第38話
解放された主命は独房に戻された。戻るさなか、廊下の窓から見える寂れた日陰の中の、たった一本だけの枯れ木に、小鳥がとまり主命を見つめていた。その灰色の庭に似合わぬ鮮やかな黄緑色の小鳥は廊下を進む主命を目で追っていた。主命はその小鳥にわずかな微笑みを返した。
独房に入れられた主命は一人、床に胡坐を組んだ。
記憶を開く鍵は手に入ったが、いまだに全ての記憶が戻ったわけではない。記憶の細い糸を切らないように手繰り寄せ、失っている物を取り戻さなくてはいけない。
彼の人格はすでに、この牢屋入れられ世間を呪い殺そうとしていた老人のものではなくなっていた。何かそれとは別の、より豊かなモノ、より過激な世界に触れた人間の精神に入れ替わっていた。
胡坐を組んだまま瞑想に入る。答えはこの頭の中にしかない。それを引き釣り出す。記憶を引っ張るのには現実の手も足も使えない。脳の中に妄想の腕を作り出し、記憶に手を突っ込むしかない。
手掛かりはキリコ=アリス。
それをとっかかりとし、記憶を引き出す。
思い出せ!
思い出すんだ!
何度も脳に命令を出すが、コマンドを受け付けない旧式のコンピューターのように反応がない。
アリスの顔写真は過去に何度も見た。彼が殺した被害者として
「殺しただろ!」
「違う!}
「殺したはずだ!」
「違う!」
フラッシュバックする当時の過酷な取り調べ。あれは取り調べというよりも洗脳だった。あの頃の地獄が蘇り動悸が早まり旧式の肉体が悲鳴をあげるが、それを精神で抑え込む。今なら過去の自分よりはっきり言える。
「俺は殺していない!」
殺してない!そのキーワードが記憶を呼び覚ました。
キリコ。彼女は修道服を着ていた。教会で戦って…
「殺しただろう!」
「殺して…ない!」
キリコを殺していない。それどころかしばらく一緒に暮らしていた。そしてキリコの体、唇の記憶、その声も思い出した。
「俺は彼女を殺していない…」
主命は安堵の声をだした。彼の人生においてアリス=キリコを一度も殺していない。その事実、それだけは彼がすがっていい真実になったのだ。
そしてキリコの隣にいた、あの…
「…神?」
意外な言葉。だがその言葉はさらに記憶を蘇らせた。
あの異常な世界、神と神が争う…
目を見開く主命。一番大切なことが脳内をすり抜けた。目をぎゅっと閉じ息を止め集中する。これを逃してはいけない。
全力で脳に力をこめる。額に血管が浮き上がり、顔は赤から青色に変わり、呼吸は止まりかけている。それでもあきらめず脳内の暗闇の深く深くへと己を投げ込む。
つかみたい、脳内の深奥にある忘れてはいけない、あの人のことを。
目から流れる涙に血液が混ざり始めた。
脳の闇の中に光が見えた。その光は人の心の中にある、誰の心の中にでもある当たり前のもの…主命はそれに手を伸ばし…
つかんだ。
止めていた息を吐き大きく吸い込む。
「パーーーシャ…!」
記憶が怒涛のように蘇った。
前世。
他人の人生。
他人として生きた自分の人生。
その人生という高密度情報体があふれ出し、主命を溺れさせた。
さらに情報を複雑にしたのは、地球の主命を前世としてアチラの主命が生きていたのに、転生をキャンセルされた結果、転生後の人生を前世の記憶として、地球の主命に蘇ったからである。
「転生の転生の転生の…」
胡坐を崩した老人が呟く、しかしその中身、精神は90代と20代のブレンド品であった。
「パーシャルティー…」
彼は全てを取り戻していた。
ただ無期刑の収容者としてではあるが。
「まいったねこりゃ」
主命は周囲を見渡す。狭い牢獄。冤罪事件の犠牲者としてここで一生を終えるはずだったのが、地球の神とやらの気まぐれで昏睡中に転生され、用が済んだとばかりにまた戻された、その牢獄に捕らわれたままである。
「ま、実際、ここに入れられる理由もできちゃったしな…」
地球の主命は犯罪行為は一切していない。しかし転生後の主命は借り腹の母を筆頭に、いったい何人殺したのか。
前世の恨みを転生後に晴らす。だが転生後に拭い難い罪を犯した時、次の人生でどう償えばいいのか。
「転生なんてするから、前世の罪も罰も恨みも引き受けなくちゃならなくなる」
主命はしばらくの間、ただ座っていた。
だが座ってばかりではいられないということも分かっていた。
「このままってわけにはいかんよな」
他者に翻弄され続けた人生だった。道具として扱われ続けた人生だった。
最初は国のスケープゴートにされ。
次に転生者として異世界に放り込まれた。
続いて女神の暗殺道具となった。
最後は用済みとして牢獄に捨てられた。
「決着をつけなきゃならない」
主命の中で90代の重い怒りと、20代の熱気あふれる怒り、その両方が燃えていた。
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