第3話 ナナと父の話
ナナは故郷とは違う世界にきてしまった、と理解していた。
なんといっても、ここは魔素が極端に少ない。身体を巡らせる魔素ですら、元気がないようだ。墜落の衝撃から回復するのに、かなりの魔素を消費したので、健康状態にも不安が残る。
生まれてからずっと、ナナは魔素とともにあり、大げさでなく、それが世界のすべてだったので、身を細らせるような気分であった。
しかし、部屋の片隅にあるそれを見つけた時、希望が見えてきた。
「吾郎さん、これ」
ナナは手の物を、吾郎に見せながら聞いた。
「それは水晶だ。長い時間かけて作られた、まあ、石みたいなものさ」
言葉はまだ覚束ないので、こみいった話の時は、相手に触れる。お互いの魔素を交換しあうことで、相手の考えが分かるのだ。こちらの人間の身体の魔素はほんのわずかだったが、表層の思考を読むには十分だった。
「きれい。こんなきれい、見た。初めて」
「そうかい?…これは息子が小さなころから集めていたコレクションでね、たくさんあるんだ。この大きなやつはネックレスになっている。息子の形見なんだ」
「カタミ?」
「亡くなった人の持ち物のことだ。残された者がその人を忘れないように、大切に持っているんだ」
ふと思いついたというように、吾郎は続けた。
「そんなに気に入ったなら、全部ナナにあげよう」
ナナは驚いて、目を見開いた。
確かにどんな事をしても手に入れたい、と考えていたのだが、こんなにすんなりとくれるとは予想していなかった。
「欲しい、けど、ナナは吾郎さんにあげるものがない」
ナナの故郷では、魔素ですべて生成できるため、物の価値が薄い。だから、物をやり取りすることはほとんどないが、何故か無償で与えることは禁忌とされていた。価値観の崩壊を防ぐためであったかもしれない。
「どうして。何もくれなくてもいいんだ。ただ、私がナナにあげたいんだ。私の形見だと思って大事にしてくれよ」
こうして、ナナは水晶を手に入れたが、もちろん、身を飾るために欲しかったのではなかった。
水晶は魔素を貯める、容れ物になりそうだからだった。
ナナは今、吾郎に保護されて、当面の生活は安泰だったが、あの黒いケモノのことを忘れた日はない。明らかに、あのケモノはナナを狙っていた。あの濡れたような、一本一本が生きているように蠢く、ごわついた毛の、忌まわしいやつ。噛まれた足から、燃えるような悪意と執着が流れ込んできた。思い出すと、鳥肌がたつ。
ナナは飽きるまでは当面この世界で生きていくつもりであった。ここに比べれば、あの闇の世界は味気無さすぎる。しかし、その間ケモノに怯え続けるのはごめんなので、早いうちに始末してしまいたかった。
そのためには、どうしても魔素が要る。
どうやら、この世界は魔素が少ないせいか、誰もその存在を知らずに生活しているようだ。それならば、自分が活用させてもらうとしよう。
そのために、ナナは繁華街をうろつきはじめた。
人が多い場所には、魔素が溜まりやすい。これを、首にかけた水晶に少しずつ集めていく。気の遠くなるような作業だが、ナナは勤勉だった。
この世界の人々は、だいぶナナとは外見が違うようだ。そもそも自分の外見など、火の神に出会うまで知らなかったのだが。大抵の人はナナに気も止めないが、時々ナナを見て、ぎょっとしたように立ち止まる人がいる。ポカンと眺めてきたり、連れに何かわめいたり。挙げ句の果てに、何やら暴力的な行為に及ぼうとした人々には、直接体内から魔素を頂戴することにした。もちろん生命活動を停止しない程度に。
ナナは完全に体内の魔素をコントロールしているし、常に肉体を鍛え、健康を保っているから、危険はなかった。むしろ、彼の故郷には争いは存在しなかったので知らなかったが、好戦的なたちであったようだ。
ナナはわりと容赦がなかったので、血を浴びて帰宅することもあったが、それを見た吾郎がうるさいので、服を始末して帰ることを学習した。ナナは知るべくもなかったが、まるで悪さを覚えたばかりの高校生のようだった。
吾郎のことはよくわからなかった。
気まぐれに吾郎の心を覗くと、いつもナナのことを心配している。身の回りのこと、健康のこと、将来のこと。
よほど暇なんだな、と思っていた。
その奥に、いつも一人の青年の姿があったが、特に気に留めていなかった。
だが、ある日、吾郎が眺めていた写真が、その青年だったことに気づいて、聞いてみた。
「だれ。吾郎さん、見ている。写真」
吾郎はハッとした顔で、ナナを見た。
「私の一人息子だよ、アキラと言うんだ。前にも少し話したけれど、2年前に死んだんだ…自殺だった」
「じさつ」
ナナの認識では、不慮の死は滅多にないもので、長い生に飽きて自ら命を絶つ者は多くヒトビトの関心は薄かったので、吾郎の辛そうな顔は理解できなかった。
「ナナから見れば、自殺なんて贅沢なことだろうけど、どうしようもなかったんだ。とても辛い状況に置かれていてね。私も、助けてはやれなかった」
思わぬ事が起きた。
触れてもいないのに、吾郎の心が流れ込んできたのだ。
後になって考えると、頻繁に吾郎と魔素を交換していたため、見えない繋がりができていたのだろう。
吾郎の激しい後悔、後悔、後悔。アキラに対する謝罪、責任、ほんの少し恨めしい気持ち。
そして、父という言葉。
ナナにも父はいたが、顔も覚えていない。母も同じようなものだ。故郷では、子供を産むのは単なる娯楽や暇つぶしに過ぎず、出来たら排出する作業だ。ヒトビトは主に自分にしか関心がないのだ。
なのに、吾郎はアキラに対して非常に関心がある。それは執着にも似ている。すでに肉体は残っていないにもかかわらず。
その関心は今、ナナにも向けられていた。
どう受け止めて良いのか、分からなくてナナは狼狽した。
しかし、その後の長い穏やかな日々の間に、その不安は溶けていったようだった。
ある時、ナナは不穏な気配を感じ始めた。
あのケモノだ。
闇に潜んで、ナナを狙っている。
思ったより、落ち着いてその事実を受け止めた。
数々の喧嘩沙汰で、経験は積みきったし、魔素も充分に溜まっている。
それが油断を招いたのか。
なんとなく、まるで子供のように、吾郎の家には危険がないと思い込んでしまっていた。ナナは居間で吾郎と食後のコーヒーを飲んでいる時に、ケモノに襲われた。あっと思う間も無く、吾郎がナナをかばってケモノに食いつかれた。
ナナは激しく狼狽えた。
不思議なことに、ケモノも同じく動揺した様子で、逡巡した後、逃げ出そうとした。
今なら、魔素であいつを仕留められる。こんなチャンスは今しかないだろう。
しかし、体が動かなかった。
吾郎が血の海に倒れている。
どうしたらいいか、分からない。
涙というものが頬を流れていたことにも気づかなかった。
吾郎が朦朧としながら、言った。
「ナナ、怪我はないか。アイツが、まだ近くにいるかも…はやく、逃げなさい」
「吾郎さん、血が」
吾郎から、急速になにかが失われていく。
「今度は失敗しなかったようだ。もう時間が、ない。ナナ、元気でな。愛してる
…アキラ」
ナナは考える間もなく、水晶に溜まった魔素を吾郎に注ぎ込んだ。吾郎に触れて、狂おしいまでの息子たちへの愛情を感じながら、魔素を巡らせていく。
さらに自分の中から魔素を絞り出し、それも注ぎ込んだ。そんな事をしたのは初めてだったが、できる気がしたのだ。
きっと今、自分の思いが魔素とともに、吾郎に伝わっている。
ナナ自身、自分の思いなど、分からなかったけれど。
ナナは気絶した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます