第2話 小説家の話
どうしてこんなことになったんだ?
同じ気持ちに追い込まれた先人は数多くいただろうが、この状況は稀なものだろうな、と金刺吾郎は思う。
この中年一人暮らしであったはずの我が家に、客がいる。先夜、愛車である緑のスポーツカーで飛ばしたハイウェイで、拾った全裸の男だ。これだけでも異常な話だが、この男は空から落ちてきた上に、血だらけだった。そしてさらに理解しがたいことに、家に連れ帰った次の朝には傷はすべて塞がっていた。
目が覚めた男を前にして、吾郎は咳払いをした。
「君、やっぱり、訳ありなのだろうね。何も言いたくないんだろうが…聞かない訳にもいかないしね。どうして空から落ちてきたんだい?」
男はじっと吾郎を見つめてきたと思ったら、そっと吾郎の手を握ったので、仰天した。
「えっ?」
「ひっぱら、レタ?おちた」
「えっと…ウェア、カンフロム?」
「クニ、ココない。ちがう」
難民か、と吾郎は考えた。きっと難民同士の争いとか、出国のトラブルで、身ぐるみ剥がされ、怪我を負ったのだろう。深い同情がわきおこった。
それにしても、似ている。2年前に死んだ息子に。生き写しと言ってもいいくらいだ。
年の頃も同じくらいで、見た時には動揺してしまい、何も考えずに車に乗せてしまった。何も考えずに息子の使っていたベッドに寝かせ、何も考えずに朝を迎えた。
今初めて思考すると、厄介なことになったと気づいた。
「とにかく、何か食べた方がいいな。朝ごはんを作ったから…食べられないものはあるかな?宗教的になにか」
男はまた吾郎に触れてきた。二回目なので、予想はしていた。国の習慣なのか?
「食べる、したことナイ。マソ、ないから、食べる、する」
「マソ?君の国の主食かな・・・聞いたことないな。どういう食べ物なのかい」
「マソ、いのち。ミチている。ここ、ナイ。しぬ」
死ぬほど食べたいものとは、よほどおいしいのだろうな、と吾郎は思った。
「残念ながら、うちにはないと思うから、これを食べておきなさい。怪我はもう良いようだけど、かなり血を流したみたいだったから」
驚いた事に、男はスプーンも箸も使えなかった。それどころか、口で食べ物を咀嚼することすら、たどたどしかった。
「大変な国だったようだな。想像もつかない。苦労したんだな」
吾郎は思わず涙ぐんだ。まだほんの子供なのに、日本の高校生とは雲泥の人生を歩んできたのだろう。
男は口のまわりを盛大に汚したまま、きょとんと吾郎を見た。
「いいんだ、気にしないで、いっぱい食べなさい。おかわり、あるからね」
男がまたもや、そっと吾郎の腕に触れる。
その仕草は、子供のころの息子を思い出させた。
あの子は抱っこが大好きで、こんな風ににそっと私の袖を引いて、膝に乗ってきたものだった。
男はなるほど、という顔をした。
「だっこ?…コウか?」
「うわっ!」
突然、引き締まった硬い尻がのしかかってきたので、吾郎は思わず男を跳ねのけてしまった。
男は訳が分からない顔で、床に座り込んでいる。
吾郎はこの時に、なんとなくだが、違和感を感じたのだが、すぐに忘れてしまったようだ。
こうして、2人は暮らし始めた。
「ナナ、今日も出かけるのか?」
吾郎が見えない廊下に声をかけると、
「行く。渋谷、一人で大丈夫」
という返事がかえってきた。
ナナを拾ってから、もう二カ月はたつ。
最初は名前を聞き出すのも一苦労だったな、と吾郎は思い出した。名前を聞かれて彼は、「クチ、いえない。むずか、しい。イミ、お前ことば、七にんめ」
と答えたのだった。
吾郎はこれを、日本語の発音が難しい言葉で、意味は七人めの子供、というように解釈した。
「七人兄弟か、それはすごいね。一昔前なら日本にもたくさんいただろうけど」
「キョウダイ…同じハハ、こども?七人ない、50人からカゾエてない」
「ハハハ…50人はギネスものだね。テレビに出れるよ」
こんなやり取りから、彼をナナと呼ぶことにした。七郎ではあまりに古風だし、吾郎は小説家だったので、奇をてらった名前が気にいった。なにより、中性的で整った顔立ち、さらさらとした銀髪に、その名前は相応しく感じられた。
ナナの日本語は大分上達してきた。むしろ早すぎる気がしなくもない。最初のころのように、話す時にやたらと触ってくる癖も減ってきた。
ナナはとても素直で、嘘をつかない。
それでいて、国や家族の事をたずねると、太陽のない世界、食べなくても死なず、怪我や病気や犯罪もない、話さなくても心が通じる民族、という荒唐無稽な話が始まる。年齢はというと、こちらの時間で200歳ほど。あちらでは年齢を正確に数える習慣はないそうだ。
吾郎は最初こそ、変な笑いが出ていたが、今は半分真剣に聞いている。荒唐無稽な話ほど、小説のネタにはふさわしい。
最近、ナナは色々な所へ出かけていく。
渋谷やら、新宿やら、賑やかなところが好きなようだ。友達ができたのなら、喜ばしいのだが。ナナは普通だったら高校生くらいの歳の筈だ。祖国ではあり得なかった青春を、この国で過ごしてほしい、と吾郎は思っていた。
吾郎はここ何年かでもっとも心穏やかな日々を過ごしていた。
失った息子を、取り戻したような錯覚をしていたのかもしれない。
息子にしてやりたかった事を、ナナに与えていった。色々な所に行ったし、服を買ってやり、美味しい物を食べさせ、夜は星を眺めながら、たくさんの事を教えてやり、たくさんの話を聞いてやった。
ナナは優秀な生徒であり、優しい息子でもあった。
ナナは貪欲に知識を吸収し、身体を常に鍛え、食べ物に神経質であった。これは彼いわく、魔素によって保たれた健康を栄養によって補完するためということだった。意味は分からなかったが、吾郎は、出来る限りナナの希望を叶えてやった。
しかし、小説家という職業柄なのか、吾郎はナナには大きな欠乏があることに気づきつつあった。ナナには強い感情が存在しない。
吾郎が笑えばナナも笑う。吾郎が指を切れば、心配そうな顔をする。しかし、それらはナナの学習の結果なのだ。
なにかを強く欲しがる、愛する、激しく憎む…そんな感情を、ナナは最初から持ち合わせていなかった、というより、存在すら知らなかったような節がある。
これはナナを健全に育成するのに、弊害となるのでは、と吾郎は心配し、知り合いのカウンセラーに見せたこともあったが、成果はなかった。
もう認めよう、と吾郎は思った。
どういうわけか、私はナナを家族として愛している。息子への贖罪であるかもしれないが、構うものか。ナナが私をどう思っているかは知らないが、私は死ぬまでナナを見守り続けよう。
そして、ナナが苦しんでる時には、一緒に苦しみ、自分を犠牲にしても助けてやるのだ。息子にはしてやれなかったことを、今度こそ。
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