少女の《黄昏時》

長年使っている診察券の皺をなぞる。

それは忌々しきあの記憶を顕しているようにも、今まで生きてきた証を誇っているようにもみえた。


すっかり常連になってしまった病院の埃臭い空気を鼻腔いっぱいに吸い込む。別に年期の入ったものが好きとかそういうわけではないが、何故だかここの空気は好きだった。

誰かが見守ってくれているような。

誰かが護ってくれているような。

そんな温かい空気がこの病院には流れていた。


そんな考えを頭の外に打ち払いつつ、先程──病院に来る前に寄った図書館で借りた本の表紙に目を向ける。

随分と古い本だ。褪せた表紙にはタイトルと共に赤黒い目をした蛸のような顔をした生物が描かれている。その姿見を怖いと思う一方、すがりたいような、そんな尊敬に似たような感情もふつふつと湧き出てくる。先程からはて、自分はこういうものが好きだったのかという困惑で頭がいっぱいになってしまい、そのせいでせっかく借りてきたのに本題の中身を中々開けられずにいた。

肺に溜まってしまった重い空気を吐き出しつつ目を伏せ、少し浮き出た文字をそっとなぞる。

「クトゥルフ…神話……」

クトゥルフ神話。兄の話から唯一理解できた言葉。あの戦いが何を物語っているのか、そしてあの《神様》が何なのか。


きっと真相は、ここにある。

知りたいことは、きっと、ここに。

ごくりと生唾を飲みこむ。

そして褪せたページを一枚、ゆっくりと捲った。




カチリ、カチリと秒針が響く。

その《造られた規則正しい音》がぼくには気持ちよく聞こえる。

人類は今までにどれだけの文明を開化させてきたのだろう。それがいとも簡単に壊されてしまう《積み木の城》だと知らずに。


まだ貴女は知らないのだろう。

誰かが動きだしたのを。

誰かが欠伸を噛み殺し眠たげな瞼を起こしたのも。

誰かがねばついた目線を貴女に寄越しているのも。

誰かにどこかの《角》から睨まれているのも。

《彼ら》が人でないことも。

先程まではまだ全て知らない、ただ純粋な少女だった。

ただ貴女が《その本》を知ってしまったならば。

貴女の行く先は決まってしまった。

そう、ただ世界の裏側に引きずり込まれるだけの未来へと貴女の道は決まってしまった。

貴女がそれを知ったらどんな反応をするだろうか。

きっと負の感情が貴女の心を支配するだろう。


だけどぼくは貴女の門出を祝おう。

我が主の為だけに吹いていたぼくの笛の音で。

──まぁ本当は我が主の気に障るかもしれないようなことは止めた方がいいのだが。

嗚呼、我が主。今日だけは見逃してください。この笛で貴方への《子守唄》ではない音を奏でることを。



今日は少女の黄昏時ラグナロクなのだから。





ひゅう、と肌寒い風と共に甲高い音が空気を軋ませた。

それは今までに聞いたことがないような音だった。その音を無理やり説明するならば──ああ、強いて言えばフルートのような音色だろうか。

通行人は何だ何だと辺りを見回すだろう。それは好奇心か、あるいは欠落した警戒心か。

そしてそんな姿を見て独りの神は冷笑するのだ。だがその冷笑はただ嘲笑っているだけではない。彼はこの《余興の舞台》がいつの日か崩れ去るのを悩ましくも思っているのだ。


そんな感情を言葉で著すならば《憂慮》だろうか。


──まぁ残念ながらその感情も、子を心配する親のような愛情深いものではない、ただの退屈しのぎの延長に生まれたものなのだが。



だが彼にもいつか知る日が来るだろう。誰かを心の底から護りたいと思える《憂慮》を知る日が。

全てを冷笑する《這いよる混沌》。

そんな彼の名を『ナイアーラトテップ』といった。

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ラトテップの憂慮 Gnu @kuroari_Gnu

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