新しい時代のはじまり①
お銀が翁に弟子入りしてから、四ヶ月経った頃の正徳六年皐月一日。七代目将軍徳川家継が、就任四年足らず、わずか八歳で鬼籍に入った。これにより、江戸では尾張、紀伊、水戸の熾烈な後継者争いになったが、経緯はさておき、徳川御三家の紀州藩当主、徳川吉宗が将軍家を継ぐことが正式に発表された。
そして、十六日。
今まで政治を行ってきた者を退職させ、新人事を吉宗は行う。自身の周りを紀州派で固め、享保の改革がはじまろうとしていた。
世が新しい時代の産声を上げていた頃、お銀はというと・・。
「お師匠さま、なんかすることないんか?」
浮かれに浮かれて翁の周りをうろついていた。翁からもらった赤梅染の着物は大切にしまい、汚してもいい普段着をきて、目をきらきらさせて翁の周りをうろつく。
まるで鼠だ。
「お銀、いい加減いじっかしいわ。写生してこいま」
「また、写生!」
不貞るお銀に、翁はとほほと眉を下げる。
「写生が基本なんや。お銀はもっといろんな景色を見た方がいい」
「ずっと写生してるがいね。お師匠さまが弟子入り許してくれてからずうっと写生ばっかりやがいね!」
これじゃ何も変わらん!と甲高い声で主張するお銀に翁は弱った顔をする。
「そうは言うてもなあ。お銀は鳥が下手やし、花弁もうまいこと描きわけることができとらん。お銀、お姫様みたいな着物作りたいんなら、まず、写生を出来んと話にならん」
翁の言葉に、お銀は鼻っ面を思いっきりへし折られた。
でも、確かに翁の言うことは最もだと思った。
翁のような、その場に百花繚乱を描くことができず、のっぺらりとした絵しか描けぬお銀には、技量が全く足りていない。
むむむ、と口をへの字に曲げるお銀に翁は呵々大笑した。
「お銀。焦るな。しっかり見ろ、鳥なら羽の隅々まで、花なら匂いまで描き写す気で描きまっし。水無月には、紫陽花も咲き始める。とにかく写生をしっかり出来んとな」
笑う翁に、お銀はぷくうと頬を膨らませた。
焦ってばかりで、前進していない。
歯がゆく、拳を強く握りしめる。
「いつになったら翁みたいになれるんや」
思いが先走り、実力が全く伴わない弟子を翁は愛おしげに見る。
この子は筋はいい。
だがいかんせん、動物が下手すぎる。
動くものを観察するのが不得意なのだ。
そして花も。梅、桜、桃を描きわけろと言っても、形は丸っこい、先が二つにさけてる、先が尖ってると理解してはいるが、なかなか・・・。
正直に言えば機嫌を損ねるだろう。
だが、向上心は一人前だ。
「女川のほとりで、集まる動物を片っ端から写生しまっし。そんで、川沿いの景色を全て写しまっし。とにかく、写生や。出来んと、生地に触らせれんわ」
こう言えば、お銀は顔を真っ赤かにして、ふんっと肩を怒らせて工房を出て行った。拗ねつつも、しっかり写生の準備は持っていく弟子に、翁は微笑んだ。向上心のない者にはいくら言っても駄目だが、お銀はちゃんと喰らいつく。直情的だが、そこもまた可愛らしいと、孫同然の弟子を思った。
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