便箋仲介人

泉宮糾一

便箋仲介人

「あなたいつでもここにいるのね」

 拾い物の商品を並べた茣蓙に、目を落としていた僕の耳に、その甲高い声は届いた。煌びやかな足元を見れば身分の高い人だとわかる。僕の数少ない知人の中に、そのような人はいない。

 だから、その人が僕に向けてしゃべっているとは思いもよらなかった。

「ちょっと、聞いてる?」

 苛立ち交じりの声に顔を上げると、まなじりを吊り上げた少女が口をへの字にしていた。

「あら、あなた子どもだったの?」

「……そちらと同い年くらいでしょうね」

「言葉も喋れるじゃない」

「はあ、まあ。少しくらいなら」

身なりは汚く見えるだろうが、これでも数年前までは暮らす家もあったし、両親もいた。それらすべてが失われ、ガラクタを売り物に露天商をしている経緯を今はあまり思い出したくない。平民から貧民への転落は、何もかもがあっという間だった。いっそのこと、元から貧しい身分だったと考えた方が気楽だった。

「ちょうどよかった。友達が働き手を探してるの。来てみなよ」

 今より絶対、いい暮らしができるから。そう言って彼女は僕の腕を引き上げた。積もっていた埃がハラハラと落ちていく。

 それが僕と彼女の出会いだ。このあと僕は高級住宅街へと引きずられ、一際大きく立派な門構えの豪邸に案内され、雇い主様と接見する。

 雇い主には一人のご子息様がいた。僕は彼の付き人となった。

 僕を引き渡した時の少女の笑顔が忘れられない。彼女は初めからご子息様を見つめていた。彼の役に立つために、僕を選んだ。ただそれだけのことだった。

 戸惑いつつも昂っていた、僕の気持ちは少し沈んだ。とはいえ好機なのは間違いない。平民生活への復帰を夢想しながら、僕はご子息様に不自由がないよう、力を入れて日々の業務に従事した。

 仕事の内容そのものは、覚えてしまえば楽だった。ご子息様は育ちがよかった。理不尽な要求をすることもなかったし、僕の出自を根掘り葉掘り聞くこともなかった。付き人の僕を人並みに扱ってくれた。別の形で出会っていたら、友達にでもなっていたかもしれない。率直に言って良い人だった。

 ある夕方、庭仕事を終え、道具を片付けていたら、声を掛けられた。垣根の隙間から彼女の顔が見えていた。

「これを」

 花弁の豊かな花の紋で封じられたそれには、ご子息様の名前がやたらと流麗な字で書かれていた。

「頼んだわよ」

 彼女はすぐに、垣根の枝葉にまぎれ、見えなくなる。

 夕暮れの風は、佇むには肌寒い。僕はお屋敷へと帰り、誰にも見られないよう気を付けながら、ご子息様の部屋へとその便箋を滑り込ませた。

 翌日、ご子息様は僕に便箋を託した。彼女の本名が、便箋の片隅に小さく書かれていた。入用の品を買いにいくついでに、彼女の屋敷に立ち寄ったら、彼女は門の向こう側で待っていて、僕をみるとにっこりとほほ笑んだ。見惚れていることをごまかしながら、僕は彼女に手早く便箋を渡した。

 それからことあるごとに、彼女とご子息様は便箋でやりとりをした。仲介人は僕だ。ほかに誰も介してはいけないときつく言い渡されていた。

 後になって知ったことだが、彼女には許嫁がおり、ほかの男性と触れ合うことを彼女の両親は快く思っていなかった。身分の違う僕ならいざ知らず、同等以上のご子息様とは滅多に顔を合わせられない。たとえ幼馴染だとしても。そういう決まりになっていたらしい。

 ご子息様の、僕の前の付き人が亡くなったとき、彼女はひらめいた。低い身分でありながら、言葉の通じる僕を見つけ、無事にご子息様の屋敷へと送り込んだ。そして便箋の仲介人になるように仕向けた。

 すべては彼女の思惑通りだったのだろう。たとえ口で言われなくても、僕が手紙を携えて赴くたびに見せてくれる満足げな微笑みを見れば察することができた。彼女の視線はいつだって、僕ではなく、その奥にあるご子息様を見つめていた。

 たとえ利用されているとしても、僕は慌てなかった。彼女の言う通りにことが運ぶにしても、彼女が僕を見ることがないとしても、構わなかった。僕の胸の内には、あの路地裏で僕を見つけてくれた彼女がいつでもいた。彼女は僕を救ってくれた人だ。それに間違いはないし、変わることもない。僕は彼女の恋路をできることなら見守っていてあげたかった。

 それでも時折、魔が差すことはあった。もしも手紙の相手が僕であるなら。彼女の視線がすべて僕に向けられ、流麗な字体で描かれる宛名が僕の名前であるならば。ひらめいては胸の奥底に沈めていったその想いが、次第次第に募っていき、密度を増した。手紙を受け取るたびに漏れる溜息が次第に大きくなっていった。


 その日、僕は彼女から手紙を託された。彼女は思いつめた顔をしていて、僕に渡すときもためらいがちだった。「これを」とようやく渡したそれは、手汗で端が少しふやけていた。

 彼女がいなくなってからも、僕は手紙を見下ろしていた。嫌な予感がした。業務を終え、自分にあてがわれた個室に戻ってからも鼓動は強く胸をたたいた。

 彼女の便箋の封が、その日は簡易なシールだった。街の雑貨屋で買えるものであり、この屋敷にもいくらか備蓄のあるものだ。だからいくらでも貼りなおせる。

 倫理観を押しのけた論理をくみ上げて、僕は手紙の封を丁寧に剥がした。目を通して早々に、「逃」の文字が目に映った。ほかには逢う場所と時間の指定。

 ご子息様と彼女は、駆け落ちすることを画策していた。

 彼女を失ってしまう。僕がまず思ったのはそのことだった。

 次に、屋敷からいなくなった彼女はどうやって暮らすのかを考えた。

 元の身分を放棄すれば、碌な生活にはならない。ガラクタを集め、露店を開いて、それだけで生活できるわけじゃない。毎日窃盗に恐怖して、いわれもない冷たい視線におびえながら、口も利かずにガラクタを拾っていく。

 必ずしもそんな生活になるとは言い切れない。でも、僕は事実体験している、それらの悲観を捨てることができなかった。

 僕は封をもとに戻さず、手紙を真っすぐ暖炉にくべた。手紙のやりとりが始まった当初から、大きくなりつつあった彼女の宛名が、炎に溶けていくのを見届けると、目が痛くなった。視界が明滅する。明るいものを見すぎていたらしい。食事が支給されたものの、ほとんど食べずにおいた。ハエの群がるのにも気に留めず、毛布をくるんで早めに寝た。明るい炎を見すぎたせいか、寝苦しくてしかたがなかった。


 彼女の屋敷を訪れても、彼女を見ることはなくなった。

 噂に聞くところによると、彼女は屋敷を抜け出そうとしたところを失敗したらしい。彼女の両親は怒り、ご子息様との接触を今後一切禁じることとなった。

 ご子息様は彼女の顛末を聞いて顔を青くしていた。彼女とやり取りをしていた事実を親に尋ねられ、渋々認めると、反省させられていた。その全貌は僕にはわからない。彼らの用意した反省室から出てきたご子息様は、僕には目もくれず、部屋に籠ってしまった。泣き声や怒鳴り声が聞こえたと思ったら、静かになった。やがて外に出たご子息様は目が落ちくぼみ、足もふらついていた。僕が肩を貸さなかったら倒れていただろう。

「君には迷惑をかけたね」

 ご子息様は僕に声を掛け、両親の待つ食卓へと向かっていった。

 ご子息様は僕を責めなかった。きっと僕が彼女の手紙を渡さなかったことすら、彼は気づかなかったのだ。

 僕は自分のしでかしたことの大きさを思い知らされた。ご子息様と彼女はこのままでは、二度と逢うことができないのだ。

 僕は彼女に謝りたかった。とはいえ、屋敷に近づいても彼女はいない。警備の増した屋敷の周りをうろつくと迷惑がかかる。彼女が公の場に姿を現すのは、街の教会での礼拝の時間だけだった。付き人が見張っているので、近づくこともかなわない。それでも一縷の望みをかけて、僕も教会に入った。

 賛美歌を聞きながら、祈りをささげるふりをして彼女を盗み見た。彼女は手を合わせ、目を閉じて黙している。ふと、彼女の目が僕と遭った。最初は見開かれ、それから次第にまなじりが下がった。愁いを帯びた瞳が微笑みへと変わった。いつかの嬉しそうな笑みとはまるで違う、弱々しい笑い方は、彼女にまるで似合っていなかった。

 もしもこの場で、彼女から便箋を託されたら、僕は喜んでご子息様に届けただろう。だけど彼女はすぐに僕から目をそらし、付き人とともに教会を去った。

 彼女からの便せんはいくら待っても来ない。そう思ったとき、僕の意思ははじめて固まった。僕が動かなければ、事態はなにも変わらない。

 僕がご子息様の部屋に無理やり押し掛けたとき、彼はやつれた顔で、かすかに驚きをしていた。戸惑うご子息様の言葉を捨て無視して、僕はすぐ頭を下げた。

「申し上げねばならないことがあります」

 僕はすべてをさらけ出した。彼女の手紙を隠したこと、その計画通りに彼女は実行し、それで捕まったこと。そのことを彼女自身知らないということ。

「それは本当の話か」

 話し終えたとき、ご子息様の声には力がこもっていた。ここ数日見ることのなかった瞳は力強く、黒々と僕を射抜いている。血走った眼も、剥きだされた歯も、僕に怒りを向けている。直視するのがつらい。だがそれらこそが、僕の思いの通じた証左だった。

「すべて、本当です」

「君には辞めてもらおう」

 ご子息様は手短に言った。「君の顔を見るのも嫌だ」

「それも当然です。しかし」

「何も話すな」

 ご子息様は僕に背を向けた。

「もう何も聞きたくない」

 呟き声が低く部屋に垂れこめた。これ以上なにを言っても通じそうもない。

「もしも聞きたくなければそれでもいいです。ただ、今一度僕に託してくれるならば」

 僕はひとつ息をつき、それから一息に言い切った。

「僕は必ず、貴方の便箋を彼女に届けます。最後の仕事を、させてください」


 礼拝の日、僕は木陰に隠れ、息をひそめていた。彼女はいつものとおりお屋敷の方から、付き人とともに歩いてやってきた。いよいよだ。僕は手のひらに汗の集まるのを感じた。

 彼女は日傘を傾げ、教会の扉の隙間に挟まれた便箋を手にした。

 付き人が彼女の手を握り、首を横に振る。僕は手を合わせ、彼女たちを凝視した。信仰とは無縁だったが、このときばかりは祈りの言葉が口から洩れた。

 彼女は付き人の手を払い、便箋を自らの懐にしまった。

 僕は胸を撫でおろし、彼女が教会の中に入るのを待ってから、こっそりと茂みを出た。

 足元に置いた小さな鞄がある。それ以外に僕の荷物はない。ご子息様は、隣町にある親戚筋のお屋敷も紹介してくれそうだったが、僕は断っていた。これからは、自分にできることを探して、世間を歩こうと思っている。

 街の中には木枯らしが吹いていた。人通りはまばらだ。そしてどこにも、争いごとや、喧嘩などは起きていない。

 薄暗い路地裏、かつて僕がいた場所を恐々覗いてみたら、誰もいなかった。僕ももう、ここに戻ることもないのだろう。

 僕の懐は、以前よりいくらか膨らんでいる。失ったものも大きかったが、得られたものがあったのも確かだ。しょげているのは、以前の自分に申し訳ない。

 街を囲む門を潜り、人の足で踏み固められた道を歩んでいく。戻る気は今のところない。でもいつか、時折でもいいから、彼らの間で僕の話題が上ったら。

 想像していると、視界が滲んで、慌てて袖で顔を拭いた。嗚咽の漏れるのを歯を噛み合わせて断ち切った。

 鼻をすすると、冬の冴えた空気が入り込む。おかげで眼尻はすぐに乾いてくれた。そのことが、今はとてもありがたかった。

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便箋仲介人 泉宮糾一 @yunomiss

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