第39話
狭く暗い牢獄内で老人はその身に似合わぬ若い情動に動かされていた。
しかしその精神は若さの甘さのみならず、年季を経て人生に対する過度な期待を捨て去ることができた老人の苦みも混ざってる。
「賭けになるな」
老人、天野主命の今後の方針は決まった。
牢獄内の選択肢のなさ、老人という選択肢のなさ、世界的犯罪者という選択肢のなさが、彼の方針を決定した。
「上手くいくとは思えんが」
若者は成功を期待しすぎ、老人は失敗を知りすぎている。
主命の独り言はまるで、その二人が会話をしているようであった。
「今更惜しむ命でもないだろ」
「命は惜しくはないが、失敗すれば無になる。目的の達成が前提にならねば」
「やるか、ここに座り続けるかだ」
「やるか、死ぬまで、か…」
自分同士で会話したところで、自分の決定を覆す材料はでなかった。
胡坐を組んでいた老人は、やおら両腕の袖をまくり上げた。
「あいつはきっと反応する。あいつには責任がある」
「それほど人の関心を持っているとも思えんが。あいつを釣るにはこれしかないか…」
何度も息を整える。整えようとするたびに心臓が跳ね上がったり胃が痛んだり。これから行おうとすることに肉体が恐怖し反逆を行う。主命の顔も泣きそうな顔であり目も涙目だ。
「ハァ!」
決意の息吹。外に漏れないように小さく吐く。
決意した。夜の闇の中。光は小さな小さな窓から入る月の光だけ。
暗がりの中、男の顔は決意の鬼の顔になる。
右腕をおもむろに上げて、
その手首に噛みついた。
ためらいがあごの力を全力にしない。その肉体的恐怖を振り切り。脳の奥の精神が強制命令を出す。
手首の皮膚が割け血管が傷つき出血した。
そんなものはまだ序の口だ。さらに顎に力が入り自らの手首を破壊する。
さらに奥に歯を差し込む。歯が骨に当たるがかまわずにガシガシと噛む。自分の腕をローストチキンを食べるようにほじくる。ぐにゅりと歯に触れた、それを噛んで引き釣り出し、噛み切った。
血流が口の中に飛び込み、顔にほとばしった。
主命の顔は自分の血液で赤くなったが、その内面はまさに血が引いた状態。自分の行為と生命の危機に恐怖していた。
だが、まだ足りない。
主命の口はもう一本の、左腕に噛みついた。
血液が捨てられるように流れている。
両腕から勢いよく出ていた血も弱弱しくなった。
心は狂乱と冷静。なんとか命を食い止めようと脳は回転するがすべて空回りだ。その命を捨てようとする精神は達成感と、やはり恐怖に震えていた。
自分の死。そこに向かって落ちていく感覚。
主命は涙を流し続けていた。
やがてその涙も、涙腺に命じる主人の不在により止まった。
牢獄で天野主命は死んだ。
「無茶をする。私が君の命に関心を持たなかったらどうするつもりだったんだ?
せっかく戻してやったのに、命をどぶに捨てる。こういう事件が青少年の健全な精神の育成にどれほど悪影響があるのか。
まあほとんどないか。
真似して訴えるにも君は死んでるしね。
しかし、噛みついて自害とは。老人の執念というのは恐ろしい。若者の愚かさも同じくらい恐ろしい。
もういいよ、小言はここまでだ、目覚めなさい」
机に突っ伏していた老人はガバっと目を覚ました。
「?」
ここはどこだと周囲を見る。
昼間いた取調室、鏡と机とだけの部屋。そこに老人は座って眠っていた。
「夢?」
「夢ではない、手首を見たまえ」
声の通りに袖をまくって両腕を見ると、大きな噛みつき傷があった。しかしそれは傷が治った痕だ。
声の主の方を見ると、あの取り調べの男だった。しかし、今や過去の記憶を取り戻した主命はその男を知っていた。
「地球の、神様ね」
主命は賭けに勝った。
しかし半分の勝利だ。
「半分ではない、鏡を見ろ」
神の言うとおりに部屋の壁を覆うマジックミラーの鏡面を見ると、
椅子に座っているのは「あちらの世界の若い天野主命」だった。こちらに座っているのは老人の天野主命。
「地球の神である私に歯向かうために自害するとは。普通そういうのは無為の死っていうんだぞ。神として忠告しておく、自殺はやめておけ。まあしかし、その自害が今回だけは功を奏した。君の目論見が成功したわけではないがな」
「これしか手が(両手首の傷跡を見せる)、なかったからね。命を粗末にしたことは謝るよ、神様」
「まあしかし、残念なことにキミの賭けの通り。私は死んだ君をもう一度転生させる。若い方としてな。ただしそれは君が思っているのとは違う理由でだ」
「なんでもいいよ、やってやる。やり残しを片付けたいんだ」
神は神妙に、主命の顔を見る。
老人の顔を
鏡の向こうでは若者の顔を。
「キミにやってもらう事、大した仕事じゃないよ。ただちょっと……世界を救ってもらいたいんだ」
神からお願いをされるなら、これくらい大きい方がいい(とは、天野主命は思わなかった)。
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