歌姫 ■雨■
光が多く入る部屋で、お針子たちがさざめいている。時間はすべるように過ぎていく。縫うべきものは山ほどあり、余裕はないのに、尋常ではならざる来訪者に気もそぞろ。こそこそと耳打ちしては、きゃあと小さい声をあげる。監督する
「あんたたちがいると、女たちが仕事にならないな」
「エズラトゥオスの芝居が待ち遠しくて、皆さん、落ち着かないのでしょう」
ミズヲは人当たりの良い笑みを浮かべる。彼の外面のよさには、ホバックはうんざりするのも飽きていた。一見完璧だが、一緒の側に立つだけでもぞんがい雑であることが分かる。対峙していると、どうしてもその美しさに惑わされてしまうのだろう、と自戒する。
通路から、怒鳴りあう声と足音が近づいてきた。女の声は興奮して癇癪をおり、男の声はいさめたりなだめたりしている。
ドレアンは不安げに腰をうかせた。
「まただ」
ホバックは愉快そうにいった。
「ご機嫌ななめだな」
ドレアンは肩をすくめる。
「小競り合いは午前と午後に三回ずつだ」
——もううんざり。ばからしい、やってられない。
怒気を含みながらも、声は美しく豊かな響きだ。
——行かないでくれ、まだ稽古中だ。たくさんやらなきゃいけないことがある。
——いいじゃない少しくらい。
——お前はここを放りだしてよい立場じゃない。わかってるのか。
懇願したり、とまどったり、なだめすかして脅しも混じる。部屋の前を、臼桃色の女の羽織りものがゆらめきながら通り過ぎて、足音が止まって戻ってきた。
部屋の入り口に女が立った。彼女は高いところから見下ろすように部屋を見渡す。がっしりとした肩に豊かな胸部。濃く太い線を描いた大きな目と、きゅっと閉じた大きな口。大ぶりで派手で、美しい。追ってきたエズラトゥオスは、
「ティジア!」
頼み込むような声をあげたが、彼女の興味はほかへむいていた。
歌姫は、視界にはいったものにむかって、凛とした声を放った。
「あなた、私を案内してちょうだい」
誰に向かって話しかけているのか、誰もわからない。まぬけな空気に包まれた。ティジアはつかつかと、ミズヲに歩み寄った。
「あなたよ、顔のきれいな人。わたしはせっかく、西の都オクウトにきたのに、宿とここの往復ばかりで、なんの見物もしていない。つまらない、もう耐えられない。さあ、どこかおもしろいところに、わたしをつれていってちょうだい」
女たちは固唾をのむ。ティジアの背後で、エズラトゥオスが何か言いたそうにうずうずしている。ミズヲは、出会い頭から高飛車なことをいう女には慣れていた。にっこり微笑んで返した。
「私は、オクウトの人間ではありませんよ」
「そうなの? じゃあ、わたしといっしょに誰かに案内してもらいましょうよ」
エズラトゥオスは背後から声をあげた。
「妙案だな、そうだ、君たち、美味しいものでも食べにいくといい。店なら、私が手配する。オクウトで一番の店に。酒も用意させるぞ」
彼のいうことが耳に入っているのかいないのか、ティジアは、ホバックの顔も指さした。
「よく見たら、まあまあいい男ね。あなたも来て」
ホバックの返事をきかずに、エズラトゥオスは一人でうなずいている。
「いいね、そのほうがにぎやかで楽しいだろう」
彼女をおいこしてまわりこむと、背後から座っているミズヲとコハクの顔のあいだで耳打ちした。金はどれだけでもだすから彼女のご機嫌をとってくれ。君たちのことは雇い主たちにちゃんと伝えるから。ミズヲは嫌がる様子もないが積極的でもない。ホバックは呆れつつも、格好をつけてティジアに申し出た。
「なんなりとお申し付けください、歌姫様」
それが合図のように、ミズヲは黙って立ち上がった。美しい立ち姿に、歌姫は毒気をぬかれて彼に見とれたが、するりと腕をまわした。
「すてきだわ。さあ行きましょう」
使いの男が、前金をたずさえて走っていく。歌姫が訪れると知らせをうけた店は、てんやわんやと準備に追われた。幸い、食材も酒も集められている時期である。一番いい部屋に最高の料理を並べろ、きれいどころを集めろ、見世物芸人たちを呼び寄せろ。なるべく奇抜な、度肝を抜く、かつ見目麗しいものたちを。
歌姫は両手に華、優雅に華やかな笑顔を振りまいている。彼女の目にとまり声をかけられた無関係な幸運の者たちが、ぞろぞろと後についてくる。道行く彼女の姿にすなおに賛美をおくったものが、お相伴にあずかる。
杯が交わされ、ごちそうに目を輝かせる。芸人たちが歌い踊り、火を噴き、水を吹く。人の上に人を担ぎ、上にまた人を担ぎ、またその上に。飾り玉がくるくる舞い、芸を仕込まれた動物が飛び跳ねる。ホバックは
歌姫の部屋は、高価な香が惜しげもなく使われ、花の香りに満ちていた。質の高い豪華な家具や調度品をそろえ、都から取り寄せたであろう品々が灯りに照らされているのには、ミズヲも目を見張るほどだった。
ティジアは鼻歌交じりで着物を脱ぎちらかし、薄い部屋着で寝床に横たわった。疲れきってはいないが、軽やかさもない。彼女は陽が落ちた部屋でささやくように、違う土地の愚痴をいった。
「こんな遠い土地は、野暮ったくて嫌いよ」
ミズヲは訊いた。
「どうしてここへきたんですか」
「あの男に口説かれたのよ。お金もよかったし」
「エズラトゥオスですね。あなたの歌は素晴らしい。それだけの価値があるのでしょう」
「わからない。こんな違う土地で、価値があるのか。水も空気も、光も違うのよ。ここの人に、私の歌がきこえるのかしら」
視線をどこでもないところに向ける。目の前のミズヲの顔ではなく、遠い彼方を見るように。瞳は故郷を思う少女のようにもみえる。ミズヲはそのまま顔を近づけ、唇を重ねた。
* * *
ある年の季節のかわりめに、雨が三日三晩降り続けた。最後の半日は、くわえて三日分がもたらされた豪雨だった。どこもかしこも水浸しになり、人々は総出で、片付けに追われていた。
雨のあとは強い日差しが照りつけ、汗がにじむ。地面はぬかるみだらけで足をとられる。湿度をたっぷりと含んだ大気が、まるで全身を薄い膜で覆う。さまざまな異臭が鼻をあちこちにひっぱり、険しい顔になる。
裸の人夫たちにまぎれ、泥まみれになっているアレッセをみつけたとき、ミズヲはまぶしさに目がくらんだ。その背後に陽の光があった。裾をたくしあげ、上半身を脱いで、汗が滴るからだをさらしていた。屈強な男たちと混ざっても見劣りがしない。彼は気さくな人柄でも、いつも高官らしい居ずまいを保ち、衣服を乱すことはなかった。ミズヲをみつけると、大きく手をふって近くへ来た。役所の高官も汗水たらす勤めをするのかと軽口を叩くと、彼は笑った。
「こういうときはしょうがない。お前のところはだいじょうぶだったか」
「水浸しになったくらいだ」
「どこも同じだな。場所によってはまだ水がある。……水害は嫌いだ」
アレッセの顔に、いままでみたことがないような暗さがよぎった。
「恵みの雨は、時には一瞬で、たくさんの人々を奪っていく。幸い今回は死人はなさそうだ」
そういったときには、アレッセはいつものように明るい表情をしていた。
ミズヲは彼の村の水害について知ったのは、季節が変わった頃だ。小さな山間の村が、ある大雨の夜、恐ろしい地滑りで消えていた。たった一晩で、ほとんどの村人が住居や田畑や財産とともに押し流されて死んだという。
* * *
窓の隙間からさす細い陽の光の鋭さに、ホバックはうめいた。
死んだように眠ったあとの、泥のように重い朝だ。寝床は上等、客室も上質なあつらえだが、頭にもからだにも、重厚な憂うつがのしかかる。声にならぬ悪態をつく。自分の声をきくと同時に、彼の脳裏に何かがよぎった。なんだ? 重要な、大切なことなのか。問いかけると同時に、約束を思い出し、ざっと血の気がひく。だが、からだも頭も、動こうとはしない。突然からだを動かせば、別の異変を引き起こす恐れがある。浴びるように飲んだ酒が、いっきに戻ってくる。
こっけいな絶望を見計らうかのように、扉を叩く音と、入室を確認する声がした。
「どうぞ」
力のぬけた声のままこたえると、使用人の男がさっと入ってきた。なれたすました顔である。水差しと果物を卓上におくと、ホバックにいった。
「今朝の先方には、ザルト様が使いをだしました。午後にご訪問くださいませ」
男は会釈してすぐに出て行った。ザルトが手をまわしてくれた、ということは、ここはザルトの屋敷の中だった、とホバックは分かっていたが再確認した。
昨晩、やっとのことでたどり着いた先は、ザルト商会の広場にある休憩所だった。自分の宿よりは近く、そこなら横になれる。そこで記憶はとぎれた。そしてなぜか、屋敷に運びこまれたらしい。今朝の約束の相手は、ザルトから一言でも言伝をもらえば、小躍りするほどには喜ぶだろう。
正体がなくなるほど酒を飲むことは、三度も経験したら十分だ。だが違う土地の酒は、飲み方も酔い方も違っていた。集められた綺麗所、楽師に踊り手、太鼓持ち。次から次へと饗される美味美酒に、冷静なつもりであったがすっかりおぼれていた。どうせ自分はミズヲの引き立て役だ、添え物だと、油断していたのは大人げなかった。
昨晩のミズヲは場をしらけさせることなく、そつなく役目をこなしていた。商売ならばたいていのことができるのだろう。美女たちに、きゃあとか、嫌だぁとか、声をあげさせたり。手をからめ、顔を近づけ、ささやきあったり。遠くから見ていても、一度も目はあわなかったが。
ホバックはひらきなおって、屋敷の内側からの風景を楽しむことにした。酔い覚ましの薬草の香りがする水をのみ、果物をかじっていると、また扉を叩く音がした。生返事でこたえると、若い女が扉をあけた。娘はホバックの半裸をみて、板がきしむような悲鳴をあげた。うしろにいた青白い青年が、あわててかばうように前に立つ。
「服を着ていただけませんか」
娘はベニエの妹のハミンだが、頼りなさそうな男は誰だろうか。ホバックはついたての後ろで着替える。衣服を着て顔を合わすと、ハミンは顔を赤らめたまま、寝起きに訪問してきたことをわびつつ、婚約者フウェバを紹介し、聞きたいことがあるのだといった。しかし目をあちこちそらし、ぎこちない。代わりにフウェバが口をひらこうとすると、彼女は「私が自分で聞きたい」といって遮る。声をだそうと息を吸い込み、目を見開く。よほど重大なことなのか、その先が続かない。昨夜については、ホバックはつるしあげられる心当たりはない。もっと以前の過去についてひそかに反省していると、ハミンがようやくしゃべりだした。
確かめておきたいがある。これは姉のためを思ってのことであって、私のためではない。しかし姉本人は、自分がここへきたことも、何をするかも、何も知らない。私が勝手にしたことではある。婚約者のある私が、ひとりでこちらを訪れるのは何かと問題が生じる可能性があるので、婚約者をともなってきた。姉とはベニエのことであり、彼女はあなたもご存じであろう、花婿を募集している渦中の人物である。しかしながら、それが公然と行われているわけではなく、私にさえきちんと告げられているわけでもない。だが、父ザルトは明らかに、一日も早く立派な後継ぎが決まることを期待しており、ベニエもそれに応える気持ちはあるように見受けられる。
長い前口上に、わきあがる好奇心と、酒による胸のむかつき、どちらが勝利するだろうか、ホバックは考えながら懸命に耳を傾けた。けっきょく、用件を口にしたのはフウェバだった。
「都からきた歌手の滞在してる宿に、昨晩、宝石商人のミズヲが同行したらしいというのは、真実でしょうか」
そんなことを確かめにきたのか。ホバックは驚きを脇において、記憶をたどるふりをしてこたえた。
「二人は一緒に席を立って、そのままずっと戻ってこなかった」
わずかの沈黙をおいて、ハミンは耳をつんざく声をあげた。
「信じられないわ! 信じられないわ、男の人って!」
フウェバは大声に負けじと力強く宣言する。
「僕は絶対にそんなことはしないよ」
「当然よ! あなたがするわけないじゃない。ああ、姉さんがこのことを知ったらどんなふうに思うかしら」
悲劇的な口ぶりで、ハミンはうなだれた。顔をあげると、ホバックをにらみつける。
「どうして、つれて帰ってくれなかったんです?」
驚きで馬鹿みたいに口が開きそうになったが、ホバックは口元に力を入れた。フウェバはさすがにそれは濡れ衣だと彼女をたしなめる。
「具合の悪くなった彼女を、介抱をするために、付き添っただけかもしれないよ」
「あちらのお屋敷にも、たくさん人がいるのに」
気力の充実した甲高い声と、おろおろする青年に、ホバックは胸のむかつきがひどくなり、かじりかけた果物をもう一度手に取った。酸味が頭を冴えさせる。当人がいないところでいきりたっても、どうにもなるわけでない。だが彼女は正論を聞きたいわけではないだろう。ホバックはハミンの瞳をまっすぐにみつめた。
「ご心配はもっともですが、婚約者殿の言うとおりですよ。彼は歌姫を屋敷に送り届けたのは確かでしょう、しかしそのあとは、もしかしてその屋敷に、もちろん別の部屋に、泊まったかもしれませんが、深更のことですし、屋敷の者がそうするようにすすめたのでしょう。だから今朝、屋敷からでてくる彼の姿が目撃されていたとしても、致し方ないことです。ご安心ください」
じっとホバックをみつめるハミンの顔には、疑いと安堵が交互にでてくる。
「だいじょうぶです。花婿候補に名をあげられながら、それにふさわしくないような行動をする男では、ありません。かくいう私も、お姉様の花婿候補に名乗りをあげているひとりです。」
ホバックは声に力をいれた。
「ほかの男が、悪く言わないなんて、逆におかしいと思いませんか? わたしはそれだけ彼のことをかっているし、競争相手としてふさわしいとおもっているのです。そうでないなら、いまここで、卑怯者と誤解されても、彼のことはやめるようにと進言させていただきますよ」
熱いことばに、若い女も男も圧倒される。くわえて真摯な光にみちたまなざしに、ハミンは我に返った。はにかんで、しかし、息をととのえた。貴殿の言うとおりです、真偽のしっかりしない話をきいて、あれこれと大げさに心配して騒ぎすぎました。わたしは信じます。婚約者のことも、候補者の皆様のことも。
気がすむと、かろやかな足どりとあいさつで、ハミンは去っていった。優しげな婚約者は、多少戸惑いながらも、感謝をのべて彼女のあとをおった。
何を信じるかの問題だ。ホバックは酔いを思い出し、寝床にふたたび倒れ込む。
屋敷を辞したホバックは、道行く顔見知りや知らない人からも声をかけられ、足をとめられ詰問され、あやうく約束を反故にするところだった。あの男と都からきた歌手が一夜をともにしたのか、あの男はベニエの花婿候補じゃないのか、どういうつもりだ、ベニエという存在がありながら他の女に手をだすとは不届きものだ、いや、あの男が花婿候補はおりたのなら願ったり叶ったり。ばかばかしいとあきれていたが、次第に腹が立ってきた。
用事をすませて、ようやくみつけたミズヲは、平然と客を相手に話をしていた。ホバックは粘り強く商談が終わるのを待った。終わっても当然、ミズヲが彼に声をかけたりするわけはない。
「ミズヲ、昨夜は歌姫とどこへいったんだ」
後ろから単刀直入な問いに、ミズヲは動きをとめ、ふり返った。冷ややかなまなざしだ。
「ティジアの投宿先だ。彼女を送り届けた。あんたはべろべろに酔っぱらっていたからな」
「お前は、花婿候補からおりるのか」
「俺は最初からそんなつもりはない」
「そんなことで、おりられると思うなよ。ベニエの妹君に俺はちゃんと言いつくろっておいたからな」
ホバックのことばに、ミズヲは怪訝そうな顔をして、しかし不機嫌がうかんだ。ホバックは内心してやったりと快哉を叫ぶ。
「俺のところにわざわざ、姉の花嫁候補として有力なミズヲ殿の噂の真偽を確かめにきた。だから、お前がいまいったように、送り届けただけとこたえておいたよ。仕事だけでなく、ずいぶん買われているようだ、おめでとう」
明らかにミズヲの顔に怒りがわいたのをみて、殴りかかられるかとホバックは身構えた。だが夕方の光がおちて暗くなるように、勢いはきえた。黄昏の薄暗いなかで、ミズヲは生気を失った顔をしていた。
「かってにしろ」
ひとりごとのように告げて、ミズヲは自分の仕事に戻る。ハボックはこれぐらいはいいだろうと息をついて、背をむけた。
朝の冷たい空気で目を覚ましたとき、街の起き出す音が耳をくすぐった。
ティジアは窓をあけて、一糸まとわぬまま窓辺に立っていた。目覚めようとする街をながめていた。
「私の歌声は、どこまで届くかしら」
問いかけながら、つぶやきは自信に満ちていた。私の声が届かぬ場所があるのなら、そこへ行って聴かせよう。私の声を、歌を。見知らぬ聴衆が祈りにも似た思いを託す。わたしの歌に。
自信にみちた燃えるような生命力がまぶしくて、ミズヲはまぶしく目を細めた。
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