01:悪鬼胎動

 男は悪漢ピカレスクであった。その事を隠し立てるつもりも無いし、自らを聖人君子せいじんくんしだと宣うつもりも無い。なにせかえりみれば血の系譜そのものが濁っているのだ。何年も何年も丹念に醸成じょうせいされたワインの様に、男の汚れきった血筋もまた、連綿と悪意の糸を紡ぎながら今に至っている。――だから分かる。分からざるを得ない。このうごめく狂気は条理であるし、或いはこれまでの罪業ざいぎょうに対する応報ですらあるのだと。しかし、さりとて、悪漢ピカレスクであるがゆえに――、彼自身が善悪の彼岸に在ったがゆえに――、かかる罪過ざいかに耐え得るだけの強靭きょうじん、或いは愚鈍ぐどんなる精神を持ち合わせたのだという点だけは、今の男にとっては僥倖ぎょうこうと言えるのだろう。――いわんや鋼の心と残忍無しには、これから為す外道と非道のおよそ全ては、成し遂げるには至らないであろうから。


 省みるだけでも。男の曽祖父は王家直参じきさんの家臣でありながら金に目がなく、暗殺や横領を繰り返した逆臣ぎゃくしんだったし、その息子――、即ち男にとっての祖父も、強引な政略結婚で領地を広げた策士だった。それを警戒した亡父だけは、生前より祖父から男を遠ざけるよう取り計らったが、悲しい事に狩りの最中に不慮ふりょの落命。その原因は定かならずとは言え、結果から導き出される憶測おくそくは容易だった。斯くて祖父の元に引き戻された男は、帝王学のすいを叩き込まれ、暴勇ぼうゆうなる簒奪者さんだつしゃとしての才能を開花させた。妻を奪い土地をかすめ、剣を抜き戦場を駆け、やがて男はフランス軍の元帥にまで上り詰め――、救国の英雄として名を馳せる事となる。




 ――まったく馬鹿馬鹿しく浅薄で、そして無意味だ。

 而して。かかる如何なる栄誉を以てしても、たった一人の少女を救う事すらままならなかった。ならば全ては余りに無価値と、男は棚に並ぶ栄誉の証を侮蔑の眼差しで一瞥いちべつし、日の光の差さぬ地下で独りごちる。ブルターニュはシャントセ、巨大な石塔の建つこの居城は、フランスの北部、アンジューの防衛線を司る、軍事上の要所だった。無骨な外観とは相反するように飾り立てられた内装。だが地下だけは薄暗いままで、ともすれば血と腐臭ふしゅうの沸き立つ臭いが、そこかしこに満ち溢れている。


 そんな男の眼前には、震える少年が縛られたまま全裸で横たわっていて、周囲に散る赤い布の切れ端が、どうやら彼がイングランド兵士であったろう事だけを僅かに示す。男はゆっくりと椅子から立ち上がると、この震える少年に近づいてしゃがみ込んで囁いた。


「気分はどうかね?」


 低く響く、無感情で冷徹な声。少年はふるふると首を振るだけで、何も答えようとはしない。――いや噛まされた猿轡さるぐつわが会話を許さないと言えばそれまでだが、ともあれ少年は、涙目のまま失禁し嗚咽おえつを漏らす。


「そうか、そうか……上々か。それは良かった」


 だがそれすら意に介するまでも無いと朗らかに笑い、男は少年の首元に歯を突き立てる。少年の怯えの、その理由は分かりきっていた。彼の眼前……すなわち男の背後に横たわる光景は――、紛うこと無き死屍累々ししるいるい。少年より先に喉元を掻っ切られ死に至った、数多の同胞はらからの、物言わぬ屍だったからだ。


「……ッ……ィッ……」


 哀れにも声にならぬ声を上げ、光を喪っていく少年の瞳は、彼の命が事切れるのと同時に灰色に変わった。それから暫く血を啜り続けると、男は満悦の笑みと共に喉元から唇を離す。かくて紅を差したかの様に真紅に染まる男の口元からは、数時間前からたった今に至るまで、吸いに吸い尽くした命の残滓ざんしが、ぽたりぽたりと滴り落ちていた。


 男がくびり殺したのは、言うまでもなくイングランド兵。それも貴族の生まれでない――、死したとて問題も無い農家の庶子しょし。それを銀貨一枚で買受けて、夜な夜な男は、こうして血をすすり続けてきた。――血が美味い、とはまだ思わない。されど、そうしなければ力を得られないというのであれば、話は別だ。人外の力。神をねじ伏せ、運命を両断りょうだんし、何者にも屈従くつじゅうせぬ悪鬼の力。それを手に入れる為に生き血が要るのだと囁かれた以上は、男は男の全力を傾注し、血という血を飲み干さねばならないだろう。




 ――1433年5月。一人の聖女が死に、一人の悪魔が生まれてから三年の月日が過ぎた頃、アンジューの防衛戦たるシャトー・シャントセは、秘儀信奉の一大要塞として、その姿を変えていた。男――、すなわちジル・ド・レの枷となっていた祖父は昨冬に他界。それを待っていたかのように、ジルは子飼いの錬金術師を城内に招き入れると、半ば公然と自らの計略の為に駒を進め始めたのだ。


 先ずは血。たった一人で騎士団と張り合えるだけの力を欲したジルは、その獲得の為に半年を費やした。前線から送られてくる捕虜、孤児院から連れてきた孤児。人買いに売られた農奴の末子。最低でも一日五人と定められた生贄たちは、かくして喉を切られ血を啜られ、死体の山となってシャントセの地下に埋まる事となった。


 そして今宵の食事を終えたジルは、優雅に剣を抜くと石像に切ってかかる。飴細工のように溶けて落ちるその切れ端を見て、多少は得心が行ったのだろうか、ジルは満足げに微笑むと、誰も居ない筈の暗闇に向かって告げた。


「こちらは、こうだ。そちらの首尾はどうだね……フラン」


 すると闇からにゅっと足を踏み出した白い影――、いや。白い顔の少女は、黒い頭巾の中で赤い眼光を光らせながら返すのだった。




「――今日の材料は百人分。ボクのほうも問題はありませんよ、大元帥閣下マレシャル・ドゥ・フランス」と。

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