二章:蘭西奪還

00:月下再会

 目が醒める程の煌々たる月を夜灯に、騎士は物思いにふけっていた。それは煩悶はんもんや葛藤というよりは、かねてから決めていた計画を、単に実行に移す前の瞑想めいそうに等しい。数多の苦難と茶番を乗り越え辿り着いた今日が、せめてあの少女のへの手向けになればいいと願って止まない……或いは祈りとでも呼ぶべき代物しろものだった。


 この騎士の名はアルテュール・ド・リッシュモン。フランス軍大元帥でありながら、シャルル七世との不仲から僻地へきちへと追いやられ、ランスの戴冠式たいかんしきにすら顔を出せなかった不遇の将。――而して運命とは奇異なるモノ。かの聖女ジャンヌ・ダルクの処刑によって芽生えたシャルルへの反感は、この武人を再度政治の表舞台に立たせるように風向きを変えた。斯くして「義人」とまで讃えられた実直な……或いは頑迷な武将は、反イングランドの先鋒として指揮を執るに至る。


 ゆえにかかる皮肉をリッシュモンが嘲笑あざわらうのも、至極当然の事と言えた。あれだけ東奔西走とうほんせいそうした所で纏め上げる事の出来なかったフランスの民草を、ただ一本の戦旗の下に集わせた少女、ジャンヌ・ダルク。――本来であれば彼女こそが栄光を戴くのに相応しい筈なのに、自分はこうして、餌を掻っさらうハイエナのように、戦果だけを得ようと剣を抜いている。


 自らを栄えある騎士だと自認するリッシュモンにとって、これが惨めで無くして何であろうか。だが如何に惨めであったとて、アレの願いは果たさなければならなかろう。今ここで尻尾を巻いて、あまつさえイングランドに国土を蹂躙じゅうりんされる訳には行かない。――拳の一握いちあくに残る、僅かばかりの挟持きょうじを握りしめて、そうリッシュモンは一人頷いた。


 思えば英雄と匪賊、或いは聖女と魔女の差異は、コインの裏表の様に表裏一体ひょうりいったい。時代の天秤が表と囁やけば忌憚なき英雄で、裏だと断じれば道半ばにて死に絶える。――いやいや、仮に覇道を成したとしても、もう一度コインが裏を示せば、やはり悪としての糾弾きゅうだんは免れ得ないのだ……かつて窮地きゅうちに追い込まれたフランスにしてみれば、ジャンヌは確かに救国の聖女だったろう。逆に追い立てられるイングランドからすれば、ジャンヌは魔女以外の何者でも無かった筈だ。そして聖女としての権勢を示しすぎたジャンヌは、フランスの宮廷からして見れば、恐れるに足る政敵へと変容を遂げたのだ。




「時代……か」

 だが独りごちるリッシュモンは、その弁明を苦々しげに吐き捨てると、目をそらす様に空を見上げる。遥か昔ローマの時代、元老院に攻め込まんとするセザールが「さいは投げられた」と叫んだらしい。――いつだって賽を振るのも、ルビコンを渡るのも、決断を下すのが人間である以上、どうにか出来たかも知れない事態をすら神に丸投げするのは、哀れで醜い無力の証明以外ではあり得ない。


 だからリッシュモンは、せめて自分なりの償いとして、あらん限りの手は打ってきたつもりだった。ジャンヌの死後、自らに吹いた風を利用して政敵を失脚させ、王国総司令官の座に返り咲いた。さらには略奪を繰り返す傭兵たちを戒め、常備軍の創設にも動き出した。


 而してそれらすらも全てが、あの少女ジャンヌ・ダルクの賜与しよなのだ。彼女の軌跡が生んだフランスなる国民意識が、及び腰なシャルルを動かし、民衆に希望を抱かせ、ただ一つの国家の下への団結に結びついた。――無論のことリッシュモンは、自らが無能だとはさげすんではいない。むしろ為すべきことは為す最低限の男だとは自負している。だがゆえにこそ、人と人ならざる者の間に横たわる、頑然がんぜんたる力の差に、畏怖を抱いているのも確かである。


「――アレが聖女で無いのなら、神は何処におわすものか」

 ただ一度の邂逅かいこうで感じた、体現された奇跡。オルレアンの解放の後に行われたパテーでの掃討作戦は、フランス軍の圧倒的勝利で幕を閉じたが――、かの戦闘ですら、伏兵たるイングランド兵の失態という、天運とも呼ぶべき僥倖ぎょうこうに助けられていた。


 森の中でフランス軍を待ち受けるイングランドの弓兵部隊は、鹿を追い立てた事で歓声を上げ、それをたまたま耳にした斥候部隊が、伏兵の存在を本陣に言伝ことづてた。仮にあの幸運が無ければ、騎士たちの間にも幾ばくかの犠牲が出ていたに違いない。


 そんな幸運の女神に微笑まれた殲滅戦で指揮を任されたリッシュモンは、棚から落ちてきた牡丹餅を食らうように赫奕たる戦果を叩き出せた。今日こうして曲がりなりにも大元帥の地位に留まっていられるのは、ジャンヌ・ダルクが与えてくれた勝利の賜物に他ならない。

 




「――この先にランスがあります」


 思い起こさえばあの日、全てが終わった戦場で……少女はそう呟いて……呟いて旗を掲げた。夕日の中、馬上にて佇む少女の影は、まるで名だたる宗教画の一枚のように神々しかった。血で血を洗った筈の戦場ですら穢れを感じず、周囲で跪く騎士たちの姿が、あたかも十字軍の如し聖蹟せいせきを示してはばからなかった。


 歴戦の将であるリッシュモンも、誰に言われるでも無く兜を脱ぐと、この神聖の一幕たるべく頭を垂れた。――そして信じた。フランスの復権と、シャルルの戴冠、憎きイングランドの国土からの放逐ほうちくを。


 結局ジャンヌとリッシュモンはそれきり戦場で交わる事は無く永訣えいけつと相成ったが、あの時の光景だけは、鮮烈な一枚の絵として、リッシュモンの脳裏に刻まれている。




「アレが掲げた旗を、振り続けなければ……儂が、せめて儂が」


 首に残された傷も厭わず、流れる血に惑いも見せず、あの少女は前だけを見据えていた。遥か昔、もうとっくに忘れてしまった澄み切った目。薄汚い宮廷闘争に巻き込まれ、淀みきってしまったリッシュモンには、ジャンヌ・ダルクの背中は余りにも眩しかった。


 煌々と照る満月にソレを思い出し、苦笑を零すリッシュモンが正面の闇に視線を落とす頃、果たしてその闇の先から俄に低い声が響き、リッシュモンは虚を突かれた。


「閣下だけではございません。その御旗、私も支えさせては貰えますまいか」


 闇から溶け出すように現れた黒鉄の騎士が、痩躯に長い髪をなびかせてリッシュモンに語りかける。どこかで見たような気がする。どこかで聞いたような気がする。だが記憶に残る誰しもと一致しない幽鬼めいた騎士は、恭しく一礼すると、自らの名を告げた。


「お久しぶりです閣下。私の名はジル・ド・レ。本日はフランスの領土奪回の為、閣下の下に参じた次第であります」

 

 これが、この鬼気迫る形相の騎士が、あの血色豊かなジル・ド・レだったというのか。暫し戸惑いを隠せないまま、フランス軍大元帥アルテュール・ド・リッシュモンは、ジル・ド・レを名乗る黒鉄の騎士と相対したのだった。

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