07:宿業両断

 目の前に、疲れきった男が居る。愛する者を奪った怨敵がいる。窪んだ眼窩に、隈の残る眼を泳がせ、哀れに惨めに、これから狩られようとする命は、声を上げる。


「誰か、誰かいないかッ!!」


 振り絞られる声。追い詰められた鼠の、最後の悲鳴。だが悲しい事に、ここへ来れる者は誰一人としていない。なにせ皆が皆、既に物言わぬ屍に変わり果てているのだから。


「誰も参りませんよ、ベッドフォード公。ルーアンは我々が制圧しました。近衛兵も衛兵も、死に絶えて久しいといった有様です」


 これ見よがしに頭を垂れ、状況を説明するジル。住民が寝静まっている間に、治世を司るだけの機関はとっくに潰した。雑兵は残ってはいるが、出張った所で状況を立て直すだけの力は有りえない。


「ジル・ド・レ……ラヴァル公……聞いたことはある……だが一介の貴族に過ぎなかった筈……なぜ、なぜその者が、ここに」


 脂汗を滲ませながら、されど辛うじて指導者の面目を保ちながらジョン・オブ・ランカスターは返す。私怨の対象ではあるにせよ、それでも本国を離れ、敵地の只中で辣腕を振るってきた才覚だけは、ジルをして認めるに吝かでない。


「そうですなあ。説明には窮する所でありますが、敢えて申し上げるのなら、公らの言う魔術や呪術の類にはなろうかと」


 聖なる力の真逆で以て強化されし自らの膂力を、剣の一振りで示すジル。入り口に飾られていた石像が一瞬で細切れになり、音を立てて崩れ落ちる。


「ひィッ!?」

 

 どうやら公は、神ならざる者の類に酷く怯えているらしい。かつては仏領の大半を蹂躙した歴戦の勇者も、追い詰められた現状ではこの程度かと内心でほくそ笑み、ジルは続けた。


「今日はそう、ベッドフォード公。一つ申し開きがあって参ったのですよ。公らがあれだけ腐心して火炙りに処したジャンヌ・ダルクですが、アレは、アレは魔術の使い手では無かったのです」


 クククと冷笑を浮かべるジル。最も裁判の無効が聞き届けられたとて、全ては遅きに失する訳だが、茶番としては相応しいだろう。


「私は、ジル・ド・レは。神が彼女を救わぬから、悪魔に魂を売ったのです。アレが卑属なる魔術の類でありましょうか。知っていたのでしょうベッドフォード公も。ゆえに恐れた。恐れてそして、踏みにじろうと考えた」


 一歩ずつ近づいていくジルに、ふるふると首を振ってジョン・オブ・ランカスターは後ずさる。


「無慈悲なる神は救わなかった。かの信仰を。かの愛を。かの秘蹟を。ゆえにならば、私こそがそれを覆しましょう。そしてその為には、先ずフランスの平定が何にも増す優先事項です」


 ジャンヌの死によって終わった公の悪夢は、それからずっとジルを苛んで蝕み続ける。終わりにしなければならない。悪夢も災禍も、来るべき時、来るべき日に。


 「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく。我らの罪をも赦したまえ――」

 ジャンヌが最後に告げた言葉を、今際の際の将に告げる。ようやく諦めきったのか、男は蛇に睨まれた蛙のように、縮こまってもう動きはしない。


「許して……くれるのか?」


 ぼそりと呟くジョンの首が、次の刹那には飛んで血しぶきをあげる。赤い花を咲かせ部屋中を彩る鮮血に、背を向けながらジルは独りごちる。


「そう言ったでしょうな。あの聖女なら。ジャンヌ・ダルクなら。だが私は違う。許せぬからここに居る。あなたも、神も、人も、自分すらも許せぬからここに在る。私は私の罪を赦さない。誰の罪すらも赦し得ない。怨敵の一切合切を土塊に変えるまで、私の歩みは止まらないのですよ、ベッドフォード公」


 血の付いた足跡が転々と続く中、背後にジョンの遺骸だけを残して、ジルはルーアンを後にした。1435年9月14日。イングランド軍総司令官、護国卿ジョン・オブ・ランカスターは、このようにして生を終えた。

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