第6話



 キトラの慌てぶりは常軌を逸していた。彼ほどの名士ともなればたしかに敵対者は多かろうが、殺害予告の一枚だけであそこまで狂乱するとは。

 彼に警備として雇われている男は、この異常に厳戒な警備体制が必要であるのか、未だに疑問だった。5階吹き抜けの手すりから下を見る。臨時の雇われ警備が暇そうにしている。

 「無駄金だ、こんな場所に入り込めるような奴は…」

 顔を上げると目の前の竜の頭から影が飛び込んできた。

 顔面を手で抑え込まれ勢いのまま押し倒される。倒れる瞬間にみぞおち下にナイフを三回も差し込まれて、その警備の男は倒れた時には絶命していた。

 飛び込んだ勢いで男を殺した後、主命は左右を警戒し今の殺しを誰かに発見されていないかを確認する。誰にも気づかれていない。背後を見る、竜の頭の上に女神はいない。

 「後は自分だけでやれってことか」

 廊下の影を音もなく進む。獲物はもう間近だ。廊下から見回り中の男が現れて鉢合わせる。

 慌てることなく、胸部腹部と二回ナイフを刺し、崩れ落ちる男の背後に周り頚椎にナイフを刺し込みを脊柱を分断する。

 恐ろしく素早い殺人。返り血も浴びていない。

 5階中央にある扉、その扉をゆっくりと開け、僅かな隙間から中をうかがう。高級そうな室内に高級そうな寝間着姿の男の後ろ姿。漂ってくる空気も甘い花の香りがする。この部屋の主が主命のターゲットであることは間違いない。

 室内には獲物が一人、警備の人間はいないようだ。廊下と吹き抜けに目をやる。見回りが回ってくる気配はない、今がチャンスか。


 無音で扉を開け中に入る。豪華な室内には様々なガラスの瓶が並び、化学の実験器具が揃っている。その科学設備は豪華な室内とは不釣り合いである。屋敷の主は未だに主命が近づいていることに気づいていない。

 キトラとの間にテーブルがあり、その上に送りつけた写真、殺害予告状が置いてあった。殺人を完璧にするために必要だと思い手を伸ばした当たりから異変が始まった。

 部屋の中に香る臭いが鼻の中に充満し喉元まで押し寄せてくる。突然の体の疲労、動きがどんどんと鈍くなり平衡感覚が機能しなくなっていく。

 倒れ込みそうになりテーブルに体を預ける。テーブルの上の実験器具を次々と落として破壊してしまう。なんとか立ち上がろうとするが、立ち上がれずテーブルの上に上半身を乗せて首を獲物の方に向けるのが精一杯だった。


 「フフフ、安心したよ。殺し屋には効かないんじゃないかと心配したよ」

 シュコーシュコーというふいごの音。

 ゆっくりと振り返るキトラの顔面にかぶさった仮面。目はまんまるなガラス板、口からはチューブが伸びて腰の装置につながっている。

 「毒…ガス」

 毒ガスマスクの中でキトラの目だけが笑う。わざわざ殺害予告などをして罠にハマった愚かな暗殺者を見て笑う。

 キトラの目から笑いが消え、マスクの中から怒気を含んだ声で尋ねる。

 「貴様何者だ?なぜ私の前世を知っている?誰に頼まれた?」

 テーブルの上のキトラの前世の写真を取り主命の顔に押し付け。

 「誰からこの写真をもらった?答えろ?」

 キトラからしてみれば彼の前世、真名を知られるということは命を奪われるということに等しい。その怒りを発散する道具として、ガスで弱った暗殺者ほどの適役はいない。

 顔面を腹を腕を太いキトラの腕で殴られ、後頭部をテーブルに叩きつけられる。

 主命絶命のピンチであるのに女神の姿は現れない。自分で救命するしかない。

 肉体の動きを限定された主命は、テーブルの上で実験材料の様にキトラの殴られ続けた。

 フラフラと上げられた主命の腕、その手首には鉄製の牙が付いていた。その牙をキトラの毒ガスマスクの留め金に引っ掛けた瞬間、体をテーブルから落とした。

 留め金は主命の体重により破壊されマスクは外れ、素顔のキトラの顔が現れた。

 彼は一息、甘い香りのガスを吸った瞬間に恐怖にかられ主命を無視して部屋の外に飛び出した。開けっ放しの扉から新鮮な無害な空気が流れ込み、主命の体の毒素を抜いていく。

 しかし、開いたドアの向こうではキトラの必死な叫びを上げている。それにより警備が殺到するのは明らかである。

 ようやく体を上げ、キトラを追う。警備が5階に上る前に彼を殺すチャンスがあるかもしれない。ガスが痛覚も鈍らせていたのか殴られた痛みが体中に現れる。しかし、痛みによって覚醒された神経がガスの効果を薄くもさせてくれる。

 室外に出る、吹き抜けを見ると各階で警備が大騒ぎをしている。下の階層の警備が主命を見つけて声を上げる。5階の警備も彼を取り押さえようと駆け寄ってきている。

 キトラは、すでに一階の吹き抜けでこちらを見ている。

 「駄目か…」

 主命は諦めた。獲物を殺すことも不可能、逃げ出す手段もない。殺人者として転生した自分の運命、それが極まった事を実感した。

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