹で足を踏み出した。そこからまた飛び、勢いを収縮させて着地すべく、タタンっと飛び跳ねる。


「っとと」


 白いプリムラの花壇が前方に現れる。

 すぐさま急停止。靴底が磨り減っていく感覚が足裏に伝ったが、グレーズはお構いなし。

 くるりと方向転換し、背の高い建物の間を縫って走った。


「アンリエッタ、もう大丈夫だよ」


 その声に、彼女はおずおずと動いた。鼻をすすり、涙を目に浮かべてグレーズを見上げる。


「もう、もう……っ! こわ、かったぁぁぁっ」


「ごめん、ごめん。まさか、君、遊園地のジェットコースターとか苦手なの?」


「それとこれとは別よ! 次元が違うもの!」


 走りながらおどけるグレーズに、アンリエッタは頬を膨らませて足をジタバタ動かした。


「あ、コラ、暴れないで!」


「うるさい! もう! わたしに何かあったらママンが黙ってないんだから!」


「へいへい……おっと、缶詰工場が見えてきたよ」


 アーチ状の屋根と、白い壁が特徴的の大きな建物が目の前に現れる。

 道路を叩くように走り、急停止するグレーズは思わず両足に力を込めた。まるで、砂の上に立ったかの如く、硬いアスファルトが盛り上がってヒビが入っていく。


「おっと、やべえ。またやっちまった……」


「他の壁も崩してたわよ」


 重々しいアンリエッタの証言に、グレーズは顔を引きつらせた。


「マジかよ……うん、まあ、後で怒られるのは仕方ないとして、アンリエッタ。ジェニーを探すよ」


「うん……でも、大丈夫かしら」


 不安を隠せず、アンリエッタが辺りを見回す。そんな彼女を地に降ろすと、グレーズはパタパタと工場に駆け寄った。

 あんなにも派手に空中大移動をやってのけても息切れ一つしていない。


「グレーズ、ちょっと、勝手に入っていいの? 怒られたら……」


「え、だってここ、無人工場だよ。ロボしかいないんだから、怒られやしないよ。人には」


 あっけらかんと言い、グレーズは工場の中へ入った。


「お邪魔しまーす! ジェニーを迎えに来ましたよー!」


 緊張感の欠片もない安穏とした声に、アンリエッタはヒヤヒヤ。グレーズの陰に隠れて中を窺う。


 そこは、確かに無人で、人型や車型の機械がひしめく開けた場所だった。今日は休みなのか、何一つ稼働していない。


「本当にここに、ジェニーがいるの?」


 ひっそりとした中でそびえる機械にアンリエッタは恐怖の顔色を浮かべている。一方、前を歩くグレーズはステップを踏むようになんだか楽しげだ。


「エディの才能は一流さ。彼が言うんだから間違いないよ」


「その、エディって人も才能を持ってるの?」


「うん。僕たちは、まぁ、『4番街のアンベシル』とか言われてるけどね、この才能だけは誇りを持ってるよ……さて、と」


 一通り、ロボを見回ったグレーズは工場の中心で立ち止まった。そして、おもむろに腕を捲った。


「面倒だから、全部壊しちゃおうか」


 にこやかにとんでもない発言をする。

 アンリエッタは開いた口が塞がらず、ただただ呆然とした。


「な、何を言って……怒られるわ!」


「大丈夫、大丈夫! アンリエッタは怒られないから」


「でも、グレーズは怒られちゃうじゃない!」


「それはまあ、仕方ない……でも、ジェニーを見つけるって約束したからね。ちゃんと守るよ」


「そんな……」


 アンリエッタの制止を払い、グレーズは手近にあったロボに拳を奮った。

 大きな音を立て、脆く崩れていくロボ。その衝撃に、工場の奥から息を呑む音がした。


「さあ、僕は本気だよ、泥棒さん。さっさと出てきた方が身のためだぜ」


 そう声高に言い、更にロボを破壊する。殴る、蹴る。それだけでガラガラとロボは鉄クズへ還っていく。


「いい加減に出てきなよ。ジェニーを返せ」


 誰に言っているのか、泥棒か。アンリエッタには姿が見えない。しかし、グレーズは存在を察知しているらしい。


 やがて、何体目かのロボが破壊された時、突然に手を叩くような音が響いた。


「分かった、分かった。降参! クマは返そう! でも、宝石だけは返さない。それでいいかい? 探偵さんよ」


 若い男の声が慌てたように言った。しかし、やはり姿はない。

 いや、違う。広い空間の奥、ロボの間から人型のロボがゆっくりと動いてこちらを見る。その腕には、ショコラ色のテディ・ベアがあった。


「ジェニー!」


「お、見っけたね。アンリエッタ、すぐ戻るから待ってて」


 彼女のふんわりとした髪をくしゃりと撫でて、グレーズは足を踏み出した。瞬間、ロボがなぎ倒され、ジェニーの元まで道が出来る。


「おいおい! そう焦るんじゃねえ」


 泥棒の声は明らかに切羽詰まっていた。


「てめぇの馬鹿力でクマごと吹っ飛んじまうだろ!」


 すると、グレーズはすぐに動きを止めた。鉄クズがばら撒かれた上に立ち、じっとテディ・ベアだけを睨む。


「そうだ。大人しくしろ、グレーズ、いい子だから。な、取り引きしよう」


「取り引き?」


 ジェニーまであと一歩、いや、一つ飛べば届くのに。ロボの風貌の泥棒は、その硬そうな腕をしなやかに動かすと、ジェニーを高く掲げた。


「俺たちは、別にクマが欲しいわけじゃあない。こいつの首にある宝石が欲しいんだ。天然のアメジストだ。クマは返す代わりに宝石は貰う。それでいいだろう?」


「えぇ、いいわ」


 答えたのはアンリエッタだった。


「宝石ならあげるから、だから、ジェニーを返して! ねえ、グレーズ、それでいいから!」


 彼女は涙声で訴える。それをグレーズは振り返らない。ただ、黙って拳を握っている。


「ほら、お嬢ちゃんもそう言ってる。グレーズ、それで……」


「いいわけないだろ!」


 力んで叫ぶ。その声は怒気に溢れ、建物内全てを震わせた。


「いいわけない。それはお前のじゃない。なんでお前が決めるのさ。おかしいだろ! なんで悪者おまえの言うことを聞かなくちゃいけないんだよ!」


 激高に、背後のアンリエッタは首を竦めたが、涙を引っ込めた。

 グレーズの言うことは間違いじゃない。だが、正論がまかり通るほど甘くはないだろう。

 泥棒はジェニーを掲げたままだった。素顔が見えないから、どんな顔をしているかは分からない。


「その宝石はジェニーのものだし、アンリエッタのものだ!」


 叫ぶや否や、グレーズは足に力を込めて飛び上がる。壁から天井へと駆け、素早く回り込む。


「っ!!」


「返してもらうよ、全部」


 高く掲げられたテディ・ベアに手を伸ばしたかと思えば、宙を一回転。地面に降り立つと、グレーズの手にはふわふわしたショコラの毛並みが無事におさまっていた。宝石もちゃんと付いている。


「グレーズ!」


 すぐさまアンリエッタは駆け寄ったが、鉄クズにつまづき、バランスを崩した。

 あっ、と思った時には、彼女はグレーズの腕に支えられていた。


「良かったぁ……もう、ちゃんと待っててって言ったじゃないか」


 呆れたように言うグレーズは、もうあの怒った様子はどこにもなく、朗らかにへらりと笑っていた。


「ほら、戻ってきたよ。君のジェニー」


「うん……」


 ふわふわの毛並みに、アンリエッタは顔を埋めながら小さく言う。


「あれ!? どうしたの? 嬉しくない?」


「ううん……グレーズ、あの……」


 しかし、アンリエッタは言葉を続けなかった。ジェニーをぎゅっと抱きかかえたまま、顔を見せない。

 グレーズは頭を掻いた。


「なんだろう……まぁ、いっか。返ってきたし。泥棒さん……は、もういなくなったか。あいつら、勝手に悪さして勝手に消えるもんだからさ、探偵僕たちも警察も困ってて……」


 あははっと笑うも、アンリエッタは黙りこくっていた。その居心地の悪さには敵わない。


「帰ろうか、アンリエッタ」


 小さな手を握り、グレーズは柔らかに微笑んだ。

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