第一話 タコとナンパ
「それで、結局帰ってきたんだ」
面白がるような男の声に、リュースははっとして顔を上げた――目の前の男も、そんなリュースにきょとんとした面持ちを向けている。
「どうかしたかい? リュース」
「いや……ちょっと、な。頭が、ぼおっとして」
言うなり、こみあげてくる欠伸も我慢できずに、リュースは大きく伸びをした。それを見て男も苦笑し、「それは仕方ないよ」と頷く。
「魔王の城からとんぼ帰りしてきて、今だろ? 戦いづめで、寝もせずにお酒まで飲んで。むしろ、その体力に驚きだね」
その言葉に多少の呆れを読み取り、リュースは「ふん」と目の前のエールをあおった。顔ほどの大きさがあるジョッキに注がれた黄金色の液体は、もうすでに半分ほどなくなっている。ふう、と大きく息をつくと、アルコールを飲んだにもかかわらず、頭を覆っていた澱みがかえって薄くなったような気がする。リュースは口許を拭い、じとりと相手をにらんだ。
「余計なお世話だ。そんなことより、逃げた野郎が何処にいるか、少しは良い案だしてみろってんだ」
「そう言われても……手がかりも、これだけじゃあねぇ」
男は苦笑しながら、リュースの持ち帰ってきた手紙をテーブルに広げた。だがその薄い水色の眼は、存外楽しそうではある。
リュースと男――アーティエがいるのは、〈東の魔王〉の居城から最も近い人間の村である通称「間際の村」だ。魔物の住み処であり、且つ人間が足を踏み入れるのことを赦されない瘴気の森に、最接近している人間の村。
自ずと危険な地域ではあるが、その分魔物との衝突が多く、冒険者――とりわけ魔物退治を主に担う「勇者」登録者が多く集まる村でもある。そのため、辺境の地でありながらも、常に賑わいのある村だ。
その村の中でも特に人が集まるのは、村の中央近くにある酒場だ。専門の酒場は村に一軒しかないが、村の規模に対してかなり大きな造りになっている。村にやってきた冒険者達は、この酒場で情報交換を行うのが常だ。リュースらもまたその類いに漏れず、この村に来たときは必ずと言って良いほど利用している。
「それにしても」
ふっ、とアーティエが手紙を眺めながら笑う。
「まさか、一人で魔王の城に乗り込むとは」
「仕方ねぇだろ。生半可なツレと行ったところで、足手まといにしかならねぇし。そもそも個人で魔王を倒そうなんて本気で考えてるヤツ、そうそういやしねぇからな。王族に派遣されるような、エリート勇者ならともかくよ」
言って、リュースはまた一つ欠伸をした。やはり、眠くないと言えば嘘になる。城での戦いでは、体力も精神力もかなり削られた。仮眠程度はしているが、おそらく食事が終われば泥のように眠ってしまうだろう。
またぼんやりと思考がさ迷いかけた先で、アーティエが「まぁ、そうだろうけど」と、手紙を指先でトンと叩いた。
「僕も、聞いたときは驚いたしね」
にこりと微笑むアーティエに、リュースは鼻息だけで返事をした。
吟遊詩人である彼とリュースが出会ったのは、もう何年も前のことだ。リュースが登録している冒険者組合から委嘱された依頼を引き受ける際、偶然パーティーを組むことになり、そのままうまがあって話をするようになった。その後も、行く先で出会った際には、今日のように情報交換を兼ねた食事をすることも多い。
アーティエは蜜色の髪を掻き上げながら、しみじみと再び手紙を見つめた。
「一人でやってきて、しかも玉座までたどり着くだなんて、魔王たちも驚いただろうなぁ。それでこんな置き手紙って、余程リュースに会いたくなかったんだろうね」
「だからって逃げ出すかよふつー、魔王が」
「まぁ……。でも、探しだしてどうするんだい?」
「決まってるだろ。のして、賞金をいただくまでだ。知ってるか? 魔王にかけられた懸賞金。島買った上に、そこに村まで作れそうなバカげた額だぞ。一生豪遊できらぁな」
そう鼻で笑うリュースに、アーティエは首を傾げた。
「賞金目的だけで、魔王退治なんて危ない橋を?」
「人類の安寧や発展のためだなんていうのは、それこそ王室派遣の勇者が言えば良いことだろ。個人事業で、そこまでだいそれたこと言えるかよ。金だ金。知名度もあればなお宜しい、ってな」
リュースは再びジョッキをあおると、その中身を一気に飲み干した。ふぅ、と息をつき、空になったジョッキを机の上に乱暴に置く。アーティエの前に広げられた手紙をひょいと取り上げ、「ふん」と口許を歪ませた。
「ま、敵前逃亡するようなヤツでも、世間的にはおっかない恐怖の魔王だからな。さっさと見つけ出して始末すれば、晴れて俺は成金野郎、ってわけだ」
「そういえば、城にいた魔物たちは? 彼らなら、行方を知っているんじゃ」
アーティエの提案に、リュースはふと眉をしかめた。
「ヤツらなら、城の中を探し回ったんだけどな。どいつもこいつも、すっかりいなくなってやがって――」
「きゃあぁっ!」
不意に、店内に悲鳴が響き渡り、リュースは言葉を止めてそちらを見やった。アーティエも、周囲の客らも、一斉に同じ方向を見ている。
騒ぎは、カウンター席の近くで起きているようだった。既に人混みができつつあり、リュースらの席からでは見ずらいが、いかにもガラの悪そうなスキンヘッドの大男が、席に座っている誰かの腕をつかんでいた。
「おいおい、そんな声出すことねぇだろ、ネェちゃん。ちょいとこっちでお喋りしようって誘ってるだけじゃねぇか」
「あ……や、困ります……」
どうやら、酔っぱらいのナンパらしい。バカバカしい、とリュースは自席に置いてあるメニューに視線を移した。酒ばかり飲んでいるため、そろそろツマミも欲しいところだ。
騒ぎはまだ続いている。
「こんな店に一人じゃ心細いだろうって、誘ってやってるんだ。人の親切心を仇にするたぁ、ひでぇ女だなぁ」
「いえ……あの、私」
弱々しい声に、周囲から口笛とブーイングが上がる。基本的には皆、血の気の多い者ばかりだ。それが、酒が入ることで暴走するのもよくあること。
「おい、注文なんだけど」
そう、近くで固まっている店員に声をかけると、見知ったその男は慌てたようにリュースの方へ駆け寄ってきた。
「リュースさん、あれ止めてくださいよ。ヤバイです」
「何言ってんだよ。あんなの、そのうち店長がなんとかするだろ」
この店の店長は、腕っぷしは強くないものの、単細胞な客たちの扱いは上手い。ちょっとした騒ぎなら、収め方も心得ているだろう。
だが、店員の顔は曇ったままだ。耳打ちするように、リュースへ顔を近づける。
「あの絡んでる男、半年前くらいも来たんすけど。その時も大暴れして、止めようとした店長の鼻折ってんすよ。結局、周りにいた客たちがヤバいってんで押さえてくれたんすけど……」
「出入り禁止にしとけよ、そんなヤツ」
呆れ口調のリュースに、アーティエが「どうするんだい?」と視線を向けてくる。場違いにニコニコとしたその眼に、リュースはむっと眉を寄せた。
「どうもしねぇよ。なら、お優しい誰かさんが止めてくれるだろうよ」
その通りだった。
「止めなさい」
朗々とした、一際通りの良い声が店内に響く。だが、その声を聞いた途端。リュースは自分の顔が一瞬にして引きつるのが分かった。
声は続ける。高い、女の声が。
「か弱い女性を無理矢理手込めにしようだなんて、あなた恥ずかしくないの?」
できれば、聞かなかったことにしたかった。見たくもない。周囲が騒然となる中、リュースはじっとうつむいて固まっていた。
「なんだ、随分勇ましいなぁ。一緒に相手して欲しいのか? え? お嬢ちゃんよお」
急な邪魔者に、大男は苛立つよりもむしろ楽しげに答えた。
「顔に傷なんてつけて、もったいねぇなぁ。よく見りゃ、なかなか可愛い顔をしてんじゃねぇか。俺は傷物でも優しくしてやるからよぉ。紳士だからな」
ゲラゲラと、大男が品のない笑い声を上げる。するとそれに同調するような笑いと、成り行きを見守っていた者たちのざわめきとが大きくなった。
「とんだ下衆野郎ね」
ツンと尖った声が、関係ないとばかりに答える。更に声を張り上げ、
「こいつだけじゃないわ。か弱い女性が困っているのに、ただ見てるだけのあんたらみんな同罪よ。腰抜けもいいとこね」
途端、ざわめきが更に大きくなった。しかも、先程までよりずっと険悪な調子だ。
「やりますね、彼女」
座席を立とうともしないまま、アーティエが笑う。だがリュースは、答える気にもなれなかった。
「~~~ったく、マジかよクソ……ッ」
半ば蹴り上げるようにして席を立つと、テーブルがガチャリと音を立て、隣にいた店員が小さく悲鳴を上げた。アーティエも心なし、目を大きくしている。
だがそれらを無視し、リュースは傍らに立て掛けてあった剣をつかむと背中に負い、カウンターの方へとズンズン進む。
騒ぎは相変わらずで、誰もリュースなぞ気にする様子もなかった。無言で人混みを掻き分け前列近くまで行くと、騒ぎの様子がようやく見てとれた。
カウンターに座り、おどおどと周りに顔を巡らせているのは、おそらく最初に絡まれた女だろう。薄布を頭から被ってはいるが、布から出た顔半分――その高い鼻や白く透き通るような肌、形の良い紅い唇を見れば、充分に美しいことがうかがい知れた。黒く長い髪は艶やかで、身なりもよく、正直こんな酒場には場違いである。だからこそ、目をつけられたのであろうが。
その横に立つのが、スキンヘッドの男だ。毎朝磨いてでもいるのか、店内の灯りを反射してピカリと輝いている。がたいもかなり良い。戦斧でも振り回してそうな外見だが、その腰にあるのは剣だ。幸い、抜刀はしていない。だからこそ、野次馬も囃し立てるに止まっているのだろうが。その周囲には、仲間らしき男たちもへらへらと立っている。まあ、似たり寄ったりだ。
そして一番注目を集めているのが、スキンヘッドの前に立つ女だ。少女と言っても良いだろう。背は高くない。むしろ、女の中でも小柄な方だろう。防具などは身につけておらず、むしろリボンのついたキュロットをはいており、カウンターの女とは別の意味でやはり場違いだ。眉上の前髪なため、勝ち気な眼がやたらと目立つ。だがそれ以上に、その真下にある大きな傷跡の方が視線を集めやすくもあった。
少女は一歩前へと踏み出すと、身体を大きく見せるかのように手を振るいながら続けた。
「これだけ腕に覚えがあるはずの男たちがたくさんいる中で、暴漢に天誅を下そうという心意気のある正義漢は一人もいないというの? 情けないったらない。大勢がいるから自分じゃない誰かがなんとかするだろうなんて、そういう心理状況が悲劇を生むのよ? そうね、あんた。そう、あんたよ今キョロキョロとしたヤツ――違う、隣のじゃなくて、金色の趣味悪そうな肩パッドつけたあんた。あんたがこの悪漢を倒しなさい。良い? 緊急時に動こうとしない集団を使うには、こうした個別指示が一番有効的――」
「いい加減にしろ」
リュースが背後から頭を小突くと、少女は「ぎゃっ!」とおおよそ可愛らしくない悲鳴を上げた。
キッと見上げてきたその表情は、しかしリュースを見るとすぐにパッと弾けた。
「リュース!」
「エリシア。なんでお前がこんなとこにいるんだよ」
「そんなの、リュースを探しに来たに決まってるじゃない。あ、大丈夫ちゃんと父さんと母さんには了解とってるから。そんなことより」
やけに目をキラキラと輝かせながら、少女――エリシアが続ける。
「さすがだわ、リュース! 困っている女性を助けるために、自分から名乗りを上げるなんて! お姉ちゃん、鼻が高いわっ」
「は……?」
周囲をちらりと見やると、群衆の視線はリュースに集まっていた。痛いほどに。スキンヘッドまで、にやにやと見てくる。
顔をひきつらせるリュースになど構いもせず、エリシアは続ける。胸の前で、手など組ながら。
「あたし、信じてた。リュースは良い子だって。そうよね、なんてったって、魔王を倒そうだなんて考えるくらいだもの。ならず者なんてぺぺいのぺいよね」
リュースが答えるより先に笑い声を上げたのは、スキンヘッドだった。
「魔王を倒す? なんだ、まさか王室派遣の勇者だってのか? 印もねぇし、んなわけねぇよなぁ」
顔が赤いのは、酒のせいだろうか。にやにやと赤ら顔を歪め、リュースらへと近づいてくる。
「ずいぶんとでかい得物を持っちゃいる
ようだが、不釣り合いじゃねぇのか? そういうのは、もっと鍛え上げられた身体のヤツが持ってなんぼだ。テメェが持ってたところで、こけおどしにもならねぇよ」
「なによっ! リュースはねぇ――」
「るせぇよ、タコ野郎」
スキンヘッドにつかみかかりそうな勢いのエリシアを押し止め、リュースは自分から一歩前に出た。自分よりも顔半分近く大きな相手を下からねめつけ、平然と笑ってみせる。
「海の生き物が無理して陸に上がったりしてるせいで、すっかり茹であがっちまってるじゃねぇかよ。海産物は大人しく、漁師に水揚げされとけってんだ。あぁ、それとももう調理済みだから酒場にご提供されてんのか茹でタコがよぉ」
「なんだとこのハッタリ野郎が。弱い犬ほどよく吠えるってんだ」
互いににらみ合いながら、距離を測る。得物のリーチは、リュースの方が長い。が、それはその分、近接戦に向かない武器であると言うことだ。特に、このような狭い屋内では。
そもそも、冒険者らが集まる酒場では武器は携帯すれども抜かないのが、暗黙のルールであり、絶対である。血の気の多い男が一人武器を振りかざせば、流血沙汰になることが必至だからだ。もし今、リュースかスキンヘッドのどちらかが武器を抜けば、たちまち群衆から袋叩きに合い、ここにも出入り禁止になるだろう。
リュースは左半身を引き、軽く腰を落とした。拳は軽く握る程度だ。だが、それで充分――身体に余計な力をかけず、ほとんど自然体に近い構えだった。
リュースより縦にも横にも大きな男は、そんなリュースを見てにやりと顔を歪ませた。
「そんなんで構えたつもり――かぁっ」
やはり腰の物は抜かず、無手でつかみかかってくる。リュースは特に動かなかった――いや、動かないように見えただろう。スキンヘッドなどは、動けないと思ったくらいかもしれない。だがリュースは上半身を捻り、男の腕に込められた力を逃がすと、伸びきったその腕を固めた。
「ふ――っ」
鋭い息吹と共に、バランスを崩しかけた男の固めた腕に、軽く体重をかけてやる。「うおっ!?」という声を上げ、スキンヘッドはあっさりと床に倒れた。
「な……」
ダメージはないはずだ。だが、予想外の倒れ方をしたせいか、スキンヘッドはリュースに腕をとられたままぱちくりと瞬きし、文字通り固まっている。
腕は固めたまま、その後頭部に足を載せ、身動きを封じる。スキンヘッドは状況を理解すると、屈辱でかますます顔が赤くなったが、頭を抑えられては起き上がることもできず、自由な手足をばたつかせた。
「いいか。これ以上恥をかきたくなけりゃ、この場は引き下がるんだな。刺身にしてほしけりゃ、また別の機会にでもおろしてやるよ」
「……っ」
スキンヘッドは更に力を込めていたが、不自由な体勢ではどうにもならず、やがてがくりと力を抜いた。
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