聖女錬成 - La Pucellation -

糾縄カフク

一章:讐鬼生誕

00:聖女炎上

 それは騎士にとって悪夢だった。

 幾度も幾度も脳裏を過る、克明こくめいな悪夢だった。


 せめて責め苦があれば救われたろう。

 或いはののしられればびれたろう。


 だが彼女は、あの少女は一度として恨まなかった。

 人を、我々を、今際の際にあって尚――、救われるべき無辜むことして神に祈った。


 足元に火がべられ、身体が焦げ炭となって落ちる間も、決して止む事ない祈りの歌。それも自らの為ではなく、自らを見捨てた人々に向けての穢れなき歌。


 それが延々と、呪詛のように蝸牛かぎゅうを渦巻き、騎士は嘔吐おうとしそうになる口を必死に抑える。右手で水面をすくいながら、セーヌの汚泥おでいひざまずきながら。


 き集めるのは、かつて少女だったモノの残骸。聖女と呼ばれたモノの遺骸。そして騎士の目に灯るのは、救えなかった己への責めと、救いもしなかった神への怒り。


 なぜ斯くも信心深き少女の命を、これほどまでの苦悶くもんの中で奪うのか。せめて安らかに、眠るように死なせてはくれないのか。――そして何より、何事もできず死をいたむだけの自分は、一体どれほどまでに非力なのか。


 溢れ出る涙を堪える様に瞼を閉じる騎士の脳裏に、ほんの数刻前の惨劇が、これ以上なく鮮やかに蘇る。




*          *




 響くのは、敵国の兵士イングランドの声高な歓声。

 鮮血にも似た赤い戦旗が風になびき、その中で息を潜める様に、騎士を含む僅かな盟友たちは剣を握っていた。


 ――中央の広場、磔刑たっけいに処せられる少女の名は、ジャンヌ・ダルク。劣勢の故国に颯爽さっそうと現れ、獅子奮迅ししふんじんの活躍を見せたオルレアンの乙女。


 しかし彼女の助力で即位したシャルル七世は、権力を手中に収めるや叛意はんいを見せた。武力による領土奪還を主張するジャンヌが、次第に疎ましくなったからだ。


 やがて国王に見放されたジャンヌは孤立を深め、自軍を救うべく乗り込んだ敵地の先で、ついに虜囚りょしゅうの憂き目にあってしまう。


 結末の分かりきった裁判で異端の烙印らくいんを押され、魔女として火刑台に吊るされたジャンヌ・ダルクは、今まさに死の瀬戸際に居た。




*          *




「殺せ! 殺せ! 悪魔を! 魔女を! フランスの売女ばいたを!」


 戦地にあって処刑とは民衆の娯楽でもある。自国民を苦しめた年端もいかない少女の死を、イングランドの領民は歓呼で以て迎える。


「被告、ジャンヌ・ダルク。神の名をかたり国民をあおり、世に混乱を招いた罪を受け入れるか」


 その歓声を手で制した審問官が、形式張った質問をジャンヌに投げかける。


「私の名はジャンヌ・ダルク。まごうこと無きオルレアンの乙女。主よ、汝の御国みくににて、私の名を思い出して下さいますよう」


 しかし聖書の一句を口にしたジャンヌは、これまでと同じ答えを返すだけだった。


「よかろう。だが貴様が向かうのは天国では無い、身を焦がしただ焼かれる、灼熱の地獄だ」


 審問官の手の合図に合わせ、処刑人が松明たいまつを掲げ火刑台に駆け寄ってくる。




 ――このままでは。

 騎士は握る剣の柄に力を込め、たとえ一人とて斬りかかろうと身構える。本来は強襲隊が広場に乱入し、その間隙かんげきを縫ってジャンヌを救い出す筈だった。だが死刑の宣告が告げられて尚、増援の来る気配は無い。――松明の火が、無辜むこの少女の足元にべられる。


 ――やめてくれ。彼女が一体何をしたというのだ。

 だがいざ窮地きゅうちとなると、足は震え声は出ず、怯えて体が動かない。刺し違えてでも彼女を救う。そう誓った先刻の自分は何処にいるのか。


「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく。我らの罪をも赦したまえ――」


 燃え広がる火がやがてジャンヌの体を包み、しかし黒い炭を落としながらも――、たった一つの声だけが止まずに聞こえる。


 最早観衆も罵詈雑言ばりぞうごんを忘れ、その神聖に、或いは狂気に心を奪われている。聞こえたのは慟哭どうこくでは無い。――祈り、死の淵にあってなお途絶えぬ、神への祈り。


 たった一人の少女すら救おうとしない残酷な神への、たった一人の少女すら救えない無力な人への怨嗟えんさをも滲ませない――、余りにも清らかな祈り。やがて唱歌しょうかは渦巻く炎に乗せられ、舞う灰と共に周囲へ降り注ぐ。




*          *




 ――ああ。

 美しくも呪詛じゅそめいた、懐かしく響く声に騎士が手を伸ばした時、そして静かに目を見開いた時……果たしてそこにあるものは、只の虚空に過ぎなかった。


 騎士の乾いた涙の上に、もう一筋の線が描かれる。気がつけば周囲は薄暮がかっていて、世界の終焉を思わせる黄昏が、セーヌの河面をあかく彩っている。


 騎士は立ち上がる。そして自らがかき集めた少女の遺骸を、腰袋にいれる……決意は固まった。最早揺らぐ事は無いだろう。




 ――神が彼女を救わぬのなら、人が彼女を救えぬのなら、悪魔よ。どうか我に、彼女を救う為の力を。


 神は彼女を救わなかった。

 王も彼女を救わなかった。

 そして人も、無力で惨めな自分自身も、同じく彼女を救えなかった。


 ならば。

 ならば。

 残された道は一つだろう。


 神の無い世に。

 信心の無い我に。

 それでもなおすがよすががあるとするなら。

 

 そして。

 たった一つでも願いがあるとするのならば。

 

 それは。

 失われた彼女の救済以外には、きっとあり得ない。


 彼女が一人の少女として歩む筈だった、幸せな日々を。

 彼女が一人の羊飼いとして終える筈だった、つつがない生涯を。

 

 それらを、それらを、呼び戻し取り戻す手段があるというのなら。我が身を賭し捧げる事に、なんの惑いがあるだろう。よしんばそれが、外法による賜与しよであったとしても……冥府へと続く道であったとしても。


 騎士は歩く。決意を秘め、歩く。

 騎士の名はジル・ド・レ。後に青髭と呼ばれる怪物。


 1431年5月30日、この日だった。

 ジル・ド・レと呼ばれた騎士が死に、人の皮を被った悪魔が、世に生まれたのは。

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