06:怨嗟轟々

「物見より賊の侵入ありとの一報。陛下はこちらにてお控え下さい。私が状況を見て参ります」


 そう告げて出ていったきりの近衛兵は未だに帰らず、少し響いた声を残して城内は静まり返っている。かくてジョン・オブ・ランカスター護国卿は、禿かかった頭を掻きながら身を起こし、遠く空に浮かぶ三日月に視線を移す。


 為すべきことを為し、ようやっとここからという時に入る瑣末さまつな邪魔。だが瑣末だと断じていたソレは、たかが焚き火が山火事を齎すように燃え広がり、気がつけばジョン・オブ・ランカスターは、戦争責任をすら問われかねない窮状に追い込まれていた。


 ――ジャンヌ・ダルク。忌まわしき魔女。幻術、妖術、呪術の使い手。アレさえやって来なければ、オルレアン包囲は過分にして成功し、今やシャルル七世も虜囚か、或いは既に世に亡き者となっていたに違いない。ブルゴーニュとの関係も恙無く、それはとどのつまり、イングランドによるフランスの全面征服を意味する偉業として物語を終えていた。本国の行政を司る愚弟グロスターに、イングランドを統べる自身の辣腕。而して思い描いていた未来予想図は僅か一夜で塗り替えられ、欧州に取り残された布切れのような領地に閉じこもって、ジョン・オブ・ランカスターは来たるべく時を待つほか無い。

 

 来るべき時。すなわち本国からの招致、弾劾、失脚、幽閉。かつての同胞たる主戦派からも非難の矢が飛び始めた以上、我が身の栄誉もここまでかとジョン・オブ・ランカスターは歯噛みする。


 思えば勝つ機会は幾らでもあった。十年前のヴェルヌイユもその一つであろう。同盟国のスコットランド軍すらも完膚なきまでに打ち崩し、完勝と呼んでいい戦果を生んだ激戦。しかして資金不足という馬鹿げた問題で進軍は頓挫し、勝利を有益に活かす事が出来なかった。


 それでもなお不屈に邁進し、小さな勝利、大きな勝利を積み重ねてここまで来た。あと一歩。せめてあの包囲戦、あの魔女さえ現れなければ。全ての怨嗟はそこに収束し、かくてジョン・オブ・ランカスターは、寝なおそうとコップの水を飲み干す。




 さらに腹ただしい事に、北東の地アラスでは、自分を差し置いて和睦の儀が執り行われていると聞く。その中にはかつて袂を分かった盟友、アルテュール・ド・リッシュモンも加わるらしい。あの日手なづけ損ねた犬っころが、跳ね返って牙を剥く喜劇。まったく泣きっ面に蜂だとジョンは視線を落とし、コップの水面に映る三日月が、自らを嘲っているかのように思えて床に叩きつけた。


 誰も彼も私を嘲笑うのか。故国の民も、領民も、臣下も、何もかもが。ジャンヌ・ダルクを焼き殺せば済むと思った悪夢の全てが、何一つ終わらぬまま今日まで身体を蝕み続けている。運命の女神から見放されたようにイングランド軍は敗北を重ね、聖女を喪った筈のフランスは、意気軒昂に結束しパリへ、そしてルーアンへ近づきつつある。


 足音が聞こえる。ずっとずっと足音が。敵兵の、これまで殺したフランス軍の、或いはスコットランドの、或いは魔女の。今にも眼前に佇み、怨讐と鉄剣を振り下ろそうと身構えている。そんな筈は無いのに。あり得ないのに。亡霊の妄執に取り憑かれたように、ジョン・オブ・ランカスターは隈の残る目で周囲を見渡す。


 ドアが開いている。近衛兵が戻ってきたのだろうか。だが声は無い。人の気配も無い。窓が開いている。さっき閉めた筈なのに。風がカーテンを揺らし、室内に月光が漏れている。影がある。佇んでいる。何だあれは。背筋が凍る。青白い顔の、やせ細った影。黒い鎧の騎士。だが滴っているのは、血。赤い血。いや赤黒い血。それが床にシミを作り、騎士は微動だにしないままこちらを睨んでいる。




「誰だッ!?」


 数秒の思考から解き放たれたジョンは、怒声と共に男を見やる。長身痩躯、長髪で色白の騎士は、呼ばれて初めて剣を抜くと、恭しく一礼した。


「お初にお目にかかります。ジョン・オブ・ランカスター護国卿。私の名はジル・ド・レ。かつて閣下に、一人の聖女を奪われた者にございます」


 ここでもその魔女の名が出るのか。滴り落ちた冷や汗に狂った微笑を滲ませ、ジョン・オブ・ランカスターは、自らに死期の迫りつつある事を悟った。

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