10:騎士再生

 自分を赦す声が遠くから響いた気がして、ジルは手を伸ばす。だが朧げな意識はソレを掴む事を許さず、少しだけ冷静に立ち返ったジルは、その声が自身の生み出した幻影である事を悟った。


 自分が許される訳はない。ジルはそう信じる。

 なるほど確かに、彼女ならゆるすだろう。何人をも等しく、等価として、平等に。――だから許されていない・・・・・・・。怒りを覚えていない者からは、決して許される事はない・・・・・・・・


 せめて呪われれば、罵られれば詫びれたろう。許してくれと希い、その果てに或いは、贖罪も叶ったろう。だがこちらの行動を責めさいなみすらしない者に、許しをえる筈も無い。ゆえにこれは、この甘く響く彼女の声は、ただひたすらにジルの虚妄きょもう。望んで願って果たされなかった、哀れで惨めな偽りの結末に過ぎない。――ジルはそう解釈し、解釈した上で覚醒を選んだ。




 目を覚ます。じっとりとした汗が穴という穴から噴き出していて、心地よいとは言い難い。夢の中で響いた甘美な声をかき消すようにかぶりを振り、ジルは下腹部に覚えた重みに視線を落とす。――そこにはフランが眠っている。くーくーと寝息を立て、年相応の――、最も、本来の年齢など分かりようもないのだが――、現在の外貌に沿った表情を見せている。


 片目を隠すショートカットの銀髪。雪のように白い肌は傷一つなく丘陵を描き、目を閉じてさえいれば人形にすら見紛う。――いや、基が死体である以上はその喩えも間違ってはいないのだが――、ともあれジルは、この殊勝にも自らに付き従う錬金術師アルシミストの寝顔を、まだろくに回ってもいない頭でぼんやりと眺めていた。


 ――彼女は私をどう思っているのか。

 そんな思いがふと過る。市井に出回る錬金術師アルシミストが、己が私腹を肥やす為に権力者に取り入るというのは、巷にありふれた話だ。だがその殆どは自称の詐称で、フランのように赫奕かくやくたる結果までをも示すというのは、例外的な例外だった。


 おまけにこの少女は、研究の主導に加え、ジルの夜伽の相手までしてくれている。遺伝子に刻まれ、血に蔓延はびこり、自明の如く戦場で芽吹いた悪の華。その華の養分たるべく水を分け与えてくれるというのは、こちらの羽振りが良い事を加味するにしても、余りにも過剰かじょう且つ望外ぼうがいご奉仕サービスと言えた。


 猟奇的で、暴力に富むジルのセックス。神に祈りし敬虔なカソリックを演じながら、その裏で目覚めていたのは唾棄すべき悪癖。若しフランがこの性癖を受け止めてくれなかったなら、日に日に増す破壊衝動は、近隣子女の大量失踪という形で悲劇を産んでいただろう。

 

 元からして化物だったのか、化物になる仮定で負の側面が鎌首をもたげたのか。それはジルにも分からなかったが、唯一おぞましいと感じるのは、自身がジャンヌに、破廉恥はれんち極まりない性衝動を覚えていたという事実だった。ジャンヌの匂いを身に纏ったフランの首を締め、およそ暴力の限りを尽くしながら果てる時、ジルは言い知れぬ快感に身を震わせていた。その責め苦は、フランがジルを受け入れれば入れる程、日を追って苛烈を極めていった。




 ――おはよう、フラン。

 幾つかの雑考を巡らせた上、ジルはそう言いかけて言葉を飲み込む。そしてゆっくりと身体をよじると、フランを起こさないようにベッドを降りる。ジャンヌの水洞に併設された医務室は、天窓からの採光により地下ながら明るい。日陰の中で安らかに眠るフランの肩に毛布をかけ、ジルは内心で詫ながら部屋を出た。


 水洞の中心には、相も変わらずジャンヌが居る。陽光を浴び煌めくソレは、傍から見れば只の肉片でも、ジルからすれば尊い聖女だった。多くの神話では、愛する伴侶を喪った男が、黄泉の国に駆け下って妻を蘇らせようとする物語の類型が見られる。だがその逃避行は、蛆が湧き腐り落ちた妻の顔を見た瞬間に愛を失い、夫側が恐れを為し逃げ出して、一つの悲劇あるいは喜劇として幕を閉じるのだ。


 嗚呼ああ、まったく愚かしい事だとジルは嘲る。永遠の愛を誓い、標榜し謳い、そして最後の最後で自分は被害者ですとばかりに洋々と反故ほごにする。こんなものが所詮の所の世俗の愛だ。――だが自分は違う。たとえ腐臭を漂わせた肉塊が振り向いても、ソレがジャンヌである事を必ずや信じ切るだろう。跪き許しを請い、喰われるも殺されるもそのままに委ねるだろう。


 それでいい。だからアレはジャンヌだ。水槽の中でたゆたい、ようやっと人の形を為しつつある肉の塊を、ジルはそう想って愛おしそうに見つめた。眼球がギョロリとこちらを見つめ、その瞬間心を打たれるような感慨に咽んだ。


 アレがある限り、アレが居る限り、自分は如何なる艱難辛苦かんなんしんくにも耐えうるだろう。事実、あの鬼神オーグルにすら一矢を報いた。この勇気が、力が、あの火刑の刹那に示せたのなら。自分は自分を赦し得たかも知れない。――前へ。前へ。旗を掲げるジャンヌの勇姿を、目を閉じた瞼の裏に浮かべながらジルは頷く。私はまだ負けない、負ける事はない。前へ前へ前へ前へ。たとえ肉片の一欠になろうとも牙を剥き怨敵を屠る刃たれ。


 かくてこうべを垂れ、踵を返し水洞を後にするジル。ギイと開く木門を開け去る彼の背中を、じっと見つめる二つの眼球が、果たして何を思うかは誰も知らない。

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