酔い
気づけば、ホバックは仰向けでいびきをかいていた。からになった酒と杯がころがっている。ついさっきまで、笑いながらヤジをとばして、飲み続けていたのに。
芝居はまだ続いている。ミズヲは話を追えているのか、自信がなくなっていた。客席は好き勝手に騒いでいる。眠っているのもいる。聞かせどころではまだ耳が集まるが、余興が多すぎて、たびたびなにかがとぎれるからだ。近くの座席のない観客たちも宴の途中だ。それぞれ車座になって、語りあったり、大声でわらったりしている。波はあるが、騒々しい。
ミズヲはホバックのからだを揺すってみた。
「おい、しっかりしろ」
まあまあいい夢をみているのか、不機嫌ではない様子で目を閉じている。ミズヲはここまできた狭い廊下や身をねじるような階段を思い返した。とても大の男を背負ったり担いだりして、運びおろすのはむりだ。が、ほおっておいてよいかどうかもわからない。だがなにもしないのも落ち着かない。
ミズヲはいったんその場を離れ、狭い階段をおりはじめた。人が慌ただしく往き来したり、その合間に、雑然とものがおかれている。荷物かガラクタのなかから、きれいでもない汚すぎない毛布をみつけると、ひっぱりだして運んだ。
ホバックに毛布をかけると、半開きだった口がほにゃほにゃと動く。
「なんだ?」
ミズヲは顔を近づけて声をきいた。水が欲しいといっている。
近くの人にわけてもらおうかと周囲をみたり、声をかけたが、酒しかないという。ミズヲは酒瓶をもって、また狭い道をおりる。道々声を掛けられる。
あらいい男、お兄さんよってって
おいおいどこへいく、これから出番だぞ!
一緒に歌おう
踊ろう!
皆どれくらい本気なのかわからない。目があってもあわなくても、酔っている人々に声をかけられる。少しでも目新しいものや、動くものにぜんぶ声をかけているのかもしれない。さきほどより酒臭いのは、たくさんの芸人のうち出番が終わったものたちが、そこで即席の祝杯をあげているからだ。状況の混乱さに気付き、ええい、おまえたちもう出て行けと、掃き出そうとしている者もいるが一筋縄ではない。
「水はないか?」
「酒ならあるぞ」
「水はないか?」
「なんだって? こんな日に酒をのまないやつがいるか?」
ミズヲは劇場をでた。周囲もそこかしこで店が開き、食べ物や飲みものが売られ、大道芸があちらこちらで人々を集めている。ミズヲは落ち着いて記憶をたどり、確実に井戸があると記憶している、広場に面したある一角の裏通りに入った。少しは静かになるが、いたるところで小さい酒宴が開かれ、こどもたちが耳がつんざけるような声をあげながら、笛や太鼓や鐘を鳴らして走り回っている。
井戸の近くにいた人たちに、水をくれと声をかけると、ある女が、周囲とのはなしをやめないまま、素早く水をくみ上げ、ミズヲのもってきた酒瓶にいれ、礼を述べるのもきかず、楽しい話をとめない。ミズヲはおとなしく来た道をもどった。
「ミズヲだ!」
「ヲダ!」
変な抑揚の声でするどく名前をよばれ、彼は足を止めた。小男とのっぽがニヤニヤしながらこちらをみている。どこかふんいきが違うのは、身なりがこぎれいになっているせいだ。
「俺たちはザルト商会に呼ばれたんだ。もう格がちがうからな」
「ちがうからナ」
「お前なんか相手にしてやってるんだぞ」
「それはどうも……」
ミズヲは応えながら考えた。彼らが申し立てた寝床代はザルト商会の伝令に頼んで運ばせた。伝令は、ザルト商会で働いているものなら、自由に使うことはできるが、当然、どこからどこへ、なにを運んだかは、集めて報告されるだろう。封をしている荷や文についての公表は申告は必須ではないが、ミズヲは「宿代として金を」と、そのままに告げた。それがどのように伝わり、解釈されたのかはわからない。ザルト商会が、いちいち伝令が動いたすべての内容と金を確かめきられるとは思えないが、気に留めるようなことがあれば、小さな酒宴にでも呼んで余興をさせ、用心するべき相手かどうか判断したのかもしれない。自分の名前が入った依頼なら、注意をひいたのかもしれない。
自信過剰かもしれないし、実際、彼らはご縁ができて少しいい思いをしたなら、なにも問題はない。
「お友だちなら、中央陣地のほうへいっていたよ」
細いが響きのよい声が飛んできた。子どもに手をひかせて、サフィーリが近づいてくる。
「魔法使いのことか」
「そうよ。あの人をさがしているのでしょう」
「いまは、天井桟敷で酔いつぶれたやつに、真水をもっていく」
「それは急ぐべきことね」
「なぜ、レンラを探しているとおもったんだ」
「レンラをさっき見かけたから。彼女が通りかかったときに、ふたりが声をあげて、返事をしてくれたから」
「まじないをするってさ」
「まじないをするッテ!」
「あのひとは、とても優れた魔法使いらしいね。周囲に似たようなにおいのひとが付き従っていた。面倒臭いことを押しつけられているだけだと彼女は言っていたけど」
「面倒くさい?」
「死者の魂をおくる。すべての、去年からいままでのあいだになくなった人のすべての魂を。その儀式が、明日の朝。その儀式を取り仕切る」
「そうなのか? レンラが?」
ミズヲは不審な顔をせざるをえない。
「魔法使いたちの事情までは、わたしもわからない。さあ、がんばって水をとどけてあげて」
「がんばれ」
「がんばレ!」
謎の応援を背にうけながら、ミズは来た道を戻る。
また裏口から、喧噪極まりない舞台袖に入り、上り始める。どれほどの見せ場なのか、客席から歓声や拍手がわきおこり、楽師たちがこれでもかと大音量でかき鳴らし、笛を吹く。多くの人の声が、合唱がきこえる。
ようやくまた狭い天井の空間に戻ってきて、ホバックに声をかけると、ぱくぱくと口を動かす。
「水をもってきた。起きれるか」
杯についでいる間にからだを起こす。ミズヲからうけとって喉を鳴らす。そしてまた横になる。夢の中の状態のような、ふわふわとしているがムダのない動きに、ミズヲはあっけにとられる。
舞台や客席のざわめきが少し静まった。舞台に衣装をかえたノミヴォが立っている。楽器の奏でる静かな前奏をきいている。
風よ告げよ
水を運べよ
誇り高き馬は駆けよ
私をあの人の元へ運べ
いいえ、わたしはいまもうあの人のすぐそばにいる
手を伸ばせば届くところに
はっきりと声を聞いて甘くふるえられるほどに
ああなのになぜ私は身を隠し
あなたが本来の私のために
苦しみを負わねばならないのでしょう
姫は他の人間に姿を変え、自分を手に入れるために無理難題に挑む恋人のあとを密かに追っている。目的を達成するために恋人は、遠くでまっているはずの姫を裏切るような行為をするかどうか、せまられている。姿を変えた姫は、それを明かしてしまうと、まじないが解けて身代わりの命が危険にさらされる。
哀切と怒りが混ざった、悲しく強く、感情が揺れ動いてあふれる旋律と声。
話だけを追っていると、よくもまあそんな物語のための状況ばかりを様々に積め込められるものだとミズヲは小首をかしていていたが、いざ登場人物たちが力強く歌い合わせれば、なぜ心が揺り動かされる。
強い愛と葛藤。もう少しで愛しい人は難問に応えて国にかえり、結婚する権利を得る。ここまでの苦難の道を、密かに追って助けてきた故に、彼はここまでこられた。だがそれは一度きりの愛への裏切りが要求されている。おとなしく宮殿にいれば、そんなことは知らずに帰還を喜ぶことができたのか。ここへこなければ、恋人はずっと前に挫折するか命を落としていた。
ノミヴォは切々と強く情感をこめながらも、決して役くや音楽に溺れることはない。ただ強い歌声が、場にいるものたちすべてを圧倒していく。
やがて万雷の拍手。なんどもなんども礼をして、舞台袖にさがってもまたふたたびでてきて、拍手と声援に応える。
「俺は、だいじょうぶだぞ」
もぞもぞと動いて、ホバックがいった。
「もうここで寝る。他にも用があるだろう」
「ほかに」
「ずっと俺につきあうことはないぞ。これを最後まで観ていたいっていうなら、好きにすればいいけどな」
夢見心地に口を動かして、ホバックはまた眠りに落ちた。
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