第5話
美雨が、笑顔で歩いていた。
爽やかな海色のワンピースを着ていて、少しだけ高い踵の靴を履いている。
満面の笑みを浮かべている彼女の隣を歩くのは、背の高い男だった。
俺の目は、新しい恋人よりも美雨だけに焦点が合っていた。
約一年近く付き合った俺が、見たことがない笑顔だった。
とても楽しそうだった。……俺と一緒にいた時よりも。
……そもそも俺は美雨と一緒に、どこかへ出掛けたことがあっただろうか。
いや、ない。俺が人混みが苦手だから、デートは主にインドアだった。
映画を見たり、ゲームをしたり……部屋の中でも十分に楽しめた。
美雨も楽しそうにしていた。
目の前の光景から、過去の回想へと無意識のうちに逃げていた。
「ねえ! 今度の土曜日には水族館に行こうよ!」
美雨が、いきなり思いついたのか背後から俺の両肩を掴んで、提案してきた。
「水族館?」
俺の頭の中には、電車で二時間かかる水族館が浮かんだ。
小さい頃、何度も連れて行って貰ったらしい。しかし、記憶がない。
どうせならば、物心ついてから連れてきて貰いたかった。楽しい記憶もなければ、遠方の水族館は楽しみも何もない、ただ行くのが面倒な場所でしかない。
「せっかく美雨がやりたがっていた新作ゲームが手に入れたから、これからの週末、一緒にゲーム出来ると思ったのに」
アルバイトをして貯めたお金で買ったゲームを、一瞥する。
「うん。ゲームも楽しいけれど、水族館とか……動物園とかさ。
そういうところにも行きたいなぁ………なんて」
水族館も動物園も、人が多いことは変わりない。
面倒だと思うあまり表情が歪みそうになったが、なんとか堪える。
美雨を説得するために、振り返って両目を真っ向から見据えた。
そして、今度は彼女の両肩を掴んだ。
「けっこう遠いから、向こうでゆっくりとしたいなら朝早くから行かないといけないよ? 帰りだって遅くなるわけにはいかないから、早めに出ないといけないし。
それに美雨は待ち合わせの駅までも含めて、何度も電車を乗り換えないといけないから、大変じゃん。電車の運賃が、もったいないよ」
「でも……定期があるから水族館に行くまでの運賃しか掛からないよ。
私もバイトはしているから、お金のことは大丈夫。ワリカンでもいいよ」
「それに休日だから人も絶対に多い。
ゆっくり鑑賞も出来ないだろうし、イルカショーだって見れるかどうか」
「それは仕方ないよ。どこも一緒だよ」
「家なら、ゆっくりできる。
無駄に歩き回らなくていいし、余計なお金は掛からないし」
「それは……うん、そうだね」
あと一押しだ。俺は、すぅと息を吸い込んでから、力を込めて言った。
「俺は、美雨と一緒にいられればそれでいいんだ。
ただ一緒にいられるだけで楽しいんだよ。幸せなんだよ、だから……!」
「いたい」
「ずっと一緒にいたいと思うし、その……大好きだから」
「いたいって」
「ん?」
「肩、痛い……」
気づけば、華奢な両肩を掴む手には力が入り過ぎていた。
「ごめん! 痛かった?」
「大丈夫」
美雨は耳に、ほつれ髪をかけるとフッと小さく息を吐くように微笑んだ。
「私も遼君の事は、大好きだよ。うん……だから、家でゲームしようか。
そっちの方が楽しみだって、思えてきたし……」
「そうだよな! 良かった!」
俺は、美雨がわかってくれたことが嬉しくて、笑顔を浮かべることが出来た。
ただ一緒にいるだけでも楽しかったから。
顔を見るだけで嬉しかった、声が聴けるだけで幸せだった。
触れ合えば心が通じていると思っていた。
だから、わざわざ出掛ける必要性は感じなかった。
外だと人目があって、なかなか気が休まらない。
室内なら二人っきり。邪魔者がいない、密室が親密を高めてくれる。
俺が嬉しいように美雨も嬉しいだろうと思った。
美雨は恋人だけれど……赤の他人なのに。
好みを合わせる事は出来ても、心まで同じにはなれるはずがないのに。
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