第35話


 「目覚めよ」

その声がどんどんと遠ざかっていき、まるで宇宙の向こう側から響いた声のように聞こえる。

目を開いたとき、そこは白い部屋だった。寝たままの自分。まつ毛は長く重い。目やにがたまりそれがさらにまつ毛を重くする。何度か瞼を動かすが視界のボケが取れない。

頭がぼやけている。つい先ほどまでの光景を思い出せない。いた場所、いたはずの女性、声を発した男の顔。

思い出そうと記憶の写真を取り出すたびに、冷たく固い脳ミソがその記憶の写真をねっとりと取り込み、理解することもできずに粉々に溶かしてしまう。

まるで寝ている間に脳が下に偏って固まってしまったかのようにまるで働かない。思い出す記憶の断片を冷たい脳が端から溶かして薄灰色のスープに変えていってしまう。記憶がどんどん溶けていく。

「あ、うぁ…パーしゃ」

口に出して思い出そうとしても、張り付いた唇、石のような舌、のどは乾ききり、声もろくに出せない。言葉として出てきた記憶も空気に触れるだけで粉々に砕けるほど脆かった。

記憶が崩れ落ち、自分が誰であるのかも分からなくなってきた。起きようとしてようやく、自分がベッドの上で眠っていたことがわかった。腕には栄養チューブが刺さり心肺機能をモニターする装置が体に取り付けられていた。

起き上がろうとしたが、ベッドから落ちただけだった。体も言うことを聞かない。

自分の腕も手も皺だらけだった。落ちるときに倒したアルミの入れ物は鏡のように反射を写していた。

その代用鏡を拾い自分の姿を眺めた。

はじめは誰が写っているのかわからなかった。

そこには見ず知らずの老人が見ず知らずの人物を見る顔で写っていたからだ。

「あ、う・・・ああ・・・!」

扉が開き医療関係者らしき人物達が入ってきた。

彼らは暴れる老人の抵抗を押さえつけ、鎮静剤を射ち再びベッドに縛り付けた。

薬物にまどろむ老人は、彼らの会話を聞いた。

「まさか20年以上も昏睡状態だった受刑者が目を覚ますなんて…」

その言葉の意味を彼の脳みそは処理できずにいた。


目覚めた翌日、彼は取調室のような部屋に連れていかれた。行く際に廊下の窓から見えたのは、建物に取り囲まれ陽がまったく当たらない中庭に植えられている、葉が一枚もない老木だけだった。

うす暗い取調室、マジックミラーに写る自分の姿を見つめる。やせた老人、髪は髭も伸び放題だ。

一人の男が入ってきた。老人はその男の顔に見覚えがあったのだが、思い出せない。そのうち見覚えがあったということすら忘れた。

その男は地球の神と同じ顔をしていた。

そこで行われたのは調書を取るという形での、記憶の再焼き付けだった。男は老人の人生の記録を老人に語り、人格を蘇らせようとしていた。


天野主命、現在98歳

老人はマジックミラーを再び見た。たしかにそんな年齢だ。対面の男は咳払いをして老人の目線を正面に戻させた。

20歳までの彼の人生、それは重要ではなかった。天野主命にとって重要なのは20歳のある一日とそれ以降の長い拘禁人生の方であり、彼の生い立ち自体はこの場ではまったく扱われなかった。

彼が20歳の夏のある日、ビルの清掃のバイトをしていた。暑い夏、冷房がついていない部屋の掃除のさなか、彼は遠い所から聞こえる爆発音を聞いた。次いで群衆が騒ぐ声が波のように伝わってきた。窓から外を覗き音のした方を眺めていたが、なにかの事故だろうと思ってすぐにバイトに戻った。


その日の爆発音は来日していた米国大統領を狙ったテロだった。表敬訪問した施設前の道路、そのアスファルト下に仕掛けられていた爆弾が爆発し米国大統領の片足を吹き飛ばした。

大統領は日本の病院で最小限の処置をした後、すぐにヘリで横田に向かい大統領専用機で帰国した。

大統領が帰国した後の日本の慌てぶりは哀れを通り越して滑稽であった。日本にとって最も起きてほしくないことが首都で起きてしまったのだ。大統領は一命を取り留めたとはいえ職務復帰は困難なので副大統領へ権力が移譲された。

米国大統領重傷の報は世界各地に様々な影響を与えた。世界中の反米活動に火が付き、軋んでいた世界経済は各所で崩壊へのスピードを加速した。米国の象徴を傷つけた日本人の行為をほめたたえるテログループがいくつも現れ、日本の印象は下落の一歩だった。なにより米国からの突き上げが凄まじかった。


大統領は片足を失った。しかしそれ以上に大統領と共に来日していた大統領の娘がその爆破テロにより死亡したのが大きかった。

大統領の娘は十代の美少女であり、米国内でもアイドル的存在だった。

顔面を蒼白にした日本政府は、爆破で散らばった彼女の肉片を2週間かけて、ひとかけらも残さず集めたことを自慢しながら米国に遺体を返還した。

その態度がさらに米国民の怒りに油を注いだ。

3週間が経っても犯人の目星もつかなかった。世界中から、国内から、政府から、警察内部から攻められ続けた捜査本部は、ある一人の男に目を付けた。

その時、国内の雰囲気はまさに「誰でもいいから捕まえてしばり首にしろ」というものであり、そこに正義の追求など存在しなかった。

天野主命、20歳、米国大統領暗殺未遂ならびに大統領のご息女殺害の容疑で逮捕される。


老人が反応を示した。調書を読み上げていた男が老人を見ると、老人は口元に垂れてしまった涎を拭いていただけだった。

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