■深い酒■



     * * *



 夜更かししてまで深酒をする理由を、あとになると思い出すことはできない。しかも酒が弱いならなおさら。その夜も、いつものように、他愛ない世間話、小さな冗談、沈黙をくり返していた。

 アレッセの長い指は、ときおりさかずきふちにふれ、白濁の水面みなもは卓上の明かりで、幽玄な色彩を放っていた。ゆらめきを見つめながら、彼はぽつりといった。

「人でなしと、言われたことがあるか」

 おだやかではない言葉に、ミズヲは顔をあげた。ほんの少しの酒に酔って、半ば眠り心地だったが、目を起こした。アレッセの視線は、ゆっくりと水平に動いて、途中、ミズヲの瞳と交差した。ずっとべつの彼方を見ているようだった。

「子どものころ、毎日、耳にしていた」

「まいにち?」

「そうだ。となりの亭主は、若い娘となるとみさかいなく声をかけるような男だった。せまい村のなかで、おおっぴらに、隠そうともせずに、悪びれもせず、愛想をふりまいていた。美男子とはいえない男なのに、好かれるたちで、なぜ娘たちがあれこれいいつつも相手にするのか、さっぱりわからんと大人たちは話していた。

 こそこそはしないだんなのふるまいを、積極的に告げ口するような人はいなかったが、口がすべってしまうことはある。だれそれに声をかけていた、と、女房の耳に入るたびに、彼女は猛烈に腹をたてて、怒鳴っていた。

『人でなし、人でなし!。あたしがいながら、どうして!』

 それから、しこたま亭主をぶつ、なぐる。夫は身をかがめて『ゆるしてくれよ、ごめんよ』と泣いて謝り続ける。やさしいが激高している奥方は、すぐには手をとめられない。えんえんと怒鳴り続け、拳をふるい続ける。やがて、時間がたって、静かになる。すすり泣き、詫びる声、念押しする声。けんかが終われば、笑い声がきこえてくる。怒りがすぎれば、もともと仲が良かったので、またやっちまいましたよと笑い話のように離す。相手の女に文句をいったり、手をだすことはなかった。あやまりもしなかったけど。

 しかしある日を境に、すべてがぴたりと静かになった。夫婦は、商売に失敗して、夜逃げした。逃げるほどではなかったという人もいた。

 はじめは静けさが、落ち着かなかった。親たちは穏やかな日々を取り戻して、ほっとしていた。しばらくは、彼らのことを離すひともいたが、しだいに忘れられていった。血の気の多い隣人がいたことも、子どものあいだに忘れた。月日が流れて、その言葉が自分に浴びせられるまでは。

 十七のとき試験に合格して、さあ都にいくぞというときに、幼なじみに報告をした。すると、いきなり罵られた。

『人でなし!』

 俺は驚きを通りこして、あっけにとられた。

 他の誰もが、とても喜んでくれていた。おめでとう、がんばれと励ましてくれた。その娘も、それまでは、ずっとはげましてくれていた。だから試験に受かったこと、都にいくこと、高官になれる可能性をつかんだことを、聞かせたかった。そういう話ができることが、うれしかった。彼女は、最初のうち、黙って話を聞いていた。しかし、だんだん顔はうつむいていった。ようやく顔を上げた。憤怒の形相でひとこえ怒鳴った。

『人でなし!』

 見上げた彼女の眼は涙が溢れて、瞳は怒り狂っていた。あまりにも張り詰めた空気に、次は何をいわれるだろう、何をされるだろうかと、恐怖に身を縮めてかまえた。しかし彼女が叫んだのはそれだけで、きびすを返して走り去っていった。追いかけられなかった。ただ立ち尽くした。

 村をでるまでには、しばらく時間があったが、最後まで、話すことはなかった。彼女はものかげからそっと、恨めしい表情でものすごい目で、こちらをみていた。それなのに、目があった瞬間に、逃げていく。どうすればいいのかと気になったが、いろいろ準備もある。彼女のほかはみんなが、祝いの言葉を述べてくれる。やっかみもひがみもあったが、とるにたらない。

 世話好きなやつが、それとなくいった。

『あの子を、ほおっておいていいのかい?』

『ああ、どうしようか』

 どうしようか困っていた。途方に暮れていた——」

 アレッセは杯をもちあげ、唇を酒で濡らした。ミズヲは話に聞き入っていた。

「相手は自分から距離をおきたがる。逃げる。娘の家に直接おしかければ、つかまえて話はできただろう。やろうと思えばできたはずだ。でもそこで、なにを言えばいいのかわからなかった。どうか祝福してほしい、笑顔でおくりだしてほしい。それもおかしい。なにもできないまま、俺は、たくさんの人に見送られて、都へ旅だった。

 おなじ言葉を、二回目に言われたのは、しばらくしてからだ。

 ある死んだ役人の家族に支払われる金が、ずっとまちがっていた。さかのぼって払いすぎた分を取り立てるという、したっぱが押しつけられそうな仕事で、その家にいった。

 未亡人と子どもたちは、ゆとりのある、豊かな暮らしをおくっていた。役人だった夫が死んでから、奥方は二人の子どもを育ていたが、実家も裕福だった。家をたずねたとき、ちょうど、未亡人は出かける間際か、帰ってきたところだったのか、妙にきれいな格好をしていた。唇の紅だけが、妙に、年の色気もあってくっきりとしていた。決めつけるなら、男がらみだ。男に会いに行く、それともあってきたところかもしれない。未亡人は黙って、こちらの言い分を聞いた。申し訳ないが、どうか払った金を返してもらえないか。できればなるべくはやく、一括で。話が終わると、人が変わったように叫んだ。

『人でなし!』

 それっきり、何も言わない。身動きしない。ひとこえ叫んだまま、ずっとこちらを見つめる。なにを言っても、なにも応えない。いつまでも木偶と話をしているわけにもいかないから、帰った。手続きは、その後の金をしばらく払わないという方法で行われた。

 それからは、もうなんど『人でなし』といわれたかわからない。役所のやり方が実際に人でなしのこともあるし、相手のほうが明らかにおかしいこともある。ともかく、生気に満ちた、頭に血が上った人間は、魔物を払うかのように叫ぶんだ。

 この『人でなし』と。」

 アレッセはまた酒をあおった。いつもはたしなむていどだ。温厚で有能な彼にも、心が痛むような、どうにもならない出来事があったのだろう。たくさん、日常的に続いているのかもしれない。

「お前にそんなことが言えるなんて、信じられないな」

 酔いが回ったあたまのまま、ミズヲは正直な気持をのべた。

「でも、もし自分も、ただの商人と役人として、出会っていたら、おなじように文句をいったかもしれない」

 ミズヲのたとえ話に、アレッセはニヤリと笑った。

「お前が、大声でひとをののしるのか」

 ミズヲは頭をゆらゆらさせてうなずく。

「そうだよ」

「あれでも、いい出会い方だったということになるな」

 そういわれると、おかしな話になる。はにかむのをごまかすように、ミズヲは眠そうに目元をおおい隠した。



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