■逢瀬■
* * *
ありふれた夜。女のお気に入りの酒場は、ほがらかな酔客でにぎわう感じのよい店だった。店へ入るとあんのじょう、ちらちら視線を集める。彼女が最近手に入れた、新しい恋人は、とびきりの美青年だった。集まる好奇心に、彼女の胸はいっそう高まった。彼女の好物で店の売りである、甘く煮た
やや無愛想な、冷めた、しかし恐ろしいほど美しい男といるときは、年上ぶることも、うぶな娘のふりをする必要はなかった。いままでの男と違って、彼は声を荒げたり、手を上げることはいっさいなかった。ときどき、不快感や自身の好みでないことを、控えめに示すことはあっても、露骨に嫌な顔をせず美しいままだった。その男といるときは、見栄をはる必要がなかった。彼はやさしく白く長いきれいな指で頬にふれて、心をほぐしてくれる。そんな男は、彼女の人生にははじめてだと思えた。
女は、指先で果実をつまんで、ミズヲの口元へ運んだ。
「あなたも食べてみて」
唇に近づいたものを素直に受け入れて、数回
それを打ち破る音が響いた。
悲鳴と、杯や皿が落ちる音がつづく。まだ幼さの残る給仕の女が、恐怖におびえてすべてを落としていた。顔が赤らんでいる客たちは、一度では気にも留めなかったが、音が続くと、さすがに注意をむけた。
なにごとだ? どうしたんだ?
男が、店の入り口から入ってきていた。息の荒い、
色男! しっかりしろ!
他でやれ、酒がまずくなるぞ!
怒りに震える男は、からだをかがめたまま、あごを動かして、上から下までミズヲをねめつけて怒鳴った。
「お前か、薄汚い
「でていってよ!」
女は金切り声を上げた。ミズヲの背後に隠れながらも精一杯の虚勢を張る。
「あんたとはもう関係ないのよ。あたしはもうこの人と」
少し上がった男の手に、刃物が握られているのをみて、女の声は途切れた。
野次馬たちは後ずさり、小さい悲鳴がとびかい、足音がばたばたと店の外に出て行く、はやしたてる口笛は止んだ。かわりに、ささやく声がした。
早まったことはやめろ。そんなことをして何になる。
まだ若いじゃないか。人生あきらめるには、はやすぎるぞ。
「逃げろ」
ミズヲに促されても、女は震え、男を凝視して、動けない。男は恐ろしい
ミズヲは目を見開いた。
だが、刃を受けたのは、見知らぬ男の
女の悲鳴が、何度も耳をつらぬく。倒れた男は、苦痛に顔をゆがめながら、同時に微笑んでいるようにもみえた。おさえた手の隙間から、血がにじみだす。刺した男は、
ふいに、周囲を囲んでいた人々の数人が、場所をあけた。刺された男のそばに、とりみださず身をかがめる者がいた。魔法使いだと、ミズヲはわかった。苦痛に顔をゆがめる男に話しかけ、顔を近づけその声をきく。手早くなにやら術を施して、店主に告げた。
「奥を借りられるか」
「もちろんだ」
店主は我に返り、指示をして男を奥へ運ぶ。刺した男をつかまえている者たちは、自然とその魔法使いの指示を待つ。魔法使いは彼らに近づくと、小声で言った。顔を見合わせたが、刺した男を乱暴には扱わず、近くの椅子に座らせ、周囲を囲む。落ち着いてくると、見ていただけの客は、ばつが悪そうに、勘定をして店を出て行き始めた。
役人たちがかけつけたときは、見張っている数人と、騒ぎのあいだも我関せずで飲んでいる客しかいなかった。役人たちは、いつになく
「やれやれ」
「とんでもない晩めしになったな」
見張りから解放された男たちは、ぶつぶつと言い合いながら、店をあとにしていく。店で働く娘は、店主にいわれて泣きべそをかきながら、片付けをはじめていた。ミズヲのそばにいた女は、とうにいなくなっていた。ミズヲは役にたちそうなふうで、しかし、なにもしないでそこにいた。呆然と床に座り込んでいた。魔法使いが近づいてきた。ふだんは、用心深く接する相手であるが、いまは身構える気力はない。
「刺された男は大事はない。刺した男は、刺された男と、ふたりとも同じような役人だそうだ」
ミズヲは目をみはった。
「
刃物をもつ男のほうを見知っていたから。それだけで、赤の他人の盾となるだろうか。ミズヲは奥のほうをみた。魔法使いは段取りをこなすようにつけくわえた。
「彼が気にしていた。君は、だいじょうぶか」
平気だとこたえようとして、ミズヲは少し震えた。魔法使いはその腕をつかむと、椅子に座らせた。酒を注ぎ杯を差し出す。ミズヲは首をふった。かすれた声をしぼりだした。
「そんな強い酒は飲めない」
「名前は?」
「ミズヲ。石を売る」
「わたしはレンラ。魔法使いだ。今日はもう帰るといい。アレッセのことが気になるなら、またここへ来い。店主に伝言でも伝えておく」
「……わかった」
自分をかばって刺された男の名を、ミズヲは知った。
女は人づてに簡単に別れを告げてきた。店はなにごともなかったように、もしかしたら以前より機嫌よく商売をしていた。酔客の話に聞き耳をたててみると、客が少しだけ増えているらしい。店にはなかったような、いい酒がある。食べ物もいいものがある。何かいいことがあったのかと主人にきいても、ツキがまわってきたのだと笑顔をみせるという。主人はミズヲに伝言を預かっていた。
よくある刃傷沙汰を、ほとんど誰もが忘れた頃、約束の頃に店に向かうと、彼はもうそこにいた。主人とにこやかに話をしている。ミズヲをみると旧知の間柄をみつけたように声をかけた。
「やあ、元気そうだね。怪我もなくて、なによりだよ」
「あなたは、重症だ」
「治りははやいよ。レンラがはやく手当をしてくれたのがよかった。すぐによくなる」
そうか、とミズヲは思った。自分が原因で起きた騒ぎなのに。ミズヲは頭をさげて礼を述べ、小さい革袋を差し出した。アレッセは不思議そうな顔をしながら、受け取って中をみた。店主が酒と杯と肴をもってきて置いた。ちらりと視線を落とし、すました顔で去っていく。アレッセは中身を、指先でつまんで半分とりだしてみたが、そのまま戻した。
「これはずいぶん、高価な品ではないのか」
ミズヲは、向かいに腰をおろした。自分が宝石や石を扱う商売をやっていると話した。まだもう少しだすことができると言いかけると、アレッセは逆に、一回り大きい、重さのある小さな袋を卓上においた。刺した男の家族から預かったという。
「これは君の分。俺も押しつけられたよ。役人が仲間の役人を刺したなんて、ばつが悪いからね。彼も、彼の親も、高官なのだ。秘密だけど」
自分の知らぬ間に始末がつけられていたことが、ミズヲはやっと分かった。
「受けとれない」
とかろうじてこたえた。暗い表情をみて、アレッセはいった。
「嫌な気分にさせて申し訳ない」
「どうしてあなたが謝るのですか」
「いい気分はしないだろう」
「すべて俺が原因です」
「こういう話は、誰かひとりが悪いってことはないだろうよ」
アレッセはこともなげにいって、酒を注ぐ。
「酒は飲めるか」
ミズヲは少しだけとこたえた。杯をかわして、アレッセはいった。
「俺も強くはない。アレッセだ。よろしく」
ミズヲははじめて、自分の代わりに刺された男の顔を、しっかりと見た。
その夜のうちに、たくさんのことを話した。商売で旅が多くて、あまり都にいないこと。石にまつわる様々な物語、行く先々での珍しい習慣や出来事。アレッセは話をきくのがうまかった。ミズヲが自分では思い出しもしないことも、きっかけとなることをたくさんのことを知っていた。アレッセは謙遜していった。
「ほとんど見聞きしただけだ。じっさいにそこへいったわけじゃない」
中途はんぱな立場の役人は意外と不自由だ。雑用でどこかに足を運ぶこともなく、優雅に練り歩き豪華な接待をうけるわけもなく。
別れ際には、ミズヲはまた話を聞かせると約束をしていた。もしかしたら、アレッセとそんな約束をしている人間は、大勢いるのかもしれない。旅する人間から、地方のことをあれこれきいて、自分の糧にしているのかもしれない。一種の諜報活動だ。役人の密偵だと思われたら、同業者にはよくは思われないだろう。お上の犬だと密やかに罵られるかもしれない。だが二度目に会ったときには、ミズヲはそんなことを考えるのも忘れていた。
ある夜、アレッセの近くに、先にほかの人間が座っていた。レンラだった。飲み交わし笑いさざめく人々のなかで、彼らのいる場所だけが違って見えた。あのときは世話になったと、ミズヲは改めて礼をのべた。同時にアレッセと親しげな魔法使いを警戒していた。魔法使いは、用心してかからないと痛い目に合う。楽しげに会話をする二人をみつめて、ミズヲはやがて、違和感の別の原因に気がついた。
「君は、男なのか、女なのか」
問いかけに、レンラはすぐに愉快そうな顔になった。
「どちらだと思う?」
「わからないから、きいたんだ」
「どちらでもないよ」
ミズヲは疑り深い視線をやめない。アレッセはどちらの側につくともなく、様子をみている。
「どちらがいい?」
たずねられ、ミズヲは女に言うようにこたえた。
「女がいい」
「なぜ? 自分になびくから? 支配できるから?」
そういったときの魔法使いは、怒りを積み重ねることにも飽きた女にみえた。
「わたしは、君が男でも女でも、どちらでもかまわないよ」
そういったときは、成熟した大人の男が、未熟な少年をたしなめるようだった。
ミズヲは驚愕した。
アレッセはなだめるように、魔法使いの前に手をだした。魔法使いはおとなしく従った。ミズヲの前にいるのは、自分より少し年上の、女になった。
「わたしは女だ。あらためてよろしく。女でいると、なにかと不便がおおくてね。たとえばここにいても、なぜか酔っぱらっているのは男ばかりで、給仕するなかに女がいるくらいだろう」
ふつうの若い女は、こんなところでは酒はのまない。ミズヲは言い返しそうになってやめた。
「失礼な言い方をした。悪かった」
レンラはこともなげにいった。
「男か女かわからないと、落ち着かないだろう。当然のことだ。相手の性別がわからないと、自分がどのような態度ででるか、決められないからな」
* * *
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