陽が暮れたころに、レンラは、自分が呼ばれているときいて、ザルトの屋敷を訪れた。ベニエは、彼女を、にこやかに迅速に、自分の部屋に招き入れ、周囲を警戒するように、扉をきっちりと閉めるや否や訴えた。

 突然四人から求婚された。知っている人や、知らない人から。誰も立派な人だ、私のことを考えてくれている。

「でもあの方たちの中からは、選ぶことができません」

 魔法使いは困惑する彼女を座らせ、その足元に跪いて、見上げながら手を重ねた。丁寧な物腰と、優しい深いまなざしに、ベニエは落ち着こうと努力した。

「お父様もお婆さまも、求婚してきた人のなかから、決めろというんです。もう待っていられないと。妹の結婚が決まったときでも、わたしのことは何も言わなかったのに」

 それはおそらく黙って待つことで、本人の意志を尊重していたのだろうとレンラは考えたが口にはださないでおく。いつもよりも落ち着いた口調で、彼女はしずかにいった。

「ザルト氏は、お父様は、あなたの結婚について、ずっと何もおっしゃらなかったのですか」

「お祖母さまや、他の方が、結婚の話を持ち出しても、笑ってやり過ごしていました。でも、今回は、いまが、いまこそが結婚するのにふさわしい時期だと言い出して」

 ベニエは涙の衝動から懸命に気をそらした。

「どうすればいいのか、どうすれば……」

「簡単なことです。求婚してほしい人に、求婚してもらいましょう」

 ベニエの頬も耳もみるみる紅潮する。レンラは続けた。

「行きましょう、いまから」

「いまから?」

「大丈夫ですよ。不安になることは何もありません。あなたがお望みなら、惚れ薬を用意しましょう。ほら、ここに」

 芝居がかった仕草でレンラが手をひらくと、青い小瓶と橙色の小瓶がのっていた。銀色と暖かいきらめきがこぼれ落ちる。

「ひとつは月明かりのしずくを閉じ込めた夜の薬。静かに深く包み込むようにあなたを愛する。ひとつは陽の光を集めた昼の薬。暖かく情熱的にあなたを照らすように貴女を愛する。この薬をほんの一滴、意中の人のまぶたに垂らしてしまえば、目をあけて最初にみたあなたの虜になってしまう。あなたの愛を望まずにはいられなくなってしまう。あなたにすべてを捧げ、守り、幸せを誓うことでしょう。さあ、美しいお方、どちらをお望みでしょうか」

 ベニエは長いまつげで瞬きしながら、二つの小瓶の美しさと魅惑の効能に目を奪われた。しだいに笑顔になり、こみ上げる愉快な笑い声をこらえた。

「ありがとうございます」

「たくさん笑っていなさい、美しくお若いお方。しかめつらをしていては、つなぐべき鎖がちぎれてしまう、ほどける紐もこんがらがってしまいますよ。だいじょうぶ、あなたには愛がある、未来がある」

 やがて、ベニエは魔法使いを丁重に屋敷からみおくった。手早く身支度をととのえた。頭巾をかぶり、静かに裏口から外へ出た。

 屋敷の離れたところで、再びレンラと落ち合うと、夜の街を急ぎ足で進む。街は夜でも高揚していた。あちこちから聞こえてくる陽気な歌やかけ声に、はやる気持ちはますます高鳴ってゆく。

 彼らとちょうど入れ替わるように、ザルトの屋敷を訪れた若者がいた。顔が腫れている男は、ためらいがちに、ベニエにとりつぐように頼んだ。下男は、主の娘が不在であることを確かめると、申し訳なく彼にそう告げた。イルキは肩を落とした。下男はもう少し邸内や周辺を探すというが、イルキは感謝をのべて辞した。そうしんがら、自分も周囲をそぞろ歩いた。勢いで来たのはうかつだっただろうかと逡巡する。

 ベニエを探す人数は増え、あちこちで彼女の名が呼ばれたが、姿はあらわさない。ザルトもハミンも部屋からでてきて探している。ハミンは父親にかみついた。

「お父様が、だますようなことをするから、怒ってでていったんだわ」

 ザルトはじろりと娘をみて、咳払いをする。

「先ほど魔法使いのレンラ殿が尋ねてきたが、ベニエはなんのようだったのか」

 奉公人たちは顔を見合わせる。さすがにきっちりと閉ざされた扉の向こうに聞き耳をたてるのは難しかった。

 イルキは彼らに心当たりがあると言った。だいじょうぶだから、もうお休みください。すぐにみつけて、屋敷に送り届けます。そういってその場をあとにした。



 そのイルキの家で住み込みで働く若い男は、戸を叩く音をきくと、てっきりイルキが帰ったと思い勝手口の扉を開けた。

 だがそこには、若い女ともう一人が後ろに立っていた。ザルト家のベニエと名乗り、イルキを訪ねてきた。下男はあるじに取り次ぐから待っているようにといって扉を閉めた。すぐに慌てた足の音がして、扉は開いた。イルキの兄トウドは、ベニエをみると、喜びつつ目を疑った。周囲から弟について聞かれることはあったが、期待はしていなかった。彼女たちを客間へ案内した。

「大変申し訳ない、イルキは少し前に客人と一緒にでかけて、まだ戻ってきていないんだ。ミズヲという人だ。とても面立ちの整った」

 レンラとベニエは顔を見合わせた。ベニエはトウドにいった。

「こちらで待たせて頂いてもかまいませんか」

「ああ、もちろん。どうぞ」

「私たちにはおかまいなく。もうお休みくださいませ」

 ベニエのへりくだった態度に、兄は平静を装いながら承諾する。何故こんな時に弟は家をあけているのだろうかと、小さな怒りもわいてくる。探しに行こうかと申し出ると、ベニエはあわててかぶりをふる。落ち着いた口調でレンラはいった。

「行き違いになるかもしれない。待ちましょう」

 有無を言わせぬ穏やかな佇まいに、トウドはうなずき、もうじき帰るだろうから自分は失礼すると、そそくさと部屋をでた。おとなしく寝床にもぐるわけではない。

 灯りの炎をみつめながら、ベニエはしだいに心許ない心地になった。ただ待つということが、とても忍耐を必要とするときがある。あとになれば、ほんのわずかの時間の出来事が、我慢できず、その後の運命を決めることがある。だがそもそも、なるべく良い結果を導くために、ここにいるのが正しいのか、探しにいったほうがいいのか、それとも変えるべきなのか、迷い始める。

「また、石を探しにいったのかしら」

「わざわざ夜に?」

「ミズヲが一緒のようだし」

「イルキが、他のひとのために時間をさくことが気になりますか」

 レンラの問いかけに、ベニエの顔はみるみる赤くなる。蚊のなくような声でいった。

「ごめんなさい。私は思いやりのないひどい人間です。彼は困っている人を助けているのに。醜い感情で人の足をひっぱろうとする」

「たまにはいいことですよ」

「やっぱり帰ろうかしら」

 唐突に立ち上がろうとする彼女を、レンラは座らせた。

「あわてずに。ころころ気持ちを変えるのはもっとよくないですよ」

 反省して、心を落ち着かせようとする。しかし一度入ってきた言葉も、すぐに通り過ぎてしまう。

「もう夜遅いですから、あなたはここで待つしかないでしょう」

 うなずきながら、ベニエは夜の長さを思って気が遠くなりそうだった。待ちすぎたのだろうか。思い詰めると息苦しくなる。ベニエはレンラを見つめ、吐き出すようにいった。

「あなたは、恋をしたことがありますか」

「ありますよ」

 レンラはこともなげにこたえ、ベニエは拍子抜けした。冷静になれば驚くようなことではない。

「どんな恋ですか」

「楽しく、せつなく、ほろ苦いものです」

 たいていの恋がそうだ。ベニエは自嘲気味に笑った。

「わたしはどうしたいのかしら」

「もう少しの辛抱ですよ」

「帰ってこなかったらどうしよう」

「また明日の朝に彼をさがすだけのことです」

「みつからなかったら」

「どうして?」

 ベニエはこたえにつまった。どうしよう、どうすればいいのだろう。理由も根拠も何もないのに、戸惑いばかりが増えてあふれ、痛みを増す胸を手で押さえた。レンラは彼女に語りかけた。

「あなたの、愛しい人の名前を教えてください」

「なまえを」

「屋敷をぬけだし、当然のようにここへ来たけれども、あなたの口から名前をきいていないのです。愛する人の名前は、狂気の呪文ではありませんよ」

「本当に? 考えるとどんどんおかしくなるのに、正しい判断ができなくなるのに」

「勇気が必要ですね」

 レンラはにっこり笑って彼女の声をまつ。ベニエはすべての気持ちがあふれるように、彼の名前をそっと口にした。

「イルキ」

「ベニエ!」

 呼応した呼び声が扉をあけた。

 驚きに満ちた様子で、イルキが駆け込んできた。戸惑いはすぐに喜びにかわり、瞳はきらきらと輝く。二人は震えながらかたく抱き合った。見つめ合って互いの手をそっと包み、柔らかさとぬくもりに心打たれた。幼い頃から幾度も取り合った手が、愛おしく得難きもので尊いもののようにそこにある。レンラはそっと部屋をでると、息をひそめて様子をうかがっていた家人たちに、もう少し待つようにと忠告した。


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