26:呪魂討滅
――セイタン・ロベイル。
その伝承は、イングランドのものではなかった。
発祥の地はノルマンディー。世継ぎを得られない事に絶望した公爵の妻が、祈りを聞き届けてくれない神に見切りをつけ、悪魔に縋った所からこの物語は始まる。斯くて呪いによって生まれでた嬰児は、乳母の髪を契り、教師を殺し、暴虐の限りを尽くす悪党として育っていった。――確か物語の終焉では、紆余曲折を経て改心し、最後は聖人として天に召される筈だったが……
少なくとも、ジルの眼前で悪態をつく黒尽くめの男は、そんな伝承の結末とは真逆の、現在進行系の悪漢である。恨みつらみも何の目的もなく、ただただ少女を無碍に殺そうとする。そんな悪逆を目の前に、ジルの怒りは沸騰寸前にまで滾っていた。
「なるほど。よもやフランスに端を発する化物だったとは。下賎め、嘆かわしい」
履いて捨てるように告げ、ジルは剣を抜きロベイルを見据える。
「ハハハ。今じゃあフランスの領土ですらないってえのに、随分と横柄な
笑いながらダガーを捨てたロベイルは、ようやっとここで鞘から剣を抜く。どうやらこちらが本命らしい。
「手加減はしなくていい。来い外道。誅伐は神ならず、私が下す」
「あたりまえじゃねえかッ!! お互い神畜生に見捨てられ、神畜生を見捨てた外道同士だッ!!!」
気勢そのままに突っかけるロベイル。粗野な物言いとは裏腹に、直突きから間髪入れず横薙ぎを入れる正確な剣さばき。騎士殺しの噂やさにあらんと、ジルは躱して態勢を立て直す。
「へえ、ウェールズの大将に聞いた通り、アンタはもうこっち側って訳か」
初撃が不発に終わった事に些かの怯えも見せず、ロベイルは余裕の笑みを湛えている。だが少なくとも、こうして剣を交える限りにおいては、先刻上階で感じたほどのプレッシャーは見て取れない。
「同じ括りにされるのは腹ただしいが、血と肉と罪で彩られているという意味合いにおいて、私も貴様も、なるほど同じ穴の狢なのだろうよ」
間合いを図りながら言葉を返すジル。ロベイルは傑物である事に相違はなかろうが、少なくとも今の自分の手に余る相手ではない。そう判断したジルは、幻影でフェイントをかけると、ロベイルの背後からいっときに攻める。
「ぬおっ……ここまでやるかよッ!!」
虚を突かれたのか、ロベイルは軽口もそこそこに身をひねる。辛うじて避けはしたものの、外套の端は切れ、横腹からは血が滴っている。
「私にも時間がないのだ。手早く貴様を闇に葬り、総大将を討ち果たさねばならん」
剣先を振るジルに、脂汗を垂らすロベイルが応じる。
「おいおい、アンタ風情がウェールズの大将を仕留めるって……ハハハ、冗談にしちゃあ笑えねえ。まったくフランスの貴族ってヤツは、脳みそまで湧いてやがるのか?」
言うや肩を震わせるロベイルは、自らの血で頭髪を整え直すと、不敵な笑みに戻って告げる。
「ならせめて、この姿になった俺を倒してから、その妄言を吐くこったなあ!!!」
その瞬間、ジルの眼前で巻き起こったのは、俄には信じ難い出来事だった。外套を、シャツを、その他全ての装飾具を引きちぎり、ロベイルの身体は巨大な悪鬼に変貌したのだ。それは聖書や絵画に記されるような、角を持ったデーモンさながら。翼をはためかせるロベイルは、突風を散らしながらジルへ向かってくる。
「なんだとッ!!!」
「ひょろっちい人間風情が、俺の戦闘形態な訳ねえだろうがッ!!」
既の所で躱すジルだが、背後の石柱は無残にも崩れ去っている。衝撃で言えばゲクランのそれと同格か、或いはそれ以上。
「ただの木っ端ではないという事か……!!」
ジルは立ち上がりながら、これからどう動くべきか一考を巡らせる。ロベイルの吶喊は確かに恐ろしい。直進であるぶん、ゲクランのフレイルより動きも早い。だが猪突猛進であるがゆえに、動きは単調そのものでもある。慣れさえすれば、打開の糸口は見いだせるように思えた。
「当たり前じゃねえか。こちとら曲りなりにも
人語の体をなしてはいるが、聞き取りづらい、低くくぐもった声。悪鬼そのもの形相で振り返るロベイルは、さらなる一撃を加えようと突撃の態勢を取る。
「ウェールズの大将には、挨拶程度で済ますように言われてるが、こうも一張羅を台無しにされちゃ黙ってられねえ。大人しく死ねや!! さっきのガキと一緒によおッ!!!」
突撃に対する、幻影からの背後。ジルは冷静に人外の理力を用い、ロベイルの頭上からの一撃を試みる。ゲクラン戦では傷を負ったが、あれから幾らかは強くなっている筈だ。――仕留められる。そう確信したジルではあるが。
「甘えよ!!! 同じ手を二度も食らうかッ!!!」
咆哮と共に迎撃するは、伸びたロベイルの尻尾だった。固く靭やかに振れる、さながらにフレイルは、ジルの胴体を捉えると、数本先の石柱まで吹き飛ばした。
「うぐっ……!!」
さっきのラスタと同じ状況だろうか。だが鎧と受け身が間に合ったおかげで、致命傷には至らぬままジルは身を起こす。流石に尻尾というのは計算外だった。こいつを踏破しない限り、どうやら次の手も見えてはこないらしい。
「おうおう万策尽きたか? お前だって化物の端くれなら、再生し变化し、でかい図体晒してかかってこいや。それが出来ねえなら半端ものだ。人を捨て化物にも成りきれなかった哀れな贋物は、今ここで俺が処分してやる」
見下し、そしてせせら笑うロベイル。既に次の突撃態勢には入っていて、策を講じねば二の舞いになる事は必至だった。戦う他は無い。そう自らを鼓舞し、ジルはもう一度反撃を試みる。
「芸のねえ野郎だな!! 同じ手ばかり何度も何度も。そんなに死にてえか??!!」
案の定飛んでくる尻尾。だがフレイルと思えば軌道は読める。ロベイルの捨てたダガーを刺し、くるりと一回転したジルは、その尻尾の上を走りながら頭上を目指す。
「ちっ、こいつッ!!」
不愉快そうに舌打ちするロベイルが、振り落とそうと飛び回るが、その程度で落ちるジルではない。二本目のダガーを足場とし、ロベイルの頭上に斬りかかる。
「!?」
だが一撃を加えようとした所で、狙いすましたかのように頭から伸びる槍が迫り、ジルは半身をひねりながら旋回し、これを躱す。
「ぐおッ……畜生、痛え……この俺が出来損ないごときに……」
ジルが拾っていたのは、ロベイルの捨てたダガーだけではない。ロングソードも合わせたジルは、二刀流の態勢で遠心力を利用し、ロベイルの横顔をズタズタに切り裂いたのだ。
「だ、だがこれで打つ手は無いだろう。ハハハ……この槍は俺がまだ人間だった頃の名残でなあ。馬上仕合で雑魚騎士どもを殺しまくった曰く付きの代物さ。こいつでお前の腹をえぐるってのも、中々に楽しそうだなあ!」
右頬をさすりながら、もう一度突撃の姿勢を取るロベイル。癪には触るが、確かにロベイルの言うとおり、ジルに残された選択肢は限りなくゼロに近づきつつあった。利用し得る敵方の武器は使い尽くした後だし。弱点と思っていた頭には、迎撃用の槍が仕込まれている。しかしてさりとて、このまま直撃を受ける訳にはいかないと、ジルが同様の策を巡らせた時、聞き慣れた声が城内に響いた。
「陛下!!!!」
迫るロベイルの、死角となった横っ面から突撃する一陣の影。唸り声と共に狼の牙がロベイルの片腕をえぐり、その隙に飛び乗ったラスタが、ロベイルの右目に松明めいたものを突き立てる。
「ぐがああああああッ!!!??」
すると今までにない悲鳴を上げたロベイルが、血反吐を吐きながらのたうち回る。振り落とされるラスタを抱え、着地を果たすジルの耳元で、力なくラスタが囁く。
「よかったです……間に合って……陛下」
「なぜ戻ってきた……こんな身体で……!」
助けられた事実は事実としても、そしてマナによる再生が行われているにしても、今のラスタは酷い有様だ。骨は随所がひび割れ、片腕は切り落とされている。そんな有様でよくもこんな化物と相見えようとしたものだと、ジルは思う。
「アラスで手に入れた
ぜえぜえと息を吐くラスタに、マナを塗ろうとジルは試みる。だが袋は空っぽで、欠片すらも出てきはしない。
「ラスタ……マナはどうした?」
「あはは……使い切っちゃいました……すいません……陛下」
青白い顔で微笑むラスタ。しかしてそんなラスタを気遣う間もなく、痛みに打ち震えるロベイルが、憤怒の表情でこちらを見下ろす。
「畜生……ッ!! 聖遺物か……!!! くそっ……こんな、こんな人間ごときに、俺が、俺がッ!!!!」
そしてつっかかるクルトーを忌々しげに足で払い、ロベイルは踵を返し空へ飛び立つ。
「決着はお預けだ……!!! 次に会った時は必ず、必ずお前らぶち殺して、豚どもの餌にしてやる!!!」
斯くて轟音と共に崩れ落ちる天井。いっときに差す落日の中に、ロベイルの巨躯は飛翔していく。
「待てっ……ちっ、このままでは……」
だがラスタを抱きかかえたまま煩悶とするジルを他所に、ラスタは落ち着いた表情で口を動かす。
「大丈夫です……陛下。外にはリッシュモン卿の……」
斯くてラスタの言葉を遮るように響く轟音。走り寄るジルが眼下に見たのは、城を取り巻くように配備された砲台の一斉放射が、アリスの結界で足を阻まれたロベイルを、狙い撃ちにする様だった。
「グゴオオオ!!!!」
血を散らしながら喚くロベイル。さしもの悪魔と言えども、弓や剣の比ではない科学の粋を前には、致命傷を負う事は避けられない。
「砲兵隊か……」
「はい……リッシュモン卿が、指揮を執って下さいました……」
曰く、一旦場外に出たリッシュモンは、手勢を率いて突入するか、城外に布陣するかで一悶着あったらしい。そこで響いた城内の奇声に機転を効かせたリッシュモンが、急遽城を取り巻く形で布陣を取り直したのだそうだ。――最も、そう説得したのは、渾身の突撃を一手に引き受ける、ラスタ・オルフェ本人らしいが。
「貴様らアッ!!! 人間の分際で、悪魔、悪鬼たる、この俺にイイッ!!!
だが幾ら叫ぼうとも、この状況でロベイルに打つ手のある訳もない。絶叫の残響を残すロベイルが、踵を返し城へ戻ろうとした刹那、ラスタを抱え跳躍したジルの一閃が喉元を切り裂き、恐るべき悪魔は地上に堕ち落命した。
「――待っていろ、ラスタ……すぐに治療して貰う」
「そんな事より……陛下、早くヴォート・グレイルの下へ向かわなければ……」
外では歓声が湧き上がる中、今わの際のラスタを抱いてジルは語る。だがこの期に及んでフランの心配をするラスタが、取り付く島もなく弱っていく。
「馬鹿を言え……お前を置いていけるか……くそっ……何か手は……」
ここにフランがいれば、何か妙案も浮かんだのだろうが、悲しいかな一介の騎士でしかないジルには、皆目見当のつきようもなかった。
「……でしたら陛下……私を、陛下の眷属にして下さいませんか……?」
そう微笑んで囁くラスタに、ジルははっと気が付かされる。そう、吸血鬼として力を得た自分であれば、ラスタを眷属して延命する事が出来る筈だ。
「いいのかラスタ……本当に、それで」
「はい……それにもし失敗しましても、陛下の一部になれるのであれば、それは、それで、幸せな事ですから……」
生者と死者の境界線で笑みを零すラスタを、今一度強く抱きしめたジルは、その喉元に歯を突き立てる。これまで血を吸った人間は尽く餌として処理してきた手前、眷属を作るという試み自体が、上手く行くかは賭けだった。だがそれでもやる他はないと自らに言い聞かせ、ジルはラスタの生き血を啜っていく。淀みなく鮮やかで、極上のワインのように喉を潤すラスタの血に、ジルは暫し、感嘆の溜息すら漏らした。
「あっ……ああっ……んっ……陛下……」
残された右腕に力を込めるラスタは、びくりと痙攣したのを最後に、返事もなく動かなくなる。不安に駆られたジルは、その身体を揺り起こしラスタの名を呼ぶ。
「ラスタ……!! おい、返事をしろ、ラスタ!!!」
「ん……お義父さん……私……好きな人が……陛下……むにゃ……」
「……」
どうやらそれが寝言なのだと悟ったジルは、ラスタの存命にほっと胸を撫で下ろす。ラスタの身体をクルトーに預け、こうなれば向かうべきは最上階、フランとブラック・オブ・ウェールズの待つ王の間以外には無い。走り出すジルの背後で、今一人の少女が死に、一人の化物が生まれていた。
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