影の行方

 ミズヲは鼻の奥を刺すようなにおいで目を覚まし、夢を全部忘れた。顔をしかめながら、重いまぶたをもちあげると、ぼろぼろの天井や壁が見えた。窓の外は明るく、部屋に差し込む光に、ほこりがはっきりと照らされている。

 しゃがれた声が、すぐ近くからおちてきた。老人ではない男の声だ。

「眼を開けたぞ」

 もう少し高いところから、もっとカサカサした、似たような声が降ってきた。

「眼を開けタ」

「生きているみたいだな」

「生きているみたいカ」

 のっぽは語尾がかたく、甲高くなる気に障るしゃべり方をする。小男は小さいからだを不安定にゆらしながら、部屋を飛び出していった。どこかの戸をさわがしく連打して、声をあげる。

「おい、サフィーリ、死体が目を開けたぞ! オイ、目をあけたぞ!」

 それに応えた女の笑い声は明るくほそいが、心底おもしろがっているようだ。

「死体じゃないよ」

「どうして」

「死体は目をあけないでしょう」

「死体は目をあけないナ」

 会話に参加するように、ミズヲの近くでのっぽがくり返す。

「だから生きているよ、あの人は」

「生きているのか、あれは」

 女は、てのひらを小男の頭をのせて、杖代わりにして部屋に入ってきた。ミズヲがいつか街角で歌をきいた女であり、さかのぼれば、オクウトの街に入る門で、要領の悪いことばかりをしている一団たちだった。

 サフィーリは男たちにいった。

「からだを起こしてあげて、お水をあげて」

「おこしてあげテ? お水をあげテ?」

「水をのませろってさ」

 小男とのっぽは顔を見合わせたが、動き始めた。のっぽはミズヲの上半身を支えて起こし、小男はミズヲの口元に、縁が欠けた器の水を近づけた。ミズヲは口のなかも喉もカラカラになっていた。杯に手をそえようとして動かし、痛みに顔をゆがめる。

「こぼした」

「こぼしタ!」

 ミズヲが口元をぬぐうと、奇妙な男たちは、ケタケタと喜んで笑い出す。ミズヲは苦笑いしたが、頭痛と吐き気を感じて、口を押さえた。二人は驚くべき敏捷さで飛び退く。

「吐くのか」

「吐くノカ」

 ふたりはののしりながらも、迅速に、練習をしていたかのように、用意していた底を濡らしたぼろい木桶を前にさしだした。ミズヲはぐっとこらえる。

「水をくれ」

といった。小男が水差しをさしだすと、慎重に、しっかりと飲んだ。

 昨夜の記憶をたどる。

 一軒目から気持がいいことはなにもなかった。二軒目からはもう嫌で嫌でたまらなくなっていた。三軒目からの記憶が曖昧だ。強めの酒を手にとり、二杯目のときに、居合わせた皆にごちそうするといいえば、幸運をつかんだ客たちはやんやと声をあげ、見知らぬ男をたたえながら、あれもこれもと注文する。そう珍しいことでもないのだろう。あたりは、酒と、昼間のほこりと汗と、着飾った者たちの香りで混沌としている。喝采を受けながら、では次の店だと探す途中、道端で動けなくなり、吐いて倒れ込んだ。道すがら、ひやかす声はあっても、最後まで介抱しようとするものはいなかった。汚れてしまえば、省みるものはいない。

 さぞ、におったことだろう。

 ミズヲは改めて思った。

 服は洗濯され、軒先でゆれている。ほこりと汗にまみれた、安宿の寝床の窓からみえるそれは、やけにまぶしくみえる。

「ふたりが、あなたを見つけて、呼びに来て、ここへ運んだよ」

 サフィーリがいうと、小男は力のないようすでぽつりといった。

「ここは俺の寝るところだった」

「こいつの寝るところだったナ」

「宿代は払う」

 ミズヲがすばやく告げると、小男は明るい顔になり飛び跳ねてよろこび、のっぽは自分の寝床に小男が入ってきて眠れなかったと抗議した。ミズヲは即座に追加した。

「わかった。そっちの分も払う」

 ふたりは手を合わせて喜ぶ。

「さぁ、あなたたち、ここはもういいわよ。ほかへ行って」

 サフィーリがうながすと、機嫌のよい二人は踊るように、次に何をするか、しないかを相談しながら出ていった。部屋は静かになったが、薄い壁越しの、街の喧噪は騒がしいままだ。

「あのままだと、死んでいたよ」

「なぜ、俺を助けたんだ」

「なぜって?」

「行きだおれの人間みかけたからって、赤の他人をいちいち介抱しないだろう」

「商人のようだし、死体でも助けておいたら、お金がもらえるかもしれないって、かれらは相談していたけど」

 サフィーリは屈託なくこたえる。ミズヲは息をついた。

「違いない。あとで迷惑料もいっしょに払う」

「さっきの宿代だけでいいわよ。美味い目にあうと、すぐに味をしめるから。そこら中の酔っぱらいを助けはじめたら、面倒臭いもの」

 彼女はふいに手をのばし、みえているように、ミズヲの額にふれた。

「ひどい熱があったけれど、下がっているね」

 いわれてミズヲは、嫌な感覚の残りに気づいた。夢もその前の記憶も曖昧だ。彼はうめいた。

「酒はまずい」

「あなたは、とびっきり上等なものじゃないと口にあわないかもね。さあ、また横になって。もう少し休んでたほうがいい」

 サフィーリはそういうと、部屋をでていく。ミズヲはうながされるままに、からだを横たえた。



 アレッセが歩きながら話をしている。面白い話をしているのか、しきりに笑っている。

 ——短い夢をみて目をあけた。

 ミズヲは用心深く起き上がると、手水場をさがして部屋をでた。戻ってくると、壁を背にして、レンラが低い椅子に腰掛けていた。目を閉じている。眠っているようにみえたが、ミズヲが寝床に腰をおろすと、重いまぶたをあげて、ぼそぼそ声をだした。

「お前の足どりをおって、店から店をたずね歩いた。行く先々で豪快に酒をふるまい、千鳥足で女たちに追いかけられ、追いはぎにあとをつけられたが、最後は小男と長身の男が運ばれていったと」

 ミズヲは目をあわせないまま、枕元の水差しみずさしに手をのばした。手の痛みに一瞬、顔をゆがめる。水を飲んで、手の甲をそっとさすった。レンラはそっぽをむいたままいう。

「イルキも、マニュも心配している」

「俺に、仕事をする資格はない」

「それをきめるのはお前じゃない、雇い主だ、マニュだ」

 レンラはかろうじて声を荒げず、穏やかに、しかしはっきりとしゃべった。ミズヲは罰が悪そうに口をつぐむ。

「エズラトゥオスの芝居見物のためにと、金持ちの家はどこもかしこも準備に大わらわ。マニュじいさんもてんてこ舞いだ。イルキは腫れた顔でベニエに求婚して、もちろんベニエは受け入れた。茶番だと笑うなよ」

 先手をうって怒られているようで、ミズヲは苦虫を噛むしかない。イルキを殴ったことは、たしかに我ながらひどい気分にさせられているが、彼らがうまくいったことは嬉しい。彼女の小言はまだ続くだろうとミズヲは身構えたが、彼女は黙ってそっぽをむいている。考えごとでもしているかのようだ。なぜ何もいわないのだろう。また横になって寝てしまおうか。

 ミズヲはいった。自分のなかの逡巡とはまるで関係無くでてきた。

「人が死ぬのがわかるんだ」

 魔法使いは、彼に視線をむけた。ミズヲは目を合わせないまま続けた。

「灰色の影が見える。影がみえると、その人は死ぬ」

 レンラはさほど驚きを見せずに応えた。

「こんなに人がおおぜいいる街では、それはずいぶん、おちつかないことだな」

「すべてがみえるわけじゃない。あるていど、自分が関わりをもった人だけだ」

「関わり、か」

 それは、うっすらとした影だった。灰色だったり、黒かったり、形も大きさも曖昧だった。ちらりと目の錯覚のようにみえることもあれば、顔色をかえるほどのこともあり、もっと大きくベールをかけるようなこともあった。それが見えてしばらく、数日、半月、ひとつきたつこともあったが、影があらわれた人は死んだ。穏やかに眠るようにいった老婆、急な病で亡くなる子ども、不慮の事故で死ぬ働き盛りの男。

 レンラの表情はわずかなものであったが、それでもミズヲはわかった。ものごとについて次第に理解し、自分で解釈していく過程の人の顔は、それがうれしい知らせではないなら、じっとみていたいものではない。

「都からきた、歌姫が死ぬのもわかっていたのか」

「わかっていたわけじゃない」

「だから彼女につきあったのか」

「ちがう」

 あの朝、窓辺に立ち、ひんやりとした空気だけを身にまとうからだは、昇る朝陽のように生命力に満ちていた。弱音を吐きながらも、自信と貪欲さにあふれていた。そこへさっと影がさした。陽がかげったようにみえたが、影はずっと彼女のそばだけにあった。

「なるほど」

と、レンラはつぶやく。

 母の影をもみた。彼女は不在の夫を待ち続けた。周囲も、子どもも、なにも見えなくなるほどに待った。戻るあても、戻らないあてもない男を。ある日、死の影がさした。ミズヲは、ついにあてどない日々が終わるのだと分かった。母が待ち続ける日々、母が自分に振り向くのを待つ日々が。

 ひとりごとのような話のあとに、レンラはいった。ミズヲはなんどもそのことばを想像していた。彼女が知れば、彼女がそれをいわないはずはなかった。

「お前は、アレッセの死の影をみたのか」

 ミズヲは大きく目を見開いて、瞬きをした。

 それはいつもとおなじような別れのはずだった。約束はしなくても、また次があるのが当たり前で、それぞれの家路についくだけのはずだった。だが影が見えた。ほほ笑みを静かにつつむように、灰色の影がみえた。

「本人に伝えたのか」

 光りの具合で、自分の顔が見られていないと信じながら、そのまま背を向けた。

「言うわけがないだろう」

 ミズヲは硬く言葉をはなった。彼と別れたあとは、以前からの予定通り、都を出て他の街へ向かった。

「ずっとそうしていた、ずっとそうだった。すれ違って通り過ぎていくたくさんの人たち。ただ見送ればよかった。どうせ死の影からはのがれられない。伝えたとしてどうなる。そんなことを言われて信じる者はいない。混乱するだけだ」

 悔恨をまるで聞き逃して、レンラは低い声でいった。

「まさかお前が、そんな力をもっていたとはな。魔法の才はないと思っていたが、鍛え方しだいなのかもしれん。しかし、」

 冷然と立ち上がると、彼女はミズヲを見下ろした。

「はやく、自分が働く場所に戻れ。そしたら、アレッセからの言伝を教えてやる」

 きびすをかえし、部屋を出て行こうとする。

 ミズヲは声をあげた。

「どうして、あんたはいつも、そうなんだ」

 レンラは足をとめて、ふりかえり、彼の顔をのぞきこみ、注意深く問いかける。

「なんだと? 誰の話をしている? お前はいったいなんの話をしているんだ?」

「俺のことが嫌いなら、近づかなければいいだろう。放っておいてくれ、どうして探しにくるんだ」

 ミズヲは声をあげた。まるで泣き出しても不思議はない音だ。レンラはそれ以上に決然と言い返す。

「ああ、もちろん、お前には本当に、心底、うんざりさせられる。アレッセはろくでもない男をかばって、負わなくてもよい傷をおったものだ! 恵まれた生まれや才能や容姿を、当然のものとしながら、自分だけがこの世で一番不幸という顔で、女も男もたらしこむやつを、身を呈して助けた。私が、あのとき、アレッセが刺されたとき、どれだけ腹立たしい気分だったか、分かるまい。なんてばかなことを、なぜそんなことをしたのか。それなのにお前は、自分の代わりに赤の他人が刃物をうけたのに、新たなる不幸に酔いながら、白々しく見舞いに来ていた」

 表情はさほど取り乱していないが、はつらつと怒気を含んだ声に、ミズヲは驚いた。

「そんなことはない、あのときはほんとうに驚いたし、申し訳なかったし、感謝してもしきれない」

「感謝など、当然のことだ。たまたま助けてくれた赤の他人、おひとよしなほど親切な人、こんなにやさしい、素晴らしく出来のいい人は、めったにいない。こんなふうに命をかけて助けてくれるならば、自分を嫌な目にあわせることもないだろうと都合良く信じた。ところが、死んでしまう、いなくなってしまうとわかると、裏切られたとばかりに逃げ出した。ああ! いったい、どうしてこんなどうしようもない男を、かまうやつがいるんだ。アレッセもイルキもベニエもマニュも。この世は物好きばかりだ」

 ミズヲは言葉をなにも見つけられず、ふるえる拳をにぎり奥歯をかみしめる。

 小男とひょろりがどたばたと足音をたてて様子をみにきた。すれちがい立ち去るレンラを、あんぐりと見上げてみおくる。

「なんだいまのは」

「なんだいまのワ!」

「ものすごく怒っていたな」

「ものすごく怒っていたんだナ」

「ふたりとも、静かに。だいじょうぶよ」

 遅れて部屋にきたサフィーリは、彼らをなだめた。うながして他へやった。彼女は部屋に耳をすました。

「泣いても大丈夫よ。私は見えないから」

 ミズヲの涙は堰を切ったようにあふれ出した。怒りなのか悲しみなのかわからない。嗚咽がとめられない。泣くとはこんなことだったろうかと記憶をたどるが、思い出せない。流れる涙に目と呼吸を支配される。抗っても無駄で、しかし、そのままに泣けば、もっと涙があふれる、苦しくなる。

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