1件目:馬鹿と天才は紙一重

第1話:4番街の馬鹿者

 ここは街が時計回りにぐるりと順に並んでいる。

 その中でも4番目の街、リラの花があちこち咲くこの場所、初めて来たのなら用心した方がいい。

 パン屋の親父からカフェの店員、更には腰の曲がったお婆まで、皆が口を揃えて言うだろう。


「ここ、4番街にはとんでもない馬鹿者がいる」と。


 そいつが道を歩けば、人々は思わず飛び退いて壁に背中をくっつけてしまう。いや、も危ないだろう。

 とにかく、遭わない方が身の為だ。いや、別に見た目はどこもおっかないわけじゃあないのだが。むしろ小さくて、足なんか小鹿のような……。





 石畳をタタッとリズミカルに踏み鳴らす音が聴こえる。

 昨夜は雨が降っていたものだから、敷き詰められた石の隙間に水がたまっていた。それを軽々と飛び越えれば、石が僅かに軋んでしまう。


「おっと、いけね」


 踏みしめた足を慌ててあげ、しまったと言わんばかりにぺろりと唇を舐めた。


「おい、グレーズ!」


 背後でパン屋の親父から呼びかけられ、グレーズは金色の髪をふわりと翻す。


「お前はまた……走るなといつも言われてるだろうが。また道を壊す気か?」


「しょーがないだろ! 寝坊したんだよ!」


 頬を風船のように膨らませて大声で言い返した。歳相応のむくれ顔に親父は緩んだ溜息を漏らす。


「仕事か? あぁ、そう言えば、エディがこの辺の店全部に挨拶してたなぁ……」


 その言葉に、グレーズは眉をぴくりと上に動かした。


「うへぇ……マジかよ」


「まるで、子供のお遣いだな。で、今日はどんな依頼なんだよ」


「あぁ、そうそう」


 グレーズはコートのポケットに突っ込んでいた走り書きのメモを取り出す。そして、メモに沿って目を走らせる。ついでに口も動いていく。


「えっとねぇ、今日は6番街のローレンス家に行くんだけどー」


「おいおい。聞いた手前、こう言っちゃなんだが、探偵が依頼内容をべらべら喋っていいのかい」


「え? あぁ、いーのいーの。だって、エディが僕に回した依頼だよ? 簡単、楽ちん、うっかり喋ってもなんとかなるやつに決まってる」


 楽観的に言い、更には鼻で笑う始末。これにはパン屋の親父も失笑だ。


「それより親父よ。僕を呼び止めたからには、分かってるだろうね?」


 ずずいっと親父の鼻先に詰め寄るグレーズ。にやりと口の端を横へ伸ばす。

 親父は眉をひそめて、「ちょっと待ってろ」と店の中へ引っ込んだ。


 ガラス窓越しの店内には、焼きたて熱々のパンが並んでいる。

 グレーズは、にこにこと小麦の香りを嗅いでいた。


「ほれ、もってけ。どうせ、飯食ってないんだろ」


 親父はバケットの端っこを切り落としたものをグレーズに投げて寄越した。

 見事、空中でキャッチする。


「ひゃっほい……あれぇ? これだけぇ? ハムとチーズは?」


「走りながら食えんのかよ……でも、まぁ、そう言うだろうと思って」


 親父は腰に巻いたサロンのポケットから、カットしたチーズとトマトを取り出した。それをすぐに奪い取る。


「わりぃな、それで勘弁してくれ」


「充分! ありがとー!」


 グレーズは真っ赤に熟れたトマトを見せて笑う。

 親父は「気をつけて行けよー」と手を振り、グレーズも倣って手を大きく振った。




 弾力のあるバケットを豪快に噛みちぎり、グレーズはメモを改めて読み返した。

 昨日に依頼が入ったと、所長兼相棒のエディは言っていたが……内容は、家の留守番を頼みたいとのこと。


――探偵っつーか、これはもはや便利屋というか何でも屋というか……。


 しかし、留守番なら慣れっこのグレーズである。


「留守番のプロと言っても過言じゃないね!」


 意気揚々と依頼を引き受けたが、エディの目には不安の色しか浮かんでいなかった。



 さて、そんな回想は脳の隅に追いやってしまい、チーズをごくんと飲み込んで住所を確認する。


「6番街、紫陽花通り3番地……おっきな家だって言ってたなぁ……ひょっとして、金持ちか?」


 だったら美味しいご飯が食べられるかもしれない。

 まぁ、あのパン屋も美味い品揃えではあるが。ふかふかのパンは好物だ。


「ふむふむ」


 トマトを齧り、果汁をすすりながら爪先で石畳を叩く。

 道路を走る車を横目で見やり、5番街の信号を待つこと数秒。トマトもバケットも全部食べ終えたグレーズはメモの位置をしっかり頭に叩き込んだ。

 信号が変わる。


「よーし」


 とん、とん、とん。意気込むように、つま先で地面を小突いた。

 狭い道路ならば三歩で渡りきってしまえる。車のボンネットを飛び越えて、軽やかに6番街へと足を踏み入れた。



***



 そこは、確かに紫陽花が咲き乱れる、リラの街とは一風変わった地ではあった。

 6番街、紫陽花通り3番地は話に聞いていた通り、大きな庭付きの家。

 そこの玄関先で、慌ただしく出かける支度をする中年の夫婦がグレーズの姿を見るなり、依頼をさっさと告げた……のだが。


「え? 子守なんて聞いてないけど」


「あら、言ってなかったかしら。所長さんには確かに伝えたはずなのだけれど……うちの娘、アンリエッタを頼みますって」


「えぇぇ……」


 苦笑を浮かべるしかない。

 意気消沈したグレーズだが、夫婦はただただ困った顔をして肩をすくめるだけ。


「でも、もうキャンセルなんて出来ないし……シッターも頼めないし、お願いよ」


「えぇ、あぁ、はい……喜んで」


 言葉とは裏腹な表情で、グレーズは大荷物のローレンス夫婦を見送った。


 家は三階建てで、庭にはプールまで備わっている。玄関ホールにリビング、キッチンは広々と、清潔感漂う。少し神経質そうな夫人でありそうだから人柄が顕著に表れていた。


 一通り、一階を見回った後、グレーズはコートのポケットに突っ込んでいた携帯端末を取り出した。

 画面を一度スライドさせれば、エディへ連絡が出来る仕様だ。複雑なことは覚えていられないので、これはグレーズの持つ端末専用の機能である。


 耳に押し当て、彼の応答を苛々と待つ。5コール目で呼び出し音がようやく途切れた。


『……なんだよ。もう迷子か』


 出るなり愛想の欠片もない疲れた声が聞こえる。

 不機嫌顕わだが、こちらも負けてはいられない。聞いていた依頼内容が違うのだから。これは従業員として捨て置けない。


「あっはっは! 残念! もう既に着きましたー!」


『ほぉ、そいつはおめでとう。じゃ、俺、仕事忙しいから』


「ちょっと! おい、待てコラ! 用事はそれだけじゃないんだよ!」


 電話口から声が遠ざかっていくのを全力で阻止する。

 エディは舌打ちすると、喉の奥から限りなく低い音を響かせた。


『グレーズ。俺、言ったよな? 朝は忙しいから連絡するなって。大したことないだろ、どうせ……あ、いらっしゃいませー。ほら、客が来るから。また後にして』


「はいはい、大変そうですねぇ。でもね、依頼内容を間違えるたぁ、さすがの僕も困るというかさぁ、子守とか聞いてないしね。疲れてるから~なんて理由になりませんよ、所長さんよぉ」


 こちらも相応の態度で向かうしかない。間延びした声でグレーズは困った体を装う。

 だが、エディからの応答はいくら待ってもなかった。


「ん? あれ? ちょっと、聞いてる? 聞いてないよね? 呑気に豆挽いてる場合ですかね!? ちょっと!」


 恐らく、コーヒーカウンターで接客をしているか豆を挽いているかどちらかなのだろう。

 仕事に勤しむ彼の邪魔はしたくないが、あまりにも扱いがぞんざいだと思う。

 グレーズは溜息を吐いて、応答のない端末をぶちりと切った。画面にヒビが入ったような気がしたが、まぁいいだろう。


 それよりも、依頼をこなさなくてはならない。

 いくら単純思考回路でも、言われたことはきちんとやり遂げたい正義感くらいは併せ持っている。


「よーし、こうなったらお嬢ちゃんの相手でもなんでもやってやんよ。この最強無敵な天才グレーズ様を舐めるなよ」


 夫人が言うには、一人娘のアンリエッタは部屋に引っ込んでるとのこと。二階の隅の部屋がお嬢様の部屋らしい。

 グレーズは階段を跳ね上がると、目当ての扉を優しくノックした。


「おはようございます。マダムから依頼をお引き受けした者ですー。アンリエッタ、起きてますかー?」


 ……返事がない。

 扉に耳を押し付けても、物音一つしない。


「っかしーな。あれれ、この部屋じゃない? あ、もしかして言葉が悪かったか?」


 それならば、もう少し丁寧にしたらどうだろう。

 グレーズは息を吸い込んで、穏やかな声音を喉から引っ張り出した。


「お嬢様、おはようございます。どうぞ、この扉をお開けくださいますでしょうか」


 ……それでも返事はない。ウンともスンとも言わない。

 耳を押し付けても、やはり、衣擦れ一つしない。


「えぇ? なんで!? どういうことさ! いるんでしょー、お嬢ちゃん! 挨拶くらいさせてくださいよー! でなきゃ、この扉ぶち壊しますよーっ!」


 足を上げて、扉に向かって、勢いよく……しかし、板をぶち抜くことは出来なかった。慌ててノブを回して、扉が小さく開かせた少女の手が見えたからだ。


「……いるから。ぶち壊したら、承知しないんだから」


 ふんわりとした栗毛に、大きな両眼は大粒のエメラルド。その愛らしい容姿をちらりと見せた少女は、警戒の面持ちでグレーズを睨んでいた。

 それでも、扉を開いてくれたならきちんと感謝しなくてはいけない。上げていた足を降ろし、グレーズはにっこりと笑った。


「はじめまして。4番街のレグルス探偵事務所から来ました。どうぞ、よろしく」


 淡いターコイズの両眼を輝かせ、小さな依頼人を見つめる。


「僕のことは、グレーズと呼んでね」




 ここは街が時計回りにぐるりと順に並んでいる都市、クロノ・ヴィル。

 その中の4番街、リラの大通りにはレグルスという小さな探偵事務所が密やかに看板を掲げている。

 しかし、そこには皆が口を揃えて言う馬鹿者アンべシルが住むという。



 さて――グレーズが出会ったのは、未だに警戒と疑心を面に浮かべている小さな少女。6番街のお金持ち、ローレンス家の一人娘であるアンリエッタ。


 ただの子守で済めば良いのだが……果たして。

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