求婚

 まどろみのなかで、ミズヲは声につめよられた。

 痛そうね。痛そうだ。

 だが、冷たい光をおびた刃物には、ミズヲは自分からむかっていった。刺されて死ぬのだと、芝居の書き割りのように考えた。

 息苦しい。息がつまる。喉を胸をしめられている。

 これは夢だと、ミズヲはもがいた。声をあげると、漏れ聞こえる自分の声をきいた。ぬめぬめとした、大きく太い暗いものが、四肢ししに、胴体どうたいにからみつき、首をしめて息をふさごうとしている。死ぬかもしれない、殺されるかも知れない。ミズヲはざっと血の気がひいた。手足に渾身の力をいれた。

 あわただしい足音がする。

 戸を蹴破るような音がして、叫ぶ声とまぶしい光りが炸裂した。

 ばしゃん、と大量の水がいちどに落ちるような音がして、締め付けはほどかれ、ミズヲのからだも落ちる。口に黒い液体が入り込み、吐き出して咳き込んだ。苦い息をする。体中にまとわりつく黒いべとべとしたものは、みるみるうちに色も粘りも薄くなった。全身が煤が混じったような水に濡れている。おっとりとした声が、楽しそうにミズヲをのぞき込む。

「お前さん、危なかったなぁ。わしが通りかかって、ちょうど良かったよ」

 小柄な老婆が立っていた。頭巾をめくって、大きいくりくりとした目は陽気で、せっぱつまった事態にみえない。

「おや、いい男だ」

 彼女の背景は青空で、ミズヲは自分がいるところに天井がないことに気づいた。歩いて宿の部屋にたどり着いたと思っていたが、そうではなかった。建物と建物のあいだの、路地の隅に倒れていた。

「だいじょうぶかね」

 ミズヲは起き上がりながらうなずく。

「お前さん、ケガをしているが、それは人にやられたようだね。これからは気をつけろなぁ」

 老婆はそういうとくるりと向きをかえて行こうとする。ミズヲはハッと我に返って立ち上がった。

「待て!、これはいったいなんなんだ? いったい何が起きたんだ」

 いつになく興奮して声をあらげていた。老婆は驚いたようすはなく、足をとめふり返った。

「難しいことをいうやつだなぁ。そこらじゅうにいる、たちの悪いちょっと重たいやつらだ。たまたま通りがかったお前に、いたずらしようとしたのだろう」

「どうして俺に? いたずら? 死にかけたのに」

「わしがこなかったらぁ、死んだかもしれんが、だいじょうぶじゃ。お前はヤシハの護符がついている」

「ヤシハの護符? 知らない。何だ? 誰だ?」

「男前の魔法使いだぞぅ。月虹虫を欲しがる変な男がいたから、護符をつけていたといっていた。お前が危ないめにあえば、それがざわざわと動く。運が良ければ、近くを通りかかった魔法使いがやってくる。いまはそこらじゅうにうろちょろしているから、大丈夫だろう」

 ミズヲは自分のからだじゅうを見回して、手のひらでさわったが、何もでてこない。老婆は近づいてきて、ミズヲの顔を見上げた。

「そういうものに興味をもっていると、ひきよせるから、だめだぞ」

 誰も好んでそんなものに興味をもったりしない。ミズヲは言葉をのみこむ。老婆はニヤリと笑う。

 老婆について路地をでると、寝泊まりしている宿のすぐ近くだった。人がせわしく行き来している。ミズヲを見てぎょっとしても、足はとめない。きれいに洗い流すようにと言い残して、老婆は去っていった。

 宿の老夫婦は、ぬらぬらとしたもので全身が汚れている客に目をまるくした。水を使える場所をたずねると、勝手口を無言で指さした。井戸の周りには、炊事洗濯する女たちが世間話にわいていた。ミズヲがあらわれると怪しみつつも、いい男がきたと色めき立つ。この際、人目は気にしていられない。ミズヲは場所をゆずってもらうと、服を脱いで頭から水をかぶった。傷にしみる。なぜレンラは傷を治してくれなかったのかといらだつ。さっきの魔法使いもだ。水しぶきをあげる美青年を、女たちはさすがに遠巻きに見守った。宿の老夫婦は要領をえており、部屋に魔除けの小物がおかれていた。

 ようやく仕事場へ行くと、マニュは顔の傷をみてぷっと吹き出した。

「大立ち回りだったようじゃな。イルキはいまは聞き込みに行っているそうだ」

 自分も行ってよいかと尋ねると、マニュは眉間にしわを寄せた。

「それはかまわないのじゃが。ベニエは屋敷におる。正式に求婚にくる男がいるそうだ。イルキは知らんまま、街を動き回っている」

「どの男ですか」

「ホバックと」

「ホバック?」

「他にも三人。あの男は本気だったらしい」

 年をとっても、思わぬ出来事はあるものだ。

「イルキを探しにいきます」

 ミズヲは店をでた。マニュは風のようにかけていく青年に目を細める。

 イルキは、眠たい目をこすりつつ、聞き込みをして回ったが徒労だった。自警団がいくつかの門で、怪しい人馬をとめて問いただしたが、何も捕まえられなかった。イルキはミズヲの顔をみると笑った。

「やあ大丈夫か。ひどい顔だな」

 自分がどんな目にあったかは省いて、ミズヲは状況をきいた。イルキはため息をついた。

「俺はオクウトのことなら、なんでも知っていると思っていた。しばらく離れていたし、祭のときは人が多すぎる」

 ミズヲは迷ったが、口をひらいた。

「ホバックが、ベニエに正式に求婚するそうだ」

「誰が?」

 イルキはさほど驚かない。

「ホバックだ。他にも何人か」

「そうだったのか」

 疲労のためか、イルキはぼんやりしている。独り言のようにいった。

「ホバック……、ベニエにそんなに興味があるようにみえなかったのに」

 誰に問われるわけでもなく、機会があるごとに、イルキが彼女について話をしてしまっていただろうことは、容易に想像がつく。長所だけでなく、微笑ましい短所も、幼い頃からのできごとも。繰り返し聞かされていれば、彼女に対する親しみは増すだろう。

 ミズヲの推察をよそに、イルキはふと思い出したようにいった。

「いちど、ドレジェンのもとへいくと約束しているんだ」

 すぐに屋敷に行かないのかと、ミズヲは驚いたが、彼に付き従った。

 ドレジェンたちが泊まる宿の入り口は開いていて、表にも中にも、ほうけたような男たちがいた。ひどくしょげて、昼下がりに何もできずに暇をもてあましている。イルキとミズヲに気づくと、ドレジェンは椅子の音をたててたちあがり、かけよった。疲れきった姿をみると、軽い失望の色がうかんだ。

 これといった手がかりはなく、オクウトの門の出入りでも何もかからなかったことをイルキは説明した。ドレジェンは彼を責めるようすはなく、たどたどしい言葉に、逐一うなずく。わびるイルキに、あなたのせいではないと何度か言ったようにみえた。やりとりをうかがっていた岩の男たちは、ますます気落ちして、目をそらし、頭を抱える。押し問答をしているのか、短いやりとりになって、話がとぎれた。彼女の丸いほお骨に、涙がすべりおちた。それでもこらえようと、イルキに何かを言ったが、わっと泣きだした。イルキの胸にすがりつき、子どものようにわんわんと泣き叫ぶ。くやしくてたまらない。己に対する怒りだ。護衛の男たちは、腰を浮かせたが、あきらめた。彼女を守る様々な方法を知らなかった。

 宿をでると、イルキはますます気がぬけていた。ますますつかみどころがなくなる。

「もう少し探すよ」

「ザルト氏の屋敷に行かないのか」

「そうだな、もう一度石を買う相談をしなければ。もう元の大きさではないから、マニュに相談すればよいのかな」

「彼女は石を売るのか」

「まだ迷っていた。だがここに居るだけで、それなりに費用がかかるから」

「ではとりあえず行こう」

 ミズヲはイルキをひっぱるように仕事場に向かった。

 レンラは石の顛末をマニュからきいていた。巨大な石を見られなかったことを残念がる。昨夜のことなど知らぬように、二人をねぎらった。

「武勇伝が広まっているよ。他のかけらはみつかったか? みつかっても石はひとつには戻らないがな」

 イルキは困った顔をした。

「戻せないのか」

「さすがに無理だ」

 マニュもうなずく。レンラは長いため息をついた。

「ここ数日、得体の知れないものがオクウトに増えすぎていた。何が活発にさせていたのかと探していたら、外から持ち込まれた石のせいだった。言うなれば、大きな穴をつくっていた。いろんなものを吐き出して、あちこちでこっそり騒ぎになっている」

「毎年のことじゃと思っていたが」

「長い目でみたら、とりたてていうほどではないかもしれませんがね。おかげで我々はあちこちをいったりきたり。息をつく暇もない」

 イルキはあわてた。

「あれは悪い石だったのか?」

「石自体は悪くはない。強い力は周囲になんらかの影響を与える。いまはもう砕かれてしまっているし。穴は早々にふさぐ。襲われることも、もうないだろう」

 レンラはミズヲに視線を向けた。

「お前、悪鬼に襲われたのか」

 マニュのことばに、どうこたえるかと迷ったすきに、レンラは持っていた杖の先で彼の腕をつついた。

「あやうく絞め殺されるところだったろう。ボロシャには礼をいっておいた」

 老婆の名前はさておき礼をいうとはどういうことか。ミズヲは内心穏やかではないが、マニュもイルキもこぞって心配してきた。

「大丈夫だったのか?」

「どこもおかしくないか?」

「だいじょうぶです、昨晩の傷しかないです」

 ミズヲはふたりなだめた。マニュは立ち上がると、物がひしめく戸棚のなかから、魔除けの札をだしてきて、戸口にかけた。ミズヲは先ほど来たときに言わなかったことをわびた。

「気休めだ」

「心がけは大事ですよ」

 魔法使いはにこやかに声をかけ、すっくと立ち上がった。

「あとから辺境の客のところへ案内してもらうかもしれない。イルキ、君はそろそろからだを休めないと、このぼおっとした男のように、悪鬼にねらわれるぞ」

 レンラは助言を残して、まるでさっそうとでていった。イルキはうなずくと、砕けた石の大きさを指で作ってみせた。

「割られた石を買い取るにも、ザルトさんの相談がいるだろうか」

「一つ二つなら必要ないだろう。お前さんはどうする」

 マニュの問いに、イルキは視線をおとして言葉につまる。何かを言おうとして口をもごもごさせて、やめる。

「あわてて決めるな。せめて一晩考えろ」

 イルキはおとなしくうなずいた。眠気と疲労で夢見心地だ。

 ミズヲは外へ出てレンラを追いかけた。人混みを歩く彼女の腕をつかんだ。レンラは驚きもせずふり返る。ミズヲは手を離した。

「借りは返したい。いくらだせばいい」

「借り? ああ、盗人から助けたことか。金などいらないぞ」

 予想していたこたえだが、ミズヲはいらだちが増す。

「誰に頼まれたんだ。ベニエか、ザルトか、マニュか?」

「マニュと話をしたのはさっきがはじめてだよ。おもしろいおじいさんだね。お前のことをとてもほめてくれたし、よくわかっていらっしゃる。さすが年の功だ」

「じゃあ誰なんだ」

 吐き出すように言った。レンラはいっそうにこやかに応えた。

「お前は自分が知りたいことだけを知ろうとするのか。さあこんなことで油をうっていないで、あの親切なイルキをほおっておいていいのか? ベニエは四人の男に正式に求婚された。今日も明日も男たちが贈り物を持って列を成す。ザルト氏はああみえて、もう待つ気は無いぞ」

 ひらひらと手をふりながら、レンラは雑踏に消えていった。ミズヲは自分の怒りをねじ伏せ、すぐにとって返した。イルキはすでに寝に帰っていた。

 どこもベニエの花婿候補たちの話題で持ちきりだった。候補の一人のはずのイルキが、別の女を泣かせていたという話も出回っている。ホバックは人気者になっていた。一番最初に声を上げた勇気と、その候補者のなかでは一番わかりやすく見栄えと印象が良かったからだ。

 ザルト商会の休憩所へいくと、一角でホバックを祝うための即席の宴会が始まっていた。集まっている人々は詳細はしらないが、軽く一杯飲めるなら理由はなんでもよい。不景気な表情のミズヲを、ホバックはにこやかに迎えいれる。

「よう色男、災難に巻き込まれていたらしいなぁ。ここは俺のおごりだよ。お前もいっぱいやっていってくれ」

「前祝いか」

「俺に対する慰労だ」

「いつから求婚しようと決めていたんだ」

「前からさ」

「三日前か?」

「せめて三ヶ月にしてくれ。ベニエは美人だし、頭もいいし、性格も良いし、大商人の娘だ」

 ミズヲはありふれた答えをききたいわけではなかった。

「イルキはどうして求婚しないんだ?」

「それを俺にきくのか?」

「おかしいと話していたじゃないか」

「そりゃそうだ。変なやつだよ」

「では、なぜ」

 ホバックは首をかしげたが持論を再度思い出した。

「イルキがベニエを好きなことは確かだろう。幼い頃からずっと。だが、子どもの頃はただ仲良く遊んでいたらいいが、年をとるにつれてそう単純ではないことがわかってくる。ベニエとザルト商会を引き受けなければいけない。怖じ気づいたとは言わないさ。俺だって、想像はしても、本気にはならなかった。よほどの自信家か馬鹿じゃないと、手は挙げられないと思っていた。でもあるとき突然、彼女に求婚すると、ひらめきのように思ったんだ。思いたったらすぐだよ。ミズヲ、気になるなら直接、本人に聞けばいいだろう」

 イルキは家に休みに帰っているのだとミズヲはひとりごつ。ホバックはいった。

「お前は求婚しないのか」

「俺は部外者だ」

「じゃあ、俺の応援をしてくれよ」

 ホバックは上機嫌だ。



 ミズヲは仕事に戻ったが気持ちがふわふわとして落ち着かない。結局、イルキの家の場所を訊いた。

 彼の家も商売をしている。友人だと名のり案内を請うてから、雪崩のごとくでてきた人々に、ミズヲは来たことを少し後悔した。曾祖母と父と母と、兄とその妻と幼い子供三人と、弟と妹と。子どもたちは容赦なく甲高い声をあげて走り回る。あまりの興奮に、結局部屋から閉め出され、兄が残った。父がイルキを起こしにいくという。年の離れた。兄のトウドは、弟とよく似た人好きのする笑顔でいった。

「弟はつかみ所がなくて、つきあうのは手間がかかるだろう」

 ミズヲは耳を疑った。

「とんでもない。とても率直で気のいい男です」

「それはそうなんだけどな、ときどき、ひとの気持ちを見落とすというか、当然わかりそうなことをわからなかったりするんだ。旅から戻ってきたときも、まるで昨日出かけて帰ってきたかのように、あっけらかんとしていて、みんな拍子抜けしたよ」

「旅は何処へ行っていたんですか」

「いろんなところいったらしい。持ち帰ってきたものも多少あるが、見聞きしてきたもののほうが多いようだ。いまは忙しいから、あまり話をきく暇がなくてね」

「イルキはなぜ、長い旅へでかけたのですか?」

「弟が遠出をすることは、以前からあった。しだいに長くなっていって、じっくりあちこちを回ってみたいと、長い旅を決意していった」

 この家は自分が継ぐ。イルキは家を手伝ってもいいし独立してもいい、他の商人の家に婿入りしてもいい。なにをするにせよ、自身に多少の蓄えは必要である。ミズヲはザルト家のことを訊いてみようと迷ったが、あわてて身支度をしたイルキが現れた。ミズヲをみて俄には信じがたい顔をしたが、やがて喜びの表情で、兄に礼をいいながら追い出す。

「うるさくてびっくりしただろう」

 イルキは外へ行こうといった。

 道すがらミズヲは、自分がいままで彼のことなど、ろくにきかなかったことをほのかに恥じた。イルキはなれたようすで居酒屋に入った。飲めないもの同士の前に、飲めない酒が並ぶ。イルキはいきなりくいっと飲み干した。ミズヲはぎょっとした。イルキは彼をねぎらった。

「大変な目にあわせてしまったな。お前の顔に傷を作るなんて、女たちにどれだけ恨みをかうことになるやら」

 ミズヲは頭を振った。お前のほうがずっと力をつくした。イルキはため息をつく。

「石が持ち込まれたときに、すぐに買うと決めておけばな」

 砕かれたことによって石の力は半減した。大きいままだったら、もっと混乱して大変な騒ぎになっていたかもしれない。だから不幸中の幸いだ。ミズヲは言えなかった。イルキはまた酒を流し込んだ。

 彼は記憶をたどり、脳裏に思い浮かべた。ドレジェンたちの故郷へ続く道、霧煙る山々の風景を、はるかに遠く高い土地を。

「幾日も険しい山道をのぼっていった。一歩踏み外したら、果てしなく谷底に落ちていくような道もあった。彼らはそのもっと奥に住んでいるんだ。その土地までいくことはできなかった」

「そんな奥地からでは、いきなり宝石を売って都へでようとするのも、無理だったのかも知れない。少しずつ人や街に慣れなくては」

 ミズヲがとってつけたようなことをいうと、イルキは頭をふりはらって続けた。

「そんなことをいっていたら、いつまでも貧しいままだ。幼いうちから危険な場所で働いて、わずかな賃金を得て。彼らがあつめる特別な山の蜜は、彼らから距離を離れていくほど、貴重で高価な商品になるんだ」

 彼らが本当に貧しくあわれな人々かわからない。外の世界を知らなければ、彼らは彼らなりに幸せだったのかもしれない。自分たちの生活にあって、彼らにはないから、彼らのほうを貧しいと思うのか。そもそもどうしてそんな山奥に暮らしているのか。争いにまけて、追われてその土地へ行ったのか、その土地に恵みがあると信じて分け入っていったのか。

 イルキがまた杯をあけた。旅の話に聞き入っていたミズヲは、自分が何をしに来ていたかを思い出した。

「なぜお前が落ち込むんだ? 盗まれたのはしょうがない。どれだけ助言をしていても、運が悪いこともある。お前は彼女の相談にのって力を貸したじゃないか」

「なんの力にもなっていない。石をみたのも、石をみつけたのもお前だ」

「石をみたのは、俺がそれを商売にしているからだ。半分をみつけたのは、偶然だ。探していた誰がみつけてもいい」

「俺は何もできなかった。お前はすばらしい男だ。お前のような男こそが、ベニエにはふさわしい」

 酔いながら泣き言をくりだすイルキに、ミズヲは驚いた。

「ベニエが求婚されたことをきいただろう? ホバックと他にも何人かの男が」

「ホバックも立派な人間だ。気がきいて人の心がよくわかる、人を笑わせられる」

「お前だって周りの人を笑顔にしているじゃないか」

「あいつと俺は違う。俺は笑われているんだ」

 卑屈な泣きべそに、ミズヲは静かに怒鳴った。

「ベニエが他の男のとなりに立っていていいのか? お前にとってはその程度の女なのか?」

 ぐずぐずしていた顔がとまった。イルキは涙をためた目でミズヲをまっすぐにみて、口を固くとじてゆっくりと立ち上がった。握る拳に力をこめる。震えている。

 先に動いたのは、ミズヲの拳だった。さして威力はなかったが、イルキは不意をつかれてよろめく。ぽかんと自分のほうをみる驚きの顔に、ミズヲは手の甲の痛みを感じつつ、ああしまったと我に返ったが、とどまることはできなかった。椅子をおりて足は半ば走っていた。

「ミズヲ!」

 イルキの声が叫んでいたが、そのあとは聞こえない。

 しびれるような痛みを素知らぬ顔で、夜に華やかになる街を肩で風をきってすすむ。色硝子越しに光が瞬き、金箔を張り付け銀糸を縫い込んだ衣装がすれあう。たきしめられた香がまとわりつき、東西から集められた美酒が人々の咽をうるおす。膨れ上がる笑い。細工のほどこされた菓子を、小間使いのまだ幼い子どもがあんぐりと見ている。着飾った者たちは金銀衣装をほめあいながら、すみずみまで値踏みすること怠らない。角を曲がると、楽器がけたたましく鳴り、どっと歓声があがった。狭い場所で繰り広げられる曲芸に、通りがかった観客たちは口笛をならし喝采をおくっている。貨幣が地面に落ちる音がとまらない。

 ちがう。どれでもいい。

 ミズヲはけばけばしい店の扉をあけた。華やかな音楽がなり、扇情的な衣装の踊り手たちが舞い、酒を運び、男たちが大きな声で笑い声をあげている。出迎えに近づいてきた男はミズヲがひとりなのをあやしんだが、すぐに女たちがとびきりの美貌に目をつけて、我先にと争うように腕をとり、卓へ案内する。

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