第2話:小さな依頼人

 アンリエッタはまじまじとグレーズを見た。

 爪先からくまなく、頭のてっぺんを揺れる髪の毛先まで。そして、幼子らしからぬ深い溜息を一つ吐き出す。


「マ……お母さんたら、よくもアンタみたいな汚いヤツを家に入れたわね」


「えっ! 汚い!? そんな馬鹿な! 僕、毎日ちゃんとお風呂に入ってますけど!」


 くすんだ緑の、大きめのコートに、ワイドパンツを捲し上げている格好。これのどこが汚いのか。グレーズにはてんで分からない。

 あちこちを探っているその様子を、アンリエッタは冷めた目で見つめていた。


「アンタ、とんでもなく馬鹿ね……」


「ん? 馬鹿? コラコラ、お嬢様がそんな言葉を使っちゃ駄目ですよ」


「その、お嬢様ってのをやめてもらえない? わたし、別に、お嬢様ってわけじゃないんだけれど」


 グレーズの窘めに、アンリエッタは噛み付くように言った。

 なんと、彼女はお嬢様というわけではない……では、その鼻につくような態度はなんなのだろう。


「親がただ、外資系の仕事をしてるから。なんか、えらい人らしいけれど。周りよりもちょっと大きなお家に住んでるだけだし。あんなプールだって、わたしは大嫌いだし」


「ガイシケイ……なるほどなぁ~、うん、分かる分かる。僕もね、ガイシケイはちょっと苦手って言うかさ。いや、僕は天才なんだけどね。やっぱ苦手な分野もあるよね」


「……」


 あたかも話が分かる体でグレーズはしきりに頷いていた。

 それをアンリエッタは不機嫌そうに見上げている。探りを入れる大きな目。少し、うつむき加減に見やっている。それはまるで、人に慣れていない警戒レベル最上級の小動物のよう。


「お母さんが言っていたけれど、アンタ、探偵なのよね? それに、わたしの言うことなんでも聞いてくれるって」


「はい! なんでも!」


 確かに、夫人からの追加依頼はそういうものだった。

 アンリエッタの機嫌を損ねないこと、と念を押されている。

 それに、まだたった六歳の年端もいかぬ子供だ。おやつの用意だのままごとの相手だのそういったことならば容易い。どんな要求でも喜んで引き受けるつもりだった。


 すると、アンリエッタはコートをぐいっと乱暴に掴んできた。少し、バランスが崩れてしまう。


「なんでもするって、言ったわね?」


「え、はぁ、まぁ、はい。なんでも、しますケド……」


 ころりと可愛らしい少女の声なのに、何故か圧が強い。思わずしどろもどろになる。


「それじゃあ、ちょっと、早速で悪いんだけれど頼みがあるの」


 少女は値踏みするように、口の端を釣り上げて笑う。

 何故だろう。いたいけな可愛らしい少女なのに、狡猾な詐欺師に見えてくる。

 その小さな唇からひっそりと言葉が紡がれる。


「あのね、わたしのジェニーを取り返して欲しいの」


「ジェニー?」


「えぇ、そうよ。わたしの可愛いジェニーがね、この前、盗まれちゃったの」


「なんだって!?」


 ジェニーがなんなのか分からないのに、グレーズは大声で驚いた。アンリエッタが両耳に指を突っ込んで目をつぶる。


「うるさいわね……いい? わたしの可愛いジェニーをちゃんとわたしの元へ届けてくれたら、アンタを認めてあげるんだからね」


 そう言うと、彼女はふふんと鼻で笑い、腕を組んでグレーズを見上げる。体は小さくとも、威厳だけは一丁前だ。


 グレーズは頭を掻き、苦笑を浮かべた。

 少女の頼みとあらば、それが依頼というのなら、喜んで引き受けるのがレグルス探偵事務所の方針だ。

 まぁ、仕事がなかなか舞い込まないから、という理由も含むのだが。


「……えっーと。それじゃあ、その、ジェニーってのがどんなのか教えてくれない?」


 さすがに、見ず知らずのジェニーとやらを探すのは難解だ。

 グレーズの困惑した声に、アンリエッタは「それもそうね」とあくまで上からの姿勢を崩さなかった。



***



 さて。

 アンリエッタが言うには、ジェニーとは大きくふんわりとしたテディ・ベアだという。

「これくらいの!」と、小さな少女が細い腕を広げてジェニーの大きさを教えてくれる。


「ふむふむ。それで、ジェニーは何色なの?」


「茶色よ。ショコラよりも少し薄みの。それでね、キラキラした宝石を首に付けているわ」


「宝石、ね……」


 大概の宝石は皆、キラキラと輝くものだ。


「宝石は何色なの?」


「えっとね……紫色、かしら。ピンクに似てるかも」


「紫にピンク……なんか不思議な色だねぇ。えっと、それじゃあ……ジェニーはいつ、いなくなったの?」


「んー……」


 少女は思案げに宙を見つめた。目と口をきゅっと結び、唸る。

 グレーズはサラサラとメモを取りながら、脇にあったクッキーに手を伸ばして言葉を待つ。


「そうよ。ルルのお誕生日だったから、六月四日よ」


「ルル?」


「ルルはジェニーのお婿さんなの」


 訊くと少女はすんなりと応えた。半ば、悲しげである。

 グレーズも眉を潜めて唸った。


「ほほう、そいつはどえらく大変だ……えと、六月四日ってことは、きっかり先週のことだね」


「うーん、それにしてもおかしいなぁ。ジェニーって結構大きいクマさんなんだよね? それをどうして失くしちゃったのさ」


 鉛筆をくるりと回しながら、何の気なしに訊いてみた。

 途端、アンリエッタがダイニングのテーブルを思い切り叩く。クッキーがバウンドするほどに。


「だから! 盗まれたって言ってるじゃない!」


「おおっと、あっぶねぇ」


 クッキーは死守する。


「ふーむ……それならさ、どうしてパパやママが大騒ぎしないんだよ。なかなかの大事じゃない? そ、れ……え?」


 別に、彼女を泣かそうと言ったわけではない。それなのに、透き通ったエメラルドの下からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていった。


「うわぁ、ごめん! いや、そんな、意地悪のつもりじゃなかったんだよ……泣かないで、お願い! ほら、クッキーあげるから」


「うるさい! それはわたしのクッキーよ!」


 菓子皿をアンリエッタは乱暴に引き寄せて、むしゃむしゃと小さな口に押し込んだ。甘さが口内に広がれば、涙も少しは止まってくれる。

 ただ、グレーズに対する不信感だけは拭えぬままのようで、じっとこちらを睨めつけていた。


 一方で、鈍感なグレーズはマイペースに椅子から立ち上がる。


「よーしよし、分かったよ。これだけ情報があれば探せるはずさ。僕に任せて、アンリエッタ」


「この流れで信用出来るわけないじゃない……」


 膨らんだ頬でもごもごと言うアンリエッタ。まだ睫毛には雫が残っている。それを指ですくい、グレーズは柔らかく微笑んだ。





「……というわけなんだ、エディ」


 クッキーを食べているアンリエッタから少し離れた廊下で、グレーズはひび割れた端末を耳に押し当てていた。


 一部始終を話している最中、エディは豆を挽いていたり、接客をしていたりと忙しなかったが、大体のあらすじは聞いていたらしく「ほぉ」と深みのある声を落とす。


『で、この昼のクソ忙しい中に連絡してきたわけだ。まったく、お前はいつでもどこでも面倒事を持ってくるんだな』


「たはは~」


『うーん……褒めてないんだけどなぁ。まぁ、いい。要するに一週間前に盗まれたクマを探すと。で、そのクマの見た目はどうなんだよ』


「それ、さっき言ったよね」


 思わずむくれて言い返す。すると、エディは苛立たしげに返してきた。


『絵でも写真でもなんでもいいから、その証言だけじゃなんとも言えんだろ。写真撮ってこっちに流せっつってんの』


「なるほど」


 ようやく合点がいくグレーズは、早速端末をスライドさせた。その際、通話が勝手に途切れてしまったが気づかずにカメラの機能を探す。


「あった。えーっと……アンリエッタ! ジェニーの写真とか絵とかあるかな?」


「あるわよ」


 ジェニーが絡むと素直になる我侭少女は、二階へと駆け上がり、やがてパタパタと足を踏み鳴らして戻ってきた。


「これ!」


 彼女が持ってきたのは、自作のイラスト。紙いっぱいに描かれた、クマと思しき形……それをパシャリと端末に保存すると、そのままメール送信のアイコンが飛び出した。


「なあに、これ」


「ん? まあ、見ててよ」


 送信が完了し、グレーズは端末の画面をスライドさせた。今度はコールなしですぐに通じた。


「あ、エディ、今……」


『グレーズ、ふざけてんのか』


 声を遮る罵声。その暗く厳しい声が端末の外にも飛び出したせいで、近くにいたアンリエッタが肩をびくりと震わせた。


『あんな落書きじゃ分からん。もっとマシなの寄越せ』


「はあ? ふざけてんのはそっちだろーが! 可愛いアンリエッタが一生懸命描いたジェニーにケチつけてんじゃねーよ、このボンクラ野郎!」


 あんまりな言い草に、こちらまで腹が立つ。

 グレーズの怒鳴り声に、アンリエッタはダイニングへ逃げたが、ちらりと様子を窺っていた。


「ちゃんと見ろ! よーく目を凝らせ!」


『あーもう、分かった、分かった』


 呆れた口調だが、僅かに焦りが見える。エディは電話の奥で「クソ」やら「うーん」やら悪態と唸りを繰り返していた。


 その間、グレーズは爪先をとんとんと床に打ち付けて待つ。


『……ん』


 短くも、何か見つけたようなエディの声。それを聞き逃さないグレーズはぐっと端末を握りしめる。


『……12番街、港……ああ、漁港にある缶詰工場。そこに、クマらしきものがある』


「12番街、缶詰工場……」


 脳に刻むように反復すると、エディは「ああ」と嘆息気味に頷いた。


『だが、グレーズ。依頼人はあくまでローレンス夫婦。子供の面倒を見ることだ。クマ探しは仕事じゃない。分かってるよな?』


「勿論さ」


 言われずとも、それくらい。

 グレーズは自信満々に声を返した。


「僕の仕事はアンリエッタと一緒にいること。それだけだよ」


『分かってるならいい。じゃあな。俺は忙しい』


 やや安堵した声音だが、すぐに彼は素っ気なく通話を切った。無情な電子音がグレーズの鼓膜にぶつかる。


「……ぐ、グレーズ?」


 おずおずとこちらに寄ってくるアンリエッタ。気の強そうな眉を下げてグレーズのコートを握っている。まだ怯えているらしい。


――まったく、エディは……。


 呆れを早々に打ち消して、グレーズはニヤリと口の端を伸ばした。満面の笑みで少女を見下ろす。


「アンリエッタ! ジェニーの居場所が分かったよ!」


「本当に!?」


「ああ、ほんとさ! 今から迎えに行こう!」


「えっ」


 キラキラと輝いていたアンリエッタの顔が瞬時に曇る。瞬く間に不安一色の少女と同じ視線までしゃがみ、グレーズは優しく言った。


「大丈夫。僕に任せてよ」


「……馬鹿を信用するにはまだちょっと無理があるわ」


 辛辣な声が返ってくる。そいつをうっかりまともに喰らったグレーズは、少しだけよろけたがどうにか踏ん張った。立ち上がり、両手を大きく広げる。


「いいかい、アンリエッタ。僕は君の願いをちゃんと叶えてやれる。それくらいの力があるんだ」


「うーん……でも、どうやって?」


 やけに自信満々な言葉だが、見当がつかないアンリエッタである。

 グレーズは口の端を横へと伸ばした。そして、彼女の脇を掴むとふわりと持ち上げる。


「こうやって!」


 慌てるアンリエッタを他所に、グレーズは玄関を開け放った。

 勢いよく助走をつけて……



 そして、



 その足は天高く舞い上がった。

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