cap.5 過去

夢を見た。

遠い昔の、酷く懐かしい青春のワンシーン。

季節は三月。いやでも人を浮足立たせるその季節においても、彼女はいつものように俯いていた。

「未来と今日が人間の進む道ならば、私は存在しない概念である過去なのよ」

桜が咲き乱れる堤防の道で、彼女はそう言って笑った。正直本当の意味はわからなかったし、今でも全て理解することはできない。

彼女の名前は薬市過去(やくしかこ)といった。「過去」という名前が冗談でもなんでもなく本当に彼女に付けられたものであると知った時は、驚きよりもまず先に憐憫を覚えた。

どこの世界に自分の娘に「過去」と名付ける親がいるのだろうか。この子はきっと誰にも言わないだけで親からネグレクトを受けていたりするんじゃないかと邪推したりもしたが、そんなことはなくむしろ外見上は身なりの良い到って普通の女の子だった。

話を聞くと彼女の家はいわゆる資産家であるらしく、なるほど持ち物は全て質素ながらも一目で高級品とわかるようなものばかりだったし、良家の子女らしく礼儀作法や言葉遣いもきちんとしていた。

ただ、彼女は酷く暗かった。陰鬱と言ってもいい。口数が少なく、いつも伏し目がちで滅多に笑わない。顔は整っていて涼しげな美人だったものの、彼氏はおらず友達も私が知る限りでは作っていなかった。

いくら私たちの通う高校が進学校と呼ばれるものであったとしても、いじめの標的になるのは避けられれなさそうなものだが、しかし彼女は卒業するまでそのような目にあうことはなかった。

曰く「薬市過去は魔女である」、これが私たちの通う高校で流布されてた噂である。

無論彼女がそんなものであるはずがないのだが、しかしこの根も葉も無い噂を信じていないのはむしろ私くらいのものだった。

なんでも彼女をいじめる人間は皆突然精神を病み、入院してしまうのだという。

そんなバカなとは思っていたが、小学校の頃同級生だったという友達が大真面目な顔で言うもんだから、私は薬市さんに直接聞いてみことがある。

「ねえ、薬市さんが魔女って本当のことなの?」

その時、彼女は酷く驚いた顔で私の顔を見て、それから陰惨な笑みを浮かべて私に言った。

「なら、試してみましょうか、篠崎さん」

そう言って凄む彼女の眼は澄み切っていた。

晴れ渡った大空を見るような気持ちで見入ってしまい、それからハッとして答える。

「うん、お願い。私魔女ってまだみたことないからさ、どんな風に魔法使うのか見てみたいの」

私の言葉を聞いた彼女は、静かに笑って、

「魔女はね、好きな人には魔法を使わないのよ」

そう言って、また歩き始めた。


目が覚めて、事務所を見渡す。

デスクで寝るのはいつものことだが、今回はどうにも目覚めが悪い。

兄はいないようだ。引きこもりがちのあいつにしては珍しい。

寝ぼけた頭と瞳で近くの書類を認識する。

「薬市今日子、ねえ。」

高校卒業とともに消息を絶ってしまった私の数少ない友人と同じ名字を持つ女子高生に少しだけ親近感を抱いて、私はまた眠りについた。

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