巡回
夢だ。
大きな
美しく静かな安らぎに満ちている。だが早くここからぬけだそうと、心が焦る。もがくほどに、足は重くなる。
ティジアが、死んだ歌姫が、悄然と立っている。
薄桃色の上着の
——どうして私が死ぬの。私が死ぬのなんておかしい。私はこれから歌う。舞台で歌わなければならない。おおぜいの人の前で高らかに歌う。みんなが待っているのに、みんながわたしを聞きに、わたしのために集まるのに。劇場に住まうあの男も、あれこれうるさく言ってくる。注文の多いあのひと。あのひとは何をしているの。私がいなくて何ができるというの。あの男が選ぶことばも、旋律も、すべて私のためのもの。栄光に満ちた愛も、報われぬ愛も、春夏秋冬も、昼と夜も、生と死も。あなたはどうして助けてくれなかったの。
『どうしようもなかった』
発したはずの声はかすんでいた。のどは音をとらえていなかった。
——どうして教えてくれなかったの。お前はわかっていたはずだ。私の惨めな運命を。異国の地に骸を置き去りにするさだめを。
ミズヲは身を翻して逃げ出した。はやくここを立ち去ろう、他へいこう。
女は手折られて捨てられた花のように、地面に伏した。だが、ゆっくりと立ちもどる。ちがう誰かの影になる。
ミズヲは足を止めふり返る。逆に、影を追いかけはじめた。
『待て』
からだをのばした男は、背をむけて、遠のいていく。
『待ってくれ』
ミズヲは手をのばして叫んだ。
『行くな!』
目をさましたミズヲは、声をだそうとあえいでいた。
息がつまったようだった。何度か呼吸をして息を整えると、息苦しくなる夢をみた己にいくらか
脳裏に影がよぎると、背後がひやりとする感覚もよみがえる。ミズヲは顔をふって記憶をふるい落とした。いつもそうしてきた。すべて忘れる。憶えていたら切りが無い。
宿をでて、行き交う人が少ない道をとぼとぼと歩いていると、ミズヲは様子が違うものに気づいた。長い外套をはおり、頭巾をかぶり、悠々と歩いている者たちがいる。ひとりの場合もあるが、ふたりの場合は、ゆっくり談笑していることもある。街の人々は特に怪しむ様子はない。彼らは魔法使いだと、ミズヲは気づいた。
マニュに、そのことを尋ねた。
「魔法使いたちが、夜に都市の中を巡回している。毎年のことだ」
老人はこともなげにこたえる。青年がまだ不思議そうな顔をしているので、つけたした。
「祭には、いろいろなものがひかれて集まってくる。幸運をよぶものはよいが、たちの悪いものは彼らが追い出したり、始末する。少々ほおっておいてもよさそうなものは、まとめて最後の日に浄化してしまう。近頃はオクウトの人口もふえて、死人も増えている。だから危険なものもふえているらしい」
「昼間も警戒を?」
「夜ほどではないだろうが、祭のあいだはみんな浮かれ騒いでいて、どうしてもおろそかになる。だからついでに魔法使いが見回るのだ」
レンラもそこらへんを歩き回っているのだろうか。目をふせたミズヲに、マニュはいった。
「お前も気をつけろ。つい先日、葬式へいっただろう」
「はい。ありがとうございます」
顔をあげて、さわやかに応える青年に、老人は内心あやうさを感じた。口に出して伝えることはしなかった。どれだけいっても、何も聞こえないときはある。
真昼の太陽が照りつける頃、使いにでたミズヲは目のはしに影をとらえた。人々が行き交う活気づく街角で、いま人が曲がっていった塀の壁に、視線をすいよせられる。恐れと同時に好奇心もあった。のっぺりとした形を持つ影にみえた。
曲がり角に近づこうとする。
とちゅうで、肩をつかまれ、からだをひかれた。髭を生やした長身の壮年の、勇壮な兵士と見まがう男が険しい顔をしていた。
「追いかけるな、若者」
厳しい口調でそういって、ミズヲを追いこし、角を曲がる。ミズヲはあとをつけた。とくにおぞましい光景はなかった。魔法使いはかがみ込んで、地面に這いつくばる小さい生き物をつっついていた。ミズヲは声をもらした。
「月虹虫」
男はミズヲをみていった。
「こんなところに珍しい。だれかが捕らえてもってきて、逃がしてしまったのかも知れない」
「どうして月虹虫を」
「売り物かもしれんな。月虹虫を介して死者と語ることができるとと信じている者がいる。忘れたころに、思い出したように話がでる。何もできないといっているのに。おかげで虫たちは、このように哀れ住む場所を遠く隔てたところにつれてこられる」
男は編み目の荒い袋をとりだすと、虫をつかんでつまみ上げてなかにいれる。虫はじたばたと暴れたが、すぐにおとなしくなった。ミズヲの視線に気づくと、男はいった。
「城壁の外に放すさ。君にはあげないよ」
すっくとたちあがると、ミズヲよりも目線が上だった。
「君は魔法に近い気配がする」
ミズヲは自分が魔法石などを売る商人だと話した。魔法使いの知り合いがいることは言わない。
「なるほど。では、なお用心しろ、美しい青年。力があると、良いものも悪いものもひきよせる。影などに興味を持つな。いまのオクウトは都よりも光のちからも、闇のちからも強い。祭のときのやつらは、人と同様にうかれて何をするかわからない」
預言めいた言葉。
「影は死者ですか」
「かつて死者だったものもいるし、そうでないものもいる」
「何のためにでてくるんですか」
「話して分かる相手なら、苦労はしないよ」
「もしかつての死者ならば、生者に何か言いたいことがあるのでは。恨みがあったり、生きている者をねたむなら、生者に近づこうとするのでは」
ミズヲが冷静なまなざしと口調のまま、問いかけるうちに、魔法使いの警戒は増していた。
「思いを強く抱いている相手がいるようだな」
ミズヲはこたえない。愛想笑いも作れない。魔法使いは返事をまたず、きびすを返して雑踏にまぎれていった。ミズヲも何事もなかったようにその場をはずれた。黒い影も、月虹虫も、魔法使いの男も忘れる。すぐに、忘れてしまえるはずだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます