新しい時代のはじまり②
翁に言われたとおりに、女川のほとりで腰を落ち着けると、お銀は周りで群生している白詰草や、若葉の生い茂る柳や、街を闊歩する犬や猫、人などを見ては、紙に写していく。夢中で写生していると、ふと日が翳り手元が暗くなった。
顔を上げると、綺麗な月代の若い武家がお銀の手元を覗き込んでいる。
「な、なんや」
驚きすぎて吃るお銀には構わず、武家の青年は顎に手を当てて、真剣にお銀の絵をみているので、お銀は思わず胸に紙を押し付けて隠す。
「何故隠す。見せなさい」
「お武家様に見せるようなもんはな・・・ありません」
そう、お銀が言うと、武家の青年は目をみはる。
あ、左目下に泣きぼくろがある。と、どうでもいいことをお銀が考えていると、青年は首を小さく傾げた。お銀よりも肌が白いのではないだろうか。色白の青年は、お銀の隣に腰を下ろすと、二本差しを脇によけた。
「絵を描いてただろう? 私は絵が好きでな、今一度見せてはもらえないだろうか」
「私の描くものは、とても人様に見せれるようなもんじゃありませんので」
何故隣に座る。
その一言が言えず、恥じ入るふりをして、武家に目をつけられたという面倒ごとから逃げようとするお銀に、全く気づかず、青年はじっとお銀を見つめる。
お銀はつい癖で、青年の着物の方に目が行く。染め抜かれた家紋、あれは笹だろうか。笹の葉が一、二、三、数えているとふいに青年が話した言葉が耳に入り、意識を戻した。
「雅号はあるのか?」
「はい?」
「雅号だ。まあ、いい。名前はなんと言う。私は、貴輝という」
何故名乗る。
もちろん、そう言えるはずもなく、お銀も渋々名乗る。
「銀、と言います」
「ほお、金持ちそうな名だ」
他に言い方がないのか。
そう言いたいのをぐっと堪えるお銀。
至極どうでも良さそうな感想を呟くと、青年はお銀が隠す紙を指差した。
「見せてくれ」
「嫌や」
間髪入れず返す言葉に、青年はむすうと顔をしかめる。
お銀もしつこい男やと顔をしかめる。
「嫌か」
「当たり前や・・・です。こんな中途半端な絵、誰にも見せたくないものです」
「そうか」
そうか、ともう一度呟くと、青年はすくっと立ち上がった。
つられてお銀も一緒に立ち上がる。
「お銀は誰かに師事しているのか」
「はあ、そうです。御国染の」
「ほお、御国染」
「はい。私を育ててくれた養父なのですが、藩主様からも認めて頂いた御国染を作っています。その人に師事してます」
「なるほど、宮崎友禅か。そうか、着物を作っているのか! お銀も、いずれ作るのか」
何故わかる。
目をみはるお銀に、貴輝ははじめて笑う。
「言ったろう。私は絵が好きなのだ。もちろん、宮崎翁の描く御国染も、扇絵も好きだ。昼行灯の道楽息子と謗られても、やはり、掛け軸や陶芸、着物、美しいものがあれば見たい、出来れば手元に置きたいと思う欲求は抑えられぬ。殿のように大々的には保護することは出来ずともな」
ぽかんと、見つめるお銀に、照れ臭くなったのか、貴輝は着物を整えるともう一度お銀に聞いた。
「いきなり声をかけてすまなかった。ちらと絵が見えたものでつい、な。お銀も、いずれ御国染を作るのだろう? 作ったら私にも見せてもらえないだろうか」
描かせてもらえるだろうか。
考え込むお銀に、貴輝はまた首を傾げる。
「宮崎翁が師なのだろう。ならば、いずれお銀も雅な御国染を作ってゆくのだろう」
当たり前のように言う貴輝に、お銀は思わず視線を落とす。
『出来んと、生地に触らせれんわ』
先ほどの師匠の言葉を思い出し、お銀は唇を噛むが、すぐに毅然と前をみた。
「今はまだ、触らせてもらえんけど、必ず御国染の着物が作れるようになります」
「そうか」
貴輝は目を細めると、お銀をまぶしそうに見つめた。まだ幼さの残る少女の、黒い目が夢を語り、きらきら輝いているのが、貴輝には好ましくみえた。
「お銀は今いくつだ」
「十五です」
「そうか。まだまだ若いな」
幼いと言われたようで、むすうとお銀はふくれっ面になる。拗ねた気持ちのまま、お銀はするりと今日感じた不満を口に出す。
「お師匠さまは、私が絵が下手やと言います。もっと上手くならんと駄目だと」
眉を寄せる貴輝に、お銀はしまったと口を押さえた。
初対面の、それも武家の人間に。
そして、絵が下手だ、未熟だと自らを貶める言葉を口にしてしまった。
青くなる、まだ幼さの残る表情に、貴輝は少し目を細めた。
「下手、か。私はお銀の絵を見たことがないからな」
お銀が気まずそうに紙を握りしめる。
貴輝は、ちらりと、お銀が隠し続ける紙をみたが、すぐに視線を逸らすと話を続けた。
「お銀の師が有名になったのは、もっと年を取ってからだ。誰しも初めは上手くいかないものだろう。赤子もすぐ立って喋れるようになるわけではないだろう? 焦ることはない。道を一歩ずつ進めば、いつの間にか、腕は出来上がってるだろう」
貴輝の言葉はお銀の胸にすとんと落ち、今まで焦っていた心が凪いだ。
「そう、かな。そうだといいです」
頬を紅潮させ、頷くお銀に、貴輝はなんとなく聞いた。
「お銀は、どんな御国染を作るのか、何か夢でもあるのか」
「勿論あります。私の夢は、お姫様みたいな着物を作ることです」
にっこり笑う娘に、貴輝は感心した。躊躇いなく夢を口にすることに若さを感じる。
そう思う貴輝も、二十歳と十分若いのだが。
「そうか。それは楽しみだな」
「ありがとうございます」
「その時は、私にも見せてくれ」
「・・・はい!」
そう約束すると、貴輝とお銀は別れた。まだ他にお銀は写生する対象がないかと川沿いを歩いていく。だからこそ、貴輝の小さなつぶやきは、彼女に聞こえることなく済んだ。
「お姫様、か。今はまだいいが・・・」
江戸の新しい将軍は紀州藩出身。かの藩の立て直し方をみれば、財政を立て直すのに色々と波乱がおこりそうだ。
貴輝は、若き見習い作家の行く末を憂い、眉をしかめた。
加賀藩の現藩主、前田綱紀様がご存命のうちはまだ、大丈夫だろう。
庶民も馬鹿ではないし、抜け道を探すのは得意だろう。どうせ今まで幕府から出された触れも、きっちり守ってるわけではなさそうだ。
それに、彼女の師は藩お抱えの御国染の作家だ。
熱心に写生していたお銀を思い浮かべながら、貴輝はふっと笑った。
精進すれば、必ず大成するわけではないが、大成したものは必ず努力を怠らずに、精進した者だ。
これからの行く末が楽しみだと、貴輝は小さく呟いた。
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