03:精虫遊泳

 ジルとフランが辿り着いた広間は、地階でありながらも他とは一線を画していた。辺り一面に張られた水槽に、天蓋てんがいから差す光が反射し、まるでそこだけが切り取られた聖域であるかのようにきらめいている。そしてその水槽の中央には巨大なフラスコが浮かんでいて――、中には何か、物体めいたものが漂っている。


「……ジャンヌ」


 そこで感嘆かんたんの声を上げ、歩み寄るジルは、ふと思い出したかのように水路で手を清め、顔を拭う。シャトー・シャントセを流れる、長大なるロアール川から引いた涼水は、ジルの四肢に付いた血のけがれを、いっときに洗い落とす。


「まったく……マーシャはジャンヌの事になると、すぐこれですから」


 だがその光景を横目に、ぶつぶつと独りごちるフランは、面白くなさそうにケープでもう一度口を拭くと、水槽の淵に佇んで振り返る。


「ボクはもう行きますよ……ジルはそこで見ていて下さい」


 言うやケープと頭巾を脱いだフランは、一糸まとわぬ姿で水面へと足を踏み入れる。真っ白な病人めいたフランの身体は、一層に青白く、あたかも死体の如く揺蕩たゆたって見える。




 ――いや、そもそもが死体だったか。

 そう思い出したように頷くジル。その真偽は定かならずも、フランの身体は、さる少女の死体をもとに作られているらしい。曰く死霊魔術ネクロマンシーの一つだとは、本人たるフランの弁だ。


 最初は訝しがったジルではあるが、見た目の年齢に比し、老齢の司祭、いや熟達じゅくたつの医師にすら勝る知識を有するフランを前に、その秘蹟ひせきについて一定の信を置かざるを得ない現状はあろう。事実彼女の言葉に従った結果、ジルは人外の膂力りょりょくを手にしつつある。




「――ほら見てください、マーシャ。ジャンヌの眼球が動いているのがわかりますね?」


 フラスコに近づき、嬉しそうに破顔するフランは、自身の灼眼をジルに向ける。


「ああ、そうだな」


 フラスコの中に浮かぶのは、人間のものとおぼしき長髪と、それからたった一個の眼球だった。それ以外にも薄っすらとした骨格や血管らしきはあるにせよ、明確な部位として挙げられるのはその程度だろう。元死体の少女が、人間の断片パーツを眺めはしゃぐと光景はいささかに滑稽こっけいだが、あれが、あの断片パーツこそがジャンヌなのだ……再生する聖女なのだ。溢れ出る感慨かんがいをひた隠しながら、ジルは相槌あいづちだけを返すように努める。


「そこはもっと大袈裟おおげさにリアクションして下さいよ、マーシャ……ジャンヌだって寂しがるでしょう、きっと」


 相変わらずつまらなそうに頬をふくらませるフランは、大きく息を吸うと水槽の底に潜った。元が死体を加工した彼女の身体は、生体機能と隔離した生殖器官に、男から得た精を備蓄する機能がある。それをフラスコの中でジャンヌに注ぎ与える事で、人間の受肉を再現しようというのが彼女の試みらしい。


 ……なんでも受胎じゅたいとは、男の吐き出す精子のうちの僅か一つが、相手の子宮に辿り着く事で起きる奇跡だという。あの白濁の中にそんなものが含まれているとはジルの預かり知らぬ所ではあるが、敢えてと試しに聞いてみた所、数にすればフランスの人口を遥かに凌駕する精虫が泳いでいるのだとか。いやはや恐ろしきは生命の神秘といった所だが――、それはとどのつまり、これからジルたちの狩る命の総数にも比例するのだ。


 そんな雑考をジルが巡らす中、フランはおとぎ話のセイレーンさながらに精子を撒き泳いでいる。これで雛形としての原型が出来上がれば、第一段階は踏破とうはらしい。



 

*          *




 ――ジャンヌの欠片を集めておいたのは、正解ですよ、マーシャ。

 さかのぼること一年前。ジャンヌ復活の計画を聞いてすぐ、フランはジルの判断を褒め称えた。火刑の跡から拾ったジャンヌの遺灰。それからジャンヌが断髪した時にとっておいた彼女の長髪。それらがあった事で、人体錬成の工程は、かなりの数が省けたという。


 遺伝子……人の有り様を示す螺旋の階段、とフランは言ったか。ともかくジャンヌの寄辺となる肉体の再編は、このペースであれば、数年以内には成し遂げられる筈だ。四億人分の精子。そうフランはジルに告げたが、一人の男を廃人にするまで精を絞るフランの事だ。そう遠くなく達成はされるだろう。




*          *




「首尾はどうだ、フラン」


 かくて水槽から上がってきたフランを、抱きしめながらジルは囁く。先刻までは汚らわしいとすら断じていた少女の肢体も、この時ばかりは愛おしく感じる。


「ああ……もう……マーシャは……ジャンヌに触れてきた後だけは、ボクの匂いをそうして嗅ぐんですから……」


 ジルの腕の中で藻掻もがくフランは、されど本気で抵抗する素振りは見せずに、熱っぽい言葉を耳元で吐く。


「私の血の臭いを、アレにつける訳にはいかない。だが私は……アレの温もりを欲している」


 ジャンヌという名を使わずに、フランの身体を弄るジル。細く手折れそうな少女の両手は、さりとて見た目より遥かにしたたかに、ジルの首筋にまとわり付いている。


「……酷いですねえ……こんなに可愛いボクを前に、マーシャはジャンヌの事しか考えてくれてない……ああ、首尾は上々ですよマーシャ。――あとは血と肉です。血と肉を、聖女に」


 消え入りそうな声のフランに、ジルはついに時が来たかといった風に頷いてみせる。


「案ずるな。もう強化は済んだのだろう。連れてきてやる。百人でも千人でも、アレを蘇らせる為なら、何億人でも」


 フランの唇を奪い、その細い身体を片手で抱き上げ、残った手で石塊を握りつぶしてジルは言った。彼の瞳に灯る炎は、最早人のソレとは言い得なかった。

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