閑話

弟子入りしてから三年が経った享保三年。

お銀は十八になった。

きりっとした眉に涼しげな目元。

喋らなければ小町と言われるほど、評判の器量好しに成長した。

お銀は三年前と変わらず、いや、それ以上に着物にのめり込んでいた。技量が足りないならばと、町へ出てはひたすら犬、猫、雀や烏、鷺、鶴を写生し、植物も模写し続けて、とうとう翁から下絵を任せてもらえるようになった。

まだ、図案を一から作ることは出来ないが、翁の図案を下絵に写す作業は、勉強にもなる上に、技量がないと出来ない。

お銀の手は常に青花を作っているからか、指先は翁と同じように青花で染まり、あおく、たおやかな娘らしい手ではないが、筆たこの出来た手になってきた。絵師らしくなってきたとお銀は誇らしく思う。

お銀は、翁と同じ工房で、翁と二人で一つの着物に向き合っていた。


「お銀、下絵こっちから頼むわ」

「はい」


お銀はきりりと表情を引き締めると、傍にある小皿に入った青花の汁に、筆先を落とした。

図案には美しい紅葉が描かれていて、牛車、鶴も舞い、なんとも艶美な秋が描かれている。それを、生地に写すのだ。


指先が震えないよう、深呼吸する。

気持ちを落ち着けてから、お銀は下絵を慎重に描く。

お銀の筆先から、流れるように艶やかな紅葉が生まれていく。

静謐な空気の中、翁と娘はひたすら己の内から美しい絵を生み出していく。張り詰めた緊張感のなか、どちらが先に息をついたか。


どれほど時が経ったろうか。

翁が筆を置き、長く息を吐いた。


「お銀、きりのいいところでやめとけ」

「はあい」


お銀はちょうど、楓に取り掛かったところだったので、返事だけする。

そんな娘に、翁は満足そうに目を細める。

夢中で楓を描くお銀は、以前に比べると格段に上達した。

そろそろ、図案も描かせても大丈夫なくらいだ。

お銀は、技量が足りないなら、それを補うべくしっかり努力の出来る娘だ。

絵を描く才能というのは、やはりある。幼い頃から、絵の上手いものは上手い。

だが、絵に大切なのは見る力である。

観察し、表現する。

上手い絵を模写するのも大切だ。技法を盗むのだ。

お銀は努力を惜しまない。

きっと、お銀はそれこそ、晴れ着としてふさわしい、豪華絢爛な着物を作ることができるだろう。未来を思うと、年甲斐もなく翁はわくわくした。

翁は若い頃から長い間京都に住んでいた。今上陛下や公方様が座す都は芸術面も発展していて、そこで扇絵師として長らく腕を磨いた日々をたまに懐かしく思うことがある。

多くの絵師が切磋琢磨していた都だが、ここ、加賀も負けてはいない。


江戸や京都に比べたら地方だが、ここは前田の殿様がおわす城下町。

加賀の特色は芸術面が発展していることだ。特に、翁やお銀の生きる時代、つまり五代藩主綱紀の時代が素晴らしく発展した時代ともいえる。

加賀藩には御細工所奉行という奉行があり、(ちなみに廃藩置県で加賀藩がなくなるまで続いた)手先の器用な藩士が武具の修理や管理、城内の調度品などの修理のために細工方を組織するよう命じられたことが始まりで、藩士や全国から集めた技術者だけでなく、後に町人からも採用され、政策として芸術面を手厚く保護した。綱紀の代で御細工所は漆細工、紙細工、蒔絵細工、象嵌細工、春田細工など二十四種の細工分野が出来て、また、全国から集めた工芸品を集めて百工比照にまとめた功績もある(たまに展示されるので興味のある方はみてみてほしい)。

工芸面で、加賀は発展している。

何より藩の庇護を受けている。

着れればいいだけの着物を、豪華絢爛にし贅をつくしたものを、晴れ着として着れるのは戦もなく生活に余裕のある時だけ楽しめること。

翁が発展させた御国染、最近では加賀友禅と呼ばれる着物は鮮やかな色彩でいろどられた華やかな着物だ。

幕府より金糸銀糸を使った華美な着物や絞り染の着物は禁じられているが、京都でも流行ってる友禅染めならば禁止されてはいない。金糸銀糸なんてものは使わず、金箔銀箔も使わない染め絵だから幕府に禁じられていない。京で大いに流行ったこの手法が、古来よりあった加賀国伝統の御国染(梅染め)と合わさって、新しい友禅染めという着物を作っているのが翁だ。武家か、羽振りの良い豪商しか買えないがいまは仕方ない。そもそも着て寒さをしのげればいいのが着物だからだ。

だからこそ、翁は思う。

お銀の夢が叶うときは、とても素晴らしい時代になっているだろう、と。

お銀の夢を叶えるには沢山作って、作る職人が増えて、庶民にも手に入れることができる価格まで落とすことができるようになること。

そのためにもお銀は腕を磨いて沢山着物を作らなければいけない。

一心不乱に描くお銀を見て、翁は微笑んだ。この子に持てる全ての技術を伝えることが、自身の最高の仕事になるだろうと。

十八になったお銀は、ますます絵の技術が発達してきた。普通の娘ならできる家事よりも優先して御国染に打ち込んだおかげで。娘時分を修行に明け暮れているお銀に縁談がなかったといえば嘘になる。あったが、どれもお銀が首を縦に振らなかったのだ。

自分には誰かの妻をしながら修行するなんて器用なことは出来ん、と。そう言ったお銀を、翁は必ず一人前の職人にしようと胸の内で固く誓った。


真剣に図案から写す作業をしている娘の気を散らさぬよう、翁は外へ出た。

水無月の曇り空を、雀が羽ばたいて、ちゅんちゅん会話をしている。

お銀の人生はきっと、自分があの子を拾ったときから職人としての人生へと進んだのだろう。目を輝かせて自分の手元を見て描かれる絵を歓声をあげて見ていた幼子を、翁は大切に育てた。


『加賀国すべての女の子を、可愛いお姫様にしたいんや』


そう言い切ったお銀のまだあどけない顔を思い出して、翁は微笑んだ。


「ほうやな。お銀ならできるわ、きっとな」


もてる全てを教える。

そのために長生きをしようと老人は最近痛くなってきた腰を叩いて気合いを入れた。

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