09:歓喜溢流

 ――刹那、フランは駆け出す足をめる事が出来なかった。一時的とは言え鬼神オーグルを阻み、今まさに地に堕ちんとするジルの姿を前に、フランは一人の観客である事をめ、調停者として割って入った。脱兎の如く跳躍し、愛しきあるじを抱えて滑り込む。自らを改造し、一個の戦闘体として十全に機能するよう設えているフランは、さながら旋風のように鮮やかに、ジルの身体を包んだ。


 それは一つの歓喜。予定調和の盤面を覆したジルへの率直な賛辞と、湧き上がる思慕しぼの濁流。混然たる感情がい交ぜになり、フランの灼眼には滾々こんこんたる涙が堰を切って溢れ出していた。


 ――嗚呼なんて素晴らしいのだろう、とフランは思う。いや、讃えずには居られない。自分がけしかけた鬼神オーグルは、人智を凌駕した規格外の化物だ。確かに人として見れば十分に強化されたジルと言えども、このタイミングで揚々と勝ちを獲れる相手ではない。

 

 サン・ドニの聖堂から奪ったベルトラン・デュ・ゲクランの遺体に、サン・ソヴールから取り寄せた心臓の断片。百年戦争の英雄を基盤ベースに生み出された、文字通り神話級のプロセリアンド・オーグル。その傑物と剣を交え、あろう事か試合において勝利をもぎ取るとは……無論、あと数分もすれば息を吹き返すオーグルの手前、どちらが最後に生き残るかの生存闘争で言えば、勝者は後者であろうが――、それを差し引いても尚、ジルの為し得た奇跡を讃えねばならないと、フランはこうして彼を膝枕にし、感涙かんるいに咽んでいる。


 これが人の想いの力か。――忌まわしきはその対象があのジャンヌである点だろうが、口元まで出掛かった嫉妬を辛うじて押さえ込み、フランはせめて、今だけはジルの望むジャンヌ足らんと声を発する。




「よくやりました、ジル。あなたなら、きっともっと強くなれる。わたしが保証します……だから今はゆっくりとおやすみなさい。――誰よりも愛おしい、わたしだけのジル」


 ただし、ここで言う「愛しい」という感情は本心だった。むしろそのゆえに、そのためだけに準備した舞台でもある。百年戦争の英雄を使役してみせ、その膂力の前に打ち負かされるのなら、ジルは必ずやフランの才を今一度自覚し、さらには自らの強化の為、一層の依存を深めるだろう。そうなればジルはフランに耽溺たんできする可愛らしい従僕じゅうぼくだ。いくら口ではジャンヌを求めても、身体は否応無しにフランの支配下に置かれていく。――クスリも催眠も使わずに、純然たる真っ向勝負でジャンヌに打ち勝ちたい……フランの思考の一端には、間違いなくその思念があった。


「ジャン……ヌ……だが……いくら君が私を許しても……私は……」


 だが結果は真逆。ジルはジャンヌへの想いを糧にオーグルを切り伏せ、今や夢の中で空想の聖女と戯れている。つまりは少なくともフランは、またも亡霊相手の恋の戦に、確固たる敗北を喫した訳だった。


「許します……わたしは貴方を許します。だから……だからわたしを見て下さい……せめてわたしを、貴方の側にいる、このわたしを」


 今度はフランは、悲しみのゆえに溢れ出てきた涙を抑えられないまま、ジルを強く抱きしめて震える。――勝てないのだ。それどころか天秤にすら掛けられていないのだ……フランとジャンヌは。錬金術師アルシミストと聖女サマは。


 そうしてフランは改めて気付かされる。如何ともし難く自身が抱く、ジルという男への強い思慕に。そして冷たくなっていくジルの体温に慌てたように取り乱し、自らの手首に刃を当てると、切り裂いて血を滴らせた。口元に落ちるソレを、ジルは待ちわびたかのようにゴクゴクと飲み干す。


「水を……どうか恐れないで。この世界にたったひとり、貴方が取り残されたとしても、わたしの身体は、わたしの心は……ボクは……ボクだけは、必ずや貴方だけの為に、きっと在りますから」


 それは或いは、自らに言い聞かせるような絞り出す声だった。血肉の飛び散る昏い地下室に、フランのすすり泣く声だけが響いた。

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