第37話


 取調室の鏡に映った老人と男。本体と鏡像の間にはわずかなわずかな時間差がある。それは光の速度感覚の中での”わずか”であるため人間には感知できないが、たしかに鏡面を介して現在と過去の姿が同時に存在していた。

老人の過去は手短にまとめられ、その時に感じた彼の感情は余計な細部として調書からすべて取り除かれている。

そのため彼の人生の後半はわずか数行で終わっている。

「20歳から60歳までの期間、収容され60歳の春に脳溢血で倒れ、以降昏睡状態のまま」

短い文章だが、彼にとっては地獄の人生であったはずである。

彼は年老いて朽ちていく間、ひたすら世間全てに対して「殺す」と「殺してやる」を言い続けることしかできなかったのだから。


調書を読み聞かせた男は老人を見る。

老人は目を伏せ、テーブルの下で自分の手の皺を撫でていた。

「もう一度聞きます、あなたは誰で、なんの罪を犯したのですか?」

老人は顔を上げはっきりと答えた。

「私は天野主命。わたしは、やっていない」


老人の目に生気が戻っていた。蘇った過去の記憶がボロボロの体を支え、凛と背筋を伸ばさせた。

「今となってはあなたがやったかやっていないかを、気にする日本人はいないでしょうが」

男は老人の蘇った凛々しさに敬意を払わなかった。

「それでも真実はあるのです。その真実がある限り私は自分を信じられる」

「おかしいですね、昔のあなたはそんなに凛々しい方ではなかったと聞いています。むしろ、見苦しかったと。それはあなたの蘇りと関係があるのですか?あなたは長い昏睡から復帰したばかりなのに…妙に、活き活きとしている。昏睡している間になにがあった?」

「妙なことおっしゃる。昏睡していた相手に昏睡中なにか健康にいいことをしていたとお尋ねですか?ならば快眠とお答えしますが」

男は頭をかく。

「いい夢でも見ていたんでしょう。きっとあなたのことだ、無罪を勝ち取り家族のもとに帰った夢でも」

老人は男の無礼に対して反応しなかった、ただ遠い目をして昏睡中にあった出来事を思い出そうとしていた…


出来事?

なぜ夢ではなく出来事と自分は思ったのだ?

脳が震えた。まるでこれからくる大津波を恐れる小さな堤防のように、それが来た時に起こるであろう決壊の予感に脳が震えている。

たしかに自分はこれまでの人生の記憶を取り返した。昏睡という生命の一大事を乗り切った。その間に記憶が混濁してしまった。だがその記憶を全て取り戻したはずなのに、今の自分に繋がらない。なにか今の自分になるための重要な記憶のピースがごっそりと抜けている。

失っている。まるで青春時代の記憶を全て失ったかのような、人格形成の時間が人生の中に存在しない。

男の調書がテーブルの上に几帳面に並べられている。そこに並んでいる書面こそがこの老人の人生の全ての記録のはずである。これが全てであるはずなのに。

なのに足らない。ミッシングリンク、失われた物を探して資料に目をやる。

米国大統領、ジョージ・サリバン。片足の大統領としてその後も活躍、障碍者に対する様々な法律制定に関わる…

事件で死亡した大統領の娘、アリス・サリバン。死亡した当時の写真…

「アリス…サリバン」

「ああ、これか。かわいそうに、あなたが殺したことになっているな、世界史の教科書にも載ってるよ」

そういって写真を取り出し老人によく見えるように置いた。

「この子は…」

老人の手が震えている。その少女の顔は記憶にあるとおりだった。脳内にイカヅチが落ち、固い岩となっていた脳にひびが入る。記憶が染み出してくる。

次に言った老人の言葉は男には理解不能だった。

「神様も粋なことをしやがる、ブサイクは美形に転生させる。しかし、美少女はそのままに転生させる」

大統領の娘アリス・サリバンの顔は修道女キリコの顔と同じだった。

キリコは天野主命が殺したとされる大統領の娘アリスの転生した姿だった。


記憶を開く鍵が主命の手にもたらされた。

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