17:開戦前夜
――お前ともっと早く、出逢えていれば良かった。
その言葉を、冷え切った心で何度も
自分なりに、相応に我慢したと思う。よくも笑顔で耐えきったと自賛したい。それほどまでにジルは――、眼前のマーシャは、無粋に純粋で、屑で一途だ……自分を想う女の気持ちを、
フランは思う。ボクは研究に協力してあげた。夜伽だってこなしている。家事も、兵站も、補充も拡充も殆ど一人で受け持っている。勿論、それに見合うだけの対価は十全に得ているし、その事で責めるつもりは無い。だがこうまでも、ここまでも好意とは気づかれ得ぬものなのか。況やジルに見せびらかせる為だけに設えた甲冑姿で、あろうことかジャンヌの名を呼ばれながら粗雑に犯され、最後はおきまりの謝罪で終わる夜のまぐわい。余りに虚しく、余りに孤独で、余りに惨めだ。
かくて疲れ果て寝たジルを横目に、フランは上半身を起こすと、彼の頬に指を当てる。泣きたいのはこっちだというのに、ジルの骨ばった頬には、一筋の涙の乾いた跡がある。その跡に口づけし舌を這わせ、塩気のある水の跡を味わい終えたフランは、淋しげな微笑みを湛えベッドから立ち上がる。
最早誰も居なくなった城内を、一糸纏わぬ姿で闊歩するフラン。窓からは満ちかけの月が煌々と照っていて、フランの銀髪を眩いて煌めかせている。その身体は火照らせながらも、燃える灼眼には冷厳たる殺意が渦巻いていて、そこには色香と死の芳香が共に揺らめく、常世ならざる情景が描き出されていた。
これから戦争が始まる……戦争を終わらせる為の戦争が。――それは愛国心に依るものでも無ければ、無辜の民を救う崇高な使命に依るものでもない。ただ一人の少女の為に、たった独りの男が起こした、未曾有の決意の成れの果て。そしてかかる狂気に手を携える、愚かな魔女の命懸け。或いはこの葛藤こそが喜劇だし、報われない想いもまた、過分に悲劇だ。
フランは覚悟を決めるように地下へ降り、天蓋から月明かり差す水洞に歩を進める。川のせせらぎの音だけが響く中、中央の水槽に浮かぶのは人体の破片。すなわち出来かけのジャンヌである。
「こんばんは、忌々しい聖女サマ」
ジャンヌという名前も呼ばずに、フランは頭髪と眼球と骨と肉の群れに向かって告げる。当然の如く返事の無いソレらは、ぶくぶくと水に揺蕩ったまま、辛うじて眼球だけをギョロギョロと動かしている。
「たかが人間の分際で、田舎娘の分際で、土臭い見てくれの分際で、吐いて捨てる程ある外貌の分際で、よくもボクのマーシャに見初められたものですね」
――おかげで今日も、ボクは貴女の代わりに犯されましたよ。と自嘲気味に嗤いながら、フランは水面の直前で足を止めた。その瞳には滾々たる憎悪と殺意が芽吹いていて、フランの立つ一点だけが、青と静寂に包まれた世界にあって、ただ赤い特異点に見えた。
「本当なら、貴女を今すぐ肥溜めの中に放ってしまいたい所ではあるのですが――、マーシャたっての願いです。ですからボクは、貴女を全力で復活させてみせようと思います。いいえ、出来るでしょう。ボクの力なら、簡単に確実に」
そして舌なめずりするフランは、宣戦を告げるように口を動かす。獰猛に揺れる銀髪が、彼女の気勢を否応無しに伝え憚らない。
「真っ向勝負で奪い取りましょう。――ジャンヌ・ダルク。貴女を想うジルの心を、ボクが完全に奪ってみせます。貴女が黄泉還り、純朴に朴訥に羊飼いに戻る頃、貴女を愛したマーシャは、きっとボクなしには生きられない存在に成り代わっている。――誰しもをも平等に愛したがゆえに、誰一人愛せなかった哀れな
それで全てを言い終えたかのように大きく息を吐いたフランは、踵を返し寝所へと戻る。時に1435年初秋。ジャンヌが没して後、フランス軍による一大攻勢が始まる、その前夜の出来事だった。
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