自殺奇譚

 化学の授業にはギリギリーチャイムが鳴り終わった直後ー間に合って、その後の授業もまじめに受けて午前中の授業が終わった。

 僕は授業が終わってすぐに一階のトイレへと急いで向かった。

 斐たち二年生の教室は学校の三階にあって、そこそこ人数が多いため昼休みのトイレは常に込み合っている。三年生のいる四階、一年生のいる二階も同様だ。それに比べて一階は生徒の教室がなく、先生の教室も少ないためトイレはいつもすいている。それなら、一階のトイレに斐以外の生徒も行きそうなものだが、そうしない理由がある。


 昔、ある女子生徒が一階の女子トイレで胸に包丁を突き刺して自殺した事件があった。その時は事件現場として使用できなかったが、事件のほとぼりが冷め、再びトイレが使えるようになると少女の霊を見たという生徒が現れ、そのトイレには幽霊がいるという噂が学校中で流れた。ここまではどこかで聞いたことのある話だが、本当の事件はここからであった。

 噂が蔓延して、一階トイレがあまり使用されず、肝試しの場となっていた時のことである。ある男子生徒たちが女子生徒の自殺現場に入って、動画を撮ってとクラスメイトに見せた。その動画を男子生徒たちと一緒にはしゃぐ者もいれば、非常識だとさげすむ者もいた。

 その次の日、その男子生徒たちは女子生徒と同じ場所で同じ箇所を刺されて死んでいた。この事件は生徒たちの間を駆け巡り、女子生徒の祟りだと言われた。事件性の可能性もあり警察沙汰となったが結局、全員自殺との判断であった。この事件により学校側は一階トイレの改修の計画を立てたが、あらゆる不運により中止となった。これらのことからいつしか女子トイレだけでなく一階トイレは「スーサイド・スポット」と呼ばれ、いわくつきの場所になった。今ではその名を口にすることも行くこともしてはいけないと、学校全体の不文律となった。

 しかし、班目斐はそんなことは微塵も知らない。仮に知っていたとしても彼ならあっさりとこう言うだろう。

 「そんなのただの偶然だろ」



 いつも通り、人の気配がないことを確認して僕は一階男子トイレに入った。

 トイレの中は掃除が雑なのだろうか、アンモニア臭だけではない異様なにおいが立ち込めている。そんなことは気にせず、ポケットからコンタクトレンズの保存ケースを取り出した。慣れた手つきで目からコンタクトレンズを外す。そして、レンズケースから丁寧に洗浄されているコンタクトを一つ取り出し、装着しようしたとき。

 「ガチャ」

 と扉の開く音が聞こえた。反射的に僕は左目を開いている手で覆い隠し、下を向く。スタスタとこちらに近づいてくる足音がする。足音は斐の後ろで止まる。

 この場をどうやって切り抜けるか、言い訳はどうしようかと考えていると、斐は全身から冷や汗が流れているのに気づいた。すると、ぽん、と肩に手がおかれた。予想外の出来事に思わず振り向く。

 針金細工のような長細い体に短髪、銀縁のメガネのクールな面持ちの男だった。その姿を見て、安堵した。

 「脅かすなよ、ごう

 剛と呼ばれた男は枝のような手を振りながらへらへらと笑う。

 「いつも、こんなところにいんのか」

 「あぁ、この学校で人気のない場所って、ここくらいしかないからな」

「それにしても、相変わらずオカルトってやつを信じないんだな。流石はアンチおカルトの班目君だ」

 その言葉に僕は首を傾げる

「? 何のことだ」

 剛は唖然とした表情で言った。

「まさか……お前知らないのか」

 少し考え、首を縦に振った。

 そして僕は一階トイレにまつわる奇譚を聞かされた。隆造院りゅうぞういん剛の解説は事件の当事者ではないかと疑うほど細部まで正確であった。説明を聞き終えると、僕は率直に思ったことを言った。

 「そんなの、ただの偶然だろ」

 剛はクスクスと笑った。僕は再び、きょとんとして首を傾げる。それを見て、剛は堪えきれず腹を抱えながら大笑いした。

 わけが分からなかった。だけど、なぜか馬鹿にされているような気がしたので

 「な、なんだよ」

 と言った。剛は目をこすりながら、笑いを押し殺し、言った。

 「い、いやさ、お前の感想があまりにも予想通り過ぎて…フフフ」

 そして、また笑いだす。そんだけのことか、とため息をついた。ふと、幼稚園からの付き合いによって僕ら二人の気持ちは以心伝心の域まで達した説を考えてみるがありえないという結論に至った。

 「じゃあ、剛。お前はこの事件が幽霊かなんかの仕業だと考えるのか」

 「いや、俺もオカルトの仕業だとは思っていない。この事件は意図的に行われた殺人事件なんだよ。間違いなく」

 剛は自信満々な顔で、断言した。

 「ふうん。で、その根拠は」

 「実はな、女子生徒の自殺した直後にトイレから出てきた生徒がいたって噂があるんだよ」

 「噂か。実に非科学的な根拠だな、剛。じゃあ聞くけど、女子生徒の胸元に刺さっていた包丁に女子生徒以外の指紋はついていたのか」

 質問されて剛は少しうつむいた。昔から立場が不利になると剛は目線をそらす癖がある。幼馴染だからわかることだ。

 「いや、分からない…」

 語尾に力がなくなっていくのを見るところ図星らしい。意地悪だが、剛にはこのくらいがちょうどいい。畳みかけるように質問をする。

 「他にも現場に犯人がいると思わしき物的証拠はあるのか、それに目撃者はいるのか、犯人は男なのか女なのか、他にも……」

 「………」

 無言。剛は僕をノリの悪い嫌な奴を見るような目で見る。そして、無表情の中に敬遠の色がうかがえる。少しやりすぎたかな、と思う。しかし、いまだに信じがたい瞬時にひらめく根拠のない判断が僕に訴えかける、やりすぎではないと。

 この状態が5秒ほど続き、剛から口を開いた

 「はぁ~。相変わらず容赦ねーな。今回は少しくらい話に乗っかてくれると思ったのに、本気で話をつぶしに来やがって」

 とやれやれという風に手を挙げる。どうやら僕はなにかを試されたらしい。

 「じゃあ今までの話は全てお前の作り話なのか」

  確認のため聞いてみる。

 「女子生徒と男子生徒複数が自殺したってのは本当の話だぜ。そこから後の殺人事件説は俺の作り話だ」

 と剛は言った。僕はトイレを見まわしながら事件の内容を思い返してみる。やはりただの自殺事件にしか思えない。しかし、あんなに否定をして根拠はないのだが、剛の言ってた殺人事件の線も間違いではないのではないかと思い始めていた。

 実は斐の直感は正しかった。それは今後の話で分かるであろう。


 事件のことについて考えていると

 「斐。左目を覆っている手、いい加減取ったらどう?」

 にやにやと指を差しながら剛は言った。はっ、と僕は今まで視界がやに暗かった理由に気づいた。そして、ここに来た目的を思い出した。

「剛、今何時だ」

慌てて、言った。剛はポケットからスマホを出し、僕に見せる。時刻は12時58分、昼休みが終わるまでもう、少ししかない。

「ったく、今日はついてないな」

 「? 何かあったの?」

 「一時間目の数学が終わった後、芹沢に説教を受けて、危うく化学に遅れるとこだった」

 「それは災難だったな」

 剛はへらへらとおかしそうに笑って言った。他人事のように思いやがって。まぁ、他人事なんだけど。

 「それにしても相変わらず綺麗だな」

 「へっ?」

 不意に変なことを言い出すので、間抜けな声を出して振り返ってしまった。

 斐の右手の人差し指にはコンタクトレンズが乗せられていた。ただし、色は透明ではなくダークブラウンであった。なぜにカラーコンタクトなのだろうか。

 「いや、俺的にはコンタクトなんか入れなくてもいいと思うんだよね」

 「僕は目立ちたくないんだよ」

 そう言いながら斐は栗色のコンタクトレンズを深みのある翡翠色ひすいの左眼に重ねた。二度瞬き、鏡を見てちゃんと入ったことを確認する。ちょうどよく掃除開始5分前の予鈴が鳴った。


 清掃場所へと向かっている途中、ふと気になったことを尋ねた。

 「そう言えば、あそこの掃除はどの学年が担当しているんだ?」

 「確か、清掃員を雇っているはずだよ。過剰すぎると思うんだよね、いくらあんなことが起きたからって」

 「ああ、そうだな」

 そんな話をしていると作業服の黒髪長髪の女性とすれ違った。柔軟剤のいい香りが鼻を刺激する。

 「なぁ、今の人の顔見たか」

 剛は真面目な様子で尋ねてきた。

 「いや、帽子で見えなかったが」

 「多分、可愛い系だな。俺のセンサーがそう告げている。後をつけてくる」

 メガネを上へずらして、剛はキリッと言って、くるりと踵を返して女性の方向へ歩いて行ってしまった。僕は呆れて声も出ない。

 僕もあの女性に少し興味を持ったが、すぐにどこかへ失せてしまった。

 この時、斐が女性の風貌を少しでも覚えていたとしたらこの後の展開は違ったものになったのかもしれないし、変らなかったかもしれない。

 「キーンコーンカーンコーン」

 掃除開始の合図が鳴り響く。斐は慌てて走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 



 

 


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