14:紳士豹変

 ラスタは駆けていた。十年に及ぶ乙女の冬眠が、今まさに目覚めるのを感じながら。顧みればあの日、義父ジシュカを看取ったあの日から、ラスタの女は深い眠りに落ちていた。無論、生殖行為そのものと無縁だった訳ではない。集団の母体足り得る年齢に達した時点で、その為の役割は否応無しに回ってくる。子を産み育てる機構としての、単純で退屈で、戦士としての職分を過分に侵す愚行。だがまぐわいを求められ応じる間も、確かにラスタの中の牝は死に絶えていた。理想も無く、狂気も無く、ただただ我欲に盛るだけの哀れな個体。ラスタの目に映る無数の雄は、取りも直さず、そういった有象無象でしかあり得なかった。敬愛せしヤン・ジシュカのような、寄り添う女すら一顧だにしない狂信。何かたった一つの目的の為、自身の身体すらも手段としか認めない挺身。その、目の前に立つ女の遥か彼方を見通すような人外の眼を、既に知り、そしてそれに恋い焦がれてしまったラスタにとっては、人として望まれる肉と肉の営みは、全てが色褪せて見える代物でしかなかった。


 それが、それが。出会ってしまった。亡父の面影を残す、今を生きる男に。ジャンヌ・ダルクという聖女の為に全てを捧げ、その為に邁進する悪鬼のような男に。神を許さず、人を蔑み、自分自身を最も憎む惨めな男に。或いはそれは、ラスタの合わせ鏡そのものかも知れない。全てを憎み恨み詰って、さらにそのうえ許しがたかったのは、他ならぬ自分自身だ。愛する者を救えもせず、ただただ連綿と老い、世俗の行為に身を穢していく私そのものだ。ああ、かくまでも自らを許せぬ男の側で、そんな事はないのだと囁いて抱きしめてやりたい。そして何時の日にか、自分自身が許されるであろう日を希いたい。ラスタの胸は咽びときめきながら、ジルの部屋へのステップを駆け上っていた。フランから聞く限りにおいて、または自称する限りにおいて、彼は既に人外の魔の者だという。だが見るがいい、あの優しく、憐憫に満ちた紳士的な眼差しを。――慰めなければ、私がそれに能う者なら。認めてもらわねば。私がそれに値する者だと。


 胸も尻もはだけそうなメイド服の上から、白銀の鎧を纏い、よしんばこれに彼が欲情し、押し倒され犯されるならそれも善しと覚悟を決める。最も幾分かの冷静さを取り戻し鑑みれば、彼の側に在る女性は須らくが色白という一点だ。かの聖女も、かの錬金術師も、かの従者も、皆が皆透き通る程に肌が白い。果たして異族の子たる我が土色の肌が、陛下のお気に召すものかどうかと案じながらも、猛る気持ちだけは抑えられずにラスタは立つ。――このドアの向こうに彼が居るのだ。新たなる主君、私の陛下が。そう思えば端なく濡れる股間は如何ともし難く、これ以上は我慢が出来ぬとばかりにラスタはドアを叩く。




「――フランか?」


 かくて低く響く心地よい声。子宮が揺らめくのを感じながらラスタは返す。


「いいえ、ラスタ・オルフェです。陛下に剣の稽古を付けて頂きたく、参りました」


 本当はお◯んこしたい。獣のように盛り合いたい。繁殖期の犬のように舌を出し荒い息を吐きながら、さりとて辛うじて人の皮を被りラスタは待つ。


孤児オルフェか。入るといい。鍵は空いている」

「失礼いたします」

 

 ギイと開くドア。月経を百回も練り合わせたような、むせ返る程の血の臭い。その事に今は歓喜を覚えて、ラスタは部屋に足を踏み入れる。――ああ、此処この空間には、陛下と私の、二人きりしかあり得ない。感嘆を胸に、ラスタはジルを見据える。


「珍しい客だ。ここに来るのは大概がフランくらいなものだが」

「そのフラン様から教えて頂きました。本日はオーグル公の手が空いていないゆえ、陛下を頼れと」


 目の前に立つのは、長身痩躯、黒鉄の鎧を身にまとう吸血鬼。血の気も無い青い顔に浮かぶのは、されど自愛に満ちた眼差しだ。――この男が魔の配下であるなどと、その血の臭いを嗅いだとて俄には信じられまい。


「……ところで、だ……オルフェ。その鎧は……」


 しかしラスタの姿をまじまじと見つめた所で、男、すなわちジル・ド・レの反応は明らかに異を来す。戸惑ったような表情で、額には脂汗すら見て取れる。これは如何とした事か。


「は、フラン様より賜りました。この他に過分なお給金も……何から何までご高配を賜り……」

 

 と、そんなジルを些か訝しみつつも、ありのままを話すラスタ。するとジルは、いつも通りの口調で返事をする。だから気のせいかも知れないと、ラスタはほっと一息をつく。単に眼とま◯こが曇っているだけのだと。


「そうか……私の剣技は、ゲクラン公より一歩は劣る。それでも、より人に近い身であればこそ、幾らかの参考になる点もあろう。構え給えオルフェ。傷がつかぬように、踊るように優雅に致す」


 そんな気遣いはご無用でございます。そう返しラスタも剣を構える。長剣は、敵から鹵獲したケースを想定して訓練を受けている。幼少の頃は重く感じたソレではあるが、今となっては自身の腕のように動いてくれる。ならば十分だと言祝ぎながら、ラスタは剣撃の一歩を踏み出す。


「いい踏み込みだ。だがやはり、騎士としては軽いな」


 だが眼前で揺らいだのは蜃気楼か。ゆらりと消えたジルの剣先は、次の瞬間にはラスタの首元を捉えていた。


「なっ?!」


 戸惑い、後退するラスタ。いかに飛燕の如き剣の使い手でも、ここまで速く動く様は見たこともない。あまつさえ相手は、重い鎧に身を固めた重装の騎士である。


「反応も悪くはない。人間にしては上出来だ。それだけ美しい首筋なら、つい齧り付きたくもなる所だが」


 笑いもせずに告げるジル。ここに至ってようやっと相手の超越性を理解したラスタは、これが敵でなく良かったと胸をなでおろす一方、一層に興味を惹かれ堪らなくなった。


「お戯れを! 参ります!」

 

 なんとしてもこの主に認められたい。そう意識を張り詰め、渾身の打撃を加えるラスタ。だがやはり空を切る剣先。今度はジルが軽く払った足に、ラスタは見事に引っかかって転倒してしまう。


「力み過ぎだオルフェ。冷静に見極めれば、剣筋ぐらいは捉えられる筈だぞ」


 大股を開きコケたラスタは、はしたなくもショーツをはだけさせたままジルに見下される。だが悲しいことに、ジルの瞳には欲情の炎も無ければ、手を貸すという哀れみも見て取れない。――否、そのような情婦匹夫めいた発想が、この惨事を生み出しているのだ。ラスタは自ら頬を叩き、交尾前の牝に成り下がっていた自身を戒める。


「失礼いたしました。もう一度お願い致します。私はまだ、ここで見捨てられる訳には行かないのです、陛下」


 剣を構え直し、精神を統一する。何のために此処に来たのか。つがいを、花婿を探しに来たのか。――否、愛する尊父、ヤン・ジシュカの復活の為だ。それを端なくも私椴しとどを濡らし、一夜のまぐわいを夢見るなど何たる醜態か。終われぬ。終わる訳には行かぬ。ジシュカの残した「孤児オルフェ」の名を、こんな所で穢す訳には行かぬ。


「ほう、多少は気合が入ったようだな。では行くぞ。受けてみよ」


 振り下ろされる剣閃。見えずとも、感じる事は出来る。風圧から剣筋を予測し、応じるように躱す。この力量差だ。受ければ負ける。ならば避けきる他はない。


「やはり。見込んだ通りの女だ。私のこれを躱せるのなら、並の兵士なら難なき事よ」


 やっと褒めて貰えた。その事に幾ばくかの安堵を覚え、剣を避けきったラスタは、バック転で間合いを取った。


「お褒めに預かり光栄です、陛下。ですが私もまだ終われません。――前へ、前へ前へ前へ。いざ、ラスタ・オルフェ、推して参ります!!!!」


 言うや突っかけるラスタ。だがその瞬間、今まで感じた事の無い寒気が背筋に走り、ラスタの動きが僅かに止まる。


「ッ!?」


 剣は弾け、身体が宙を舞う。何事が起こったのか煩悶とする間も無く胸当てが剥ぎ取られ、破れた服の隙間から乳房が飛び出る。


「――ジャンヌ」


 低い低い、地獄の底から響くような声が聞こえた。赤い目が見える。いつもの碧眼では無い、赤い赤い目が。人外なるもの、人を食らう者。吸血鬼、ヴァンパイア。


「ひっ……」


 寸時、犯されるでは無く、殺されると感じたラスタは、くぐもった悲鳴を上げた。腹部に鈍い痛みを感じ、胃の中身が遡って逆流する。首にかかった手がきりきりと締まるのと共に、命の灯火が掻き消えて行くのが分かった。


「前へ……ジャンヌ……そう、前へ……」


 何かをうわ言のように呟きながら、豹変したジルが下腹部を弄る。スカートが引きちぎられ、秘部が俄に露わとなる。


「が……がはッ」


 だが拒絶も抵抗も出来ないまま、ラスタの身体が蹂躙されようとしたその時。不意に手の力は緩まり、嗚咽と共にラスタは解放された。


「おえッ……えッ……」


 転がってえずくラスタ。その上で、覆いかぶさっていたジルは、自身の顔に手を当てて、荒い呼吸を繰り返している。


「ハァ……ハァ……逃げ……ろ、オルフェ……」


 何かと葛藤するような、息も絶え絶えの声。ラスタは薄れ行く意識の中で、辛うじてジルの表情を見て取った。


「君は……ジャンヌでは、無い。ラスタ・オルフェ。私の客人。優秀な暗殺者……ジャンヌでは、無い」


 誰かに語るのでは無く、自らに言い聞かせるような声。しかしどんな指示を賜わろうとも、傷ついたラスタは、身動き一つ、取る事は出来ない。


「すまない……ジャンヌ……私は……また……」


 ラスタが逃げ切れないと悟ったのか、じりじりと後退を始めるジル。壁に付けられた手枷にまで移動すると、そこに自らの手を括り付けて言い放つ。


「すまなかった……ラスタ・オルフェ。行きなさい。医務室で、治療を……そして、二度と、白銀の鎧を纏って、私の前に現れぬよう……」


 青白い顔で、脂汗を垂らしながら言葉を選ぶジルに、こくこくと頷きながら、やっとのことラスタは這いずる。這いずって這いずって、ドアから外に、転げ落ちる。




「えう……ああ」


 呻き声と共に、涙が溢れる。怖かったからでは無い。あれだけ抱きしめようと誓っていたのに、こうして逃げ出した自分自身が余りに無情で、その非力に対して泣いたのだ。アレは確かに化物だった。人の手には余る怪物だった。そんなものの隣に在れると、浅はかにも信じ込んだ自身が愚かだった。泣きながら剣を杖に、ふらふらと立ち上がってラスタは歩いた。もうこれ以上、醜態を晒すのは御免だった。女としても、戦士としても。だからラスタは、足を引きずってその場を去った。

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